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母の命日、私が最後にできた親孝行

5月8日午前12時01分
「ご臨終です。」

夢ではなかった。
お医者さんは、たしかにそう言った。

その瞬間、私は自分でも信じられないくらい大きな叫び声をあげて泣いていた。

横から手を握られ振り向くと、普段は絶対に泣かない兄が泣いていた。

おばあちゃんは、ただひたすら母の名前を呼んでいた。


2022年5月8日
今年の母の日は、母の命日となった。

以前noteに書いたが、私の母は1年半前から末期癌だった。


とうとう最後かもしれないと思い、私は仕事のある東京を離れ、実家に戻って母の介護をしていた。

余命が少ないとわかって一緒に過ごしていたけれど、
やはり別れは突然で、後悔も数えきれないほどある。


突然だが、あなたは親の死について考えてことがあるだろうか?

自分が親よりも早く死なない限り、
親の死は誰もが経験すること。

私は早くも23歳で、2度経験した。
(11歳で父、23歳で母)


どうしようもない悲しさ
ふと押しよせる寂しさ
先の見えない将来への不安
考えれば考えるほど浮かんでくる後悔
1人になったときに急に感じる孤独感


人生でこんなにも辛くて涙があふれる出来事は、
この先あるのだろうか?

私は母の死から立ち直ることができるのだろうか?


しかし、「孤独は本当に大切なものに気づかせてくれる」という言葉があるように、

大好きな母との別れも、
幼きころの父との別れも、
私にたくさんの大切なことを教えてくれた。


母と一緒に過ごした最後の1か月。
母が亡くなってから、手続きや片付けに追われた1か月。


このnoteでは、この2か月間の葛藤と
母が最後に教えてくれたことについて書こうと思う。


親の死は、決して悲しいことばかりではない。

後悔して自分を苦しめる必要なんてない。


このnoteが、同じように身近な人の死に悲しむ人や
大切な人との別れが近い人に届いたら嬉しいです。

リモートワークと介護の両立

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実家でリモートワークの様子

4月から私は、実家に帰り完全リモートで働いていた。

これも前のnoteに書いたが、
一緒に暮らすおじさんと二人三脚で母の介護を始めたのである。

東京での暮らしから一転、朝6時から朝ごはんの準備、洗濯、軽い掃除、昼休憩で昼食を作り、仕事が終われば犬の散歩と夕飯の支度。

東京の生活とはかけ離れた暮らしになった。

別に、この生活が私にとって苦なわけではなかった。

むしろ、母と一緒に過ごせるかけがえのない時間であった。

私の作ったご飯を美味しいと言って食べてくれたとき
お風呂のときに聞かせてくれた母の若い頃の話
お昼の時間に一緒に聞くラジオ
10時と15時の恒例、おやつタイム

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天気のいい日はベランダでお茶することもあった

もう昔のように、何かをやってもらえる訳ではないが、
反対に私が母に何かやってあげられることが、とても嬉しかった。

しかし、介護とリモートワークの両立は、こんなに順調には続かなかった。


母を泣かせてしまったおじさんとの喧嘩

4月の下旬ころから母は急に具合が悪くなった。

ご飯を食べる量も半分、
自力でトイレや歩くことも難しくなり、
ペンで文字を書くこともできなくなってしまった。

急に弱ってしまった母に、私も混乱した。

頑張ってご飯を作っても半分も食べてもらえないし、
仕事中に突然呼ばれることもしばしば。


常に「痛い、痛い」と体の節々を痛がる母を目の前に、
私は体をさすってあげることしかできなかった。


実家で介護を始めて約1か月。

早くも私は、疲れとストレスが溜まってしまっていた。

私だって、少しはリフレッシュしたい。


ちょうどGWも重なって、私は3日間ほど母のお世話はおじさんに任せて、友達と遊びに出かけた。

夜遅くに家に帰って、母を心配させてしまうこともあった。

それがきっかけで、おじさんと大喧嘩になってしまったのだ。

しかも、母の目の前で。

誰も得をしない言い合いをして母の泣かせてしまった夜のことは、今思い出すだけだけでも辛い。

翌朝、「お母さん、みんなに迷惑かけるから、もう病院に入ったほうがいいのかな」


そんなふうに言う母に、私は何も言葉をかけてあげることができなかった。


この出来事が取返しのつかない事になるなんて、
このときは想像もしていなかった。


いとこの結婚式

5月7日

この日は、いとこの結婚式があった。

もともと母も参加する予定で頑張っていたが、
体調が良くないため、欠席。

家からは、私1人で行くことになった。


結婚式の披露宴では、
新郎新婦の誕生から結婚までの生い立ちムービー、
親への感謝の手紙、サプライズの生演奏などがあって、とても感動的な結婚式だった。

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「私の結婚式は、母に見せてあげられないのかぁ」

帰りの電車の中、私は頭の中でぼんやりとそんなことを考えていた。


「だったら、今は精一杯頑張って感謝を伝えよう」

母の介護から逃げてしまいたいと思っていたが、
この結婚式がきっかけで、今は母のことを一番に優先して頑張ろうと、決めたのであった。


そんなふうに思った矢先の出来事だった。


5月8日 明朝

結婚式から帰った日、
母はもう二度と目を覚まさなかった。

家を出るときに交わした
「いってきます」
「いってらっしゃい」

これが母と最後の会話だなんて、信じたくなかった。


お葬式で果たせた最後の約束

それからと言うと、お通夜に葬式にと事が淡々と進んでいった。

私と兄は、葬儀屋さんの手配、知り合いへの連絡、保険や銀行の手続きなどと、悲しむ暇もなくやらなければならない事に追われた。


そんな時、私は母に言われた言葉を思い出した。

「お葬式は、お花でいっぱいにしてね。
菊じゃなくて、トルコキキョウがいい」

トルコキキョウ:花言葉は“優美”

母が亡くなる2週間ほど前、私は母にこう言われていたのだ。

だから、私は何としてでも祭壇には菊ではなく、
トルコキキョウを飾って欲しいと、葬儀屋の人にお願いした。

親戚の人にも協力してもらい、母のお葬式はかわいいトルコキキョウのお花でうめつくされた。

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実際の写真

「ここまでお花でいっぱいなお葬式は、見たことがありません」
葬儀屋の人も驚いていた。

トルコキキョウは、お葬式としては珍しく、お店でも数本しか置いていないところが多い。そのため、親戚の人が町中の花屋からトルコキキョウを集めてくれた。


みんなの協力があって叶えられた、私と母の最後の約束


トルコキキョウでいっぱいの祭壇を見て、私は心からホッとした。

「お母さんも喜んでくれているかなぁ。」

さらに、おじさんの提案で母の好きだった曲「ハナミズキ」を、母の習っていたフルートの先生に来てもらい、葬儀の最後に生演奏してもらった。


母の周りは大好きな花で埋め尽くされ、
お気に入りの曲「ハナミズキ」が流れる会場で、
家族、親戚、友人みんなに囲まれて、最後のお見送りをすることができた。


改めて、周りの人に感謝するとともに、
これだけの人が母のために協力してくれる、
母の偉大さを知った。


亡くなってから知った母の新しい一面

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母の所属していたフルートオーケストラ

それから私は、母の友人や関わりのあった人と連絡をとり、今まで知らなった母の一面をたくさん知ることになる。

お母さんはね、周りをぱっと明るくさせる、ひまわりのような人だったよ。

会う時にはね、いつも手料理や素敵なお土産などを持ってきてくれたんよ。

子どもが怪我をしたと知ったら、広島から東京まですっ飛んでいく、行動力のある人だったよね。

友達同士で集まると、お茶目でかわいい人だったんよ。


母の友人、近所の人、フルートの先生、そして最後まで側にいたおじさん。

その人たちから聞く話の中で、私は今まで知らなかった母の新しい一面とたくさん出会うことができた。

その度に、心の中に明かりがともされていく感覚がした。

家族を失うことは悲しいけれど、
決して悪いことばかりではない

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ベランダで日向ぼっこするクッキーと母

この1か月、たくさん泣いたけど、
決して悲しい涙だけではなかった。

母の友人から言われた言葉を、私は一生忘れない。

「お母さんは、いつもなっちゃんとお兄ちゃんのことを一番に考えていてね、とっても優しくて強いお母さんだったよ。だから、誇りをもって生きなさい」

20代で母も父もいなくて、この先困ったとき誰に頼ったらいいんだろうと不安で仕方なかった。

でも、両親はもう十分私たちに大切なものを与えてくれていた。


人が死んだとき、残るものは一体何だろう?

家や持ち物、家族に残したお金

もちろん、これらもとっても大切なものだけど、

私はそれ以上に、

その人の人間性や人に与えてきたもの、及ぼした影響

こういった目に映らないけど、人が生きてきた証となるものが、死んだときに、これまで関わってきた人たちの心の中に残るのだと思う。


よく人は、「人は死んでも、心の中ではずっと生き続ける」と言う。

それは、その人がこれまでの人生で「どんなふうに人と関わり、周囲に何を与えてきたのか」によって変わるのだと、思う。


母の強さ、優しさ、可愛さ、しなやかさ、美しさ

母が私の心の中に残してくれたものは、
この先、私が辛くなった時の心の支えになるに違いない。

「親の死」が教えてくれたこと

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私は23歳にして、親の死に目に2度会った。

「人の死」というのを身近に経験してきたからこそ、
わかることがある。

当たりまえだけど、人はいつか死ぬ。

いま感じている幸せはずっとは続かないし、
同じように、いま感じている苦しみもずっと続かない。


人の死を、違う世界への「おでかけ」と言う人もいる。

母は亡くなる数日前、夢を見たと言っていた。
川の向こうでお父さんが手を振っていたらしい。

残されるものは、その手を引き止めたくなる。

しかし、母はちょっと遠い所へ出かけただけで、
またいつかどこかで会えるのかもしれない。

きっと母は今、違う世界で13年ぶりに父と再会を果たしているだろう。

そう思うと、私は今年で24歳。
あとこの3倍くらいは生きる。


母とまた会うことができるのなら、
今は自分の人生を思いっきり生きよう

そう思った。

親が死んで後悔しない人なんていない

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最後のおでかけになった野呂山での花見

母の余命が少ないとわかってから
周りの人から「後悔しないようにしなよ」
耳にタコができるほど言われてきた。

しかし、どうだろうか。

大切な人が死んだ時に、後悔しない人なんているだろうか?


自分にとって何か悪い事が起きたとき、
「あの時、AではなくBを選択していたら、こんなことにはなっていなかったんじゃないか?」と考えるのは当たり前のことである。

仮にBを選択していたとして、同じ結末だとしても、
Aを選択しなかったことに後悔するだろう。

選択しなかった方で起きる未来なんて、
誰もわかるはずがない。

私にだって、後悔はたくさんある。

東京ではなく、地元に就職していたら…

あの時、もっと母の体調を気遣ってあげていたら…

もっと早く実家に帰って側にいてあげられていたら…

あの時、おじさんと喧嘩なんてしなかったら…


私が就職のことで、母と大バトルを繰り広げたことも
母の寿命を縮めた要因の1つのではないかと、今更考えることもある。

↓そのときのことを書いたnote


母が亡くなった今、後悔なんてここに書ききれないほど、たくさんある。


余命が少ないとわかっていたはずなのに、なんでもっと感謝を伝えたり優しくできなかったんだろう。

本当に馬鹿だよなぁと思う。

そして、後悔1つ1つに自分を苦しめる罪悪感が募る。

正直、辛くなるばっかりで現実は何1つ変らない。

それならば、もうこんなふうに後ろ向きばかりになるのは、やめようじゃないか。

私が最後にできる親孝行


人は、本当にいつ死ぬかなんてわからない。

朝、家を出るときに、もう会えなくなるかもしれないなんて思わない。

これは自分自身にも言えることで、
自分だって、明日死ぬかもしれない。

だからこそ、過去の自分を責めるより、
今日という1日を少しでも後悔なく過ごすほうが、よっぽど大切なのではないだろうか。

そんな大げさなことをしなくていい。

「今の自分にできること」をして、ベッドに入ったときに「今日もいい1日だった」と思えたら、それでいい。

それだけで、人生はもっと素晴らしくなるんじゃないだろうか。

小さなことでいい。

離れて暮らす親に電話をかけてみたり、
大切な人に「ありがとう」と伝えてみたり、
人にちょっと優しくしたり、
いつもより美味しいご飯を食べたり、
くだらないことで笑ってみたり

こんなふうに日々を過ごしたとしても、過去の後悔がなくなるわけではないし、失ったものが戻ってくるわけでもない。

しかし、確実に一歩前に進むことができる

母が亡くなってからもそうだった。
その時の私にできることは、ちゃんと母とお別れをすることであった。


母が息をしなくなった瞬間を一番側で見守った。

冷たくなった母を、自分の体温で感じた。

最後に母のお気に入りだった服を着せてあげて、お化粧をしてあげた。

霊柩車で運ばれていく様子をちゃんと見届けた。

遺骨になった姿を見て、その骨を1つ1つ丁寧に拾った。

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見たくないと思う現実でも、
涙で目の前が見えなくなっても、
ちゃんとこの目で全部見た。

この先、私がちゃんと前を向いて歩けるように、
母が安心してお出かけができるように、
私は母の最期をしっかりと見届けるようにした。

それが、私が最後にできる親孝行だったのかもしれない。

最後に

2022年4月、5月

地元で過ごしたこの2か月は、
私にたくさんのことを教えてくれた。

ここまで読んでくれたみなさんに、
最後にお伝えしておきたい。

それは、家族について。

家族は、幸せを一緒に分かち合う以上に、
辛い時に1番側にいてくれる存在。

自分がどのような状況でも、どのような形であれ、
1番の味方をしてくれる、それが私の思う家族という存在。

悲しみを半分こして、いろんなことを乗り越えていく。

これまでの人生で本当に辛いことがあった時、
涙しながら電話できるのは、母と兄だった。

そんな家族の偉大さを、改めて感じた2か月だった。


私は、また6月から東京に戻って仕事に復帰する。

不安なことは山ほどあるが、こんなふうにnoteを書くことが、自分自身のけじめをつけることにもなる。


これまで以上に自立して、母のような優しくて強い、
人の心にポッと明るい光をともせる人になれるように前を向いて歩いていこうと思う。


長々と書いてしましましたが、このnoteがあなたの力や気づきになっていれば、嬉しいです。

最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。

追記・・・

それから1ヶ月後・・・

私は、会社を辞めて家を捨てました。

人生、何があるかわからないですね!

引き続き、前を向いて歩いていきます。

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