【小説】無分別なポパイ

なに書いてもいいか。裏アカウント*だし。

(注*:これは、筆者が、より自由に本音を吐露するために、裏アカウントをわざわざ作ってそこに投稿しようかと思って書いた文章。実際には作らず、いつも通りここに投稿することにした。)

表アカウントでは、結局、どんな人が見てるかとか、そういうのに縛られてた。気分的に。あそこでは、そんな意識の中で書くことになる。

文学とか、文章とかって、本質的には、なにを書いてもいいはずでは?違うのか?もしかしたら、違うかもしれない。でも、そう思いたい。

文章が、一文目から二文目、三文目と進んでいく際に、さらには段落の進行においても、世のこれまでの書き手が辿ってきたのとは違う経路を辿ることに意義があると、俺は信じてる。俺は文章をそういう関心で読んできた。

だから、ランボーが「かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった、」と、他人にとってはどうでもいいような、単なる自意識の発露みたいな書き出しをしてるのを見て「へ〜、それでいいんだ」と、感化されてしまったし。ランボーに限らず、純文学はだいたいそうかもしれない。ポール・ヴァレリーは「馬鹿なことは得意ではない」で書き出してたような。あと、最近存在を思い出したリルケ。ネットで検索してたら、『マルテの手記』の出だし部分と思われる文を見つけて、そういやこんなだったなと思った「人々は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。」とか……あ、これはいま関係がなかった。これはむしろ、自由な書き出しとは正反対の、いかにも、多くの読者の共感を獲得するためのあざとい内容だ。これを読んだのは俺が高校生の時だから、まあ、こういう「いかにも」な内容であっても、ネガティブな内容が書かれてるのが珍しかったのか、惹かれたのだった。

文章が自由に書き出されて、そして展開していくこと。「新しい文体」が云々と、俺は散々口にしてた。文体が新しくないと価値がない、と俺は思ってたし、いまも思ってる。と思う。文体自体は世間の文章と同じで、中身だけを変えたような文章は、記事としては読めても、それ以上の興味が湧かない。もっとも、文体と中身の区別なんて曖昧だ。あくまでも主観的なイメージにすぎない。

文体が新しいというのは、語り手の取る態度が、語り手の関心が、振る舞いが、世の中における既存の在り方と根本的にできるだけ関係がなく、そういうものと直接関係のない仕方で、それ自体で存在してることだと思う。それはすなわち、その人の主観に大々的に立脚してることだ……は、飛躍しすぎか。しかし、どのみち、俺は文章表現において、そこへ向かっていこうとしている。自分の主観ばかりで文章を構成するなんて自己陶酔的なこと、普通、人はやらないでしょう。それをやれるのが純文学なのかなと思うんだが。普通なら、小説らしいものを書きにいったり、随筆らしいものを書きにいったり、記事を書きにいったり、ブログを書きにいったりと、客観的に見て「それらしいもの」の質や形を目指して、つまり既存の在り方に向かっていくでしょう。ただただ自分の主観ばかりで大々的に内容を構成するなんて、通常の振る舞いではなく、明らかに自意識過剰ではないか。

文体を、物凄い時間をかけてじっくり構築していく、みたいなことも考えた。そういう意見を小説家が書いていたのを見たことがあるし、また、文章や作品を見ても、そういうふうに書かれていると思われるものって、結構見かける。そういうのってなんかわかる気がしない?これは時間をかけて構築された文章だな、という感触。例えば、トルーマン・カポーティの短編からそういう印象を受けた。先の『マルテの手記』の序盤もそんなだったかも。あくまでも印象で、事実かどうかは知らない。事実かどうかは直接関係がない。仮に、実際にはサラサラと書かれたものであったとしても、その結果が、不自然さだとか、無理して言ってる感のあるものと受け止められるのであれば、結局そういうものなわけじゃん。結果としてどう受け止められるものになっているかが、最終的には重要ではある。

サラサラと書く、という言い方をしたけど、まあ、別に、そういうのが必ずしも良いと思ってるわけではない。ただ、そうではない、じっくり構築していったものって、「演技」じゃん、と感じる。いや、別に、演技でもいいんだけど。あの娘も、あなたも、俺も、みな演技して生きている。TPOをわきまえたり、郷に入っては郷に従えとか、文脈に即した振る舞いをしたりする社会性は、演技といえば演技だ。そして、そんな言い方をする必要も特にない。社会的で、真っ当な振る舞いだから。だから、文章においても、目新しさを目指して、一生懸命構築していくことは意義があり、普通に良いことだと思う。でも、なんというか、「演技しないで振る舞えるという、そういう道が存在する予感がする」んだよ、俺は。

演技するの、面倒だからね。それを技術と捉える人は確実にいるだろうし、界隈によっては間違いなくそうだろう。ただ、文章は人の「直接の」振る舞いじゃん。あなたは、文章とは関係なく、日常で、素を出して振る舞っているか?振る舞「え」ているか?素を出すことは良いことかと聞かれれば、それはYesだ。素を100%出すのは違うけど。100%出したらワガママになってしまうからだめだ。だけど、素を出すことは、基本的には良いことだと思う。だって、でなければ、人と関わるのに疲れてしまう。

この文章はまさに、表のアカウントで俺がなんだか素を出して振る舞えなくなってきたので、裏アカウントとして誰も見ていないところに書き始めたということなんじゃないか?あー、そういうことか。自分で納得した。表アカウントでは、「こうこう、こういったものを書くべきだ」という縛りが感じられるようになってきて、書くことに息苦しさがあった。その縛りは、noteであることや、誰々が見ているということや、これまで自分が投稿してきたものなどといった、あらゆる点、文脈に影響されて形成されていったものだろうし、なにより、自分自身が先入観として勝手に抱いてしまっているところも、きっとかなり大きいはずだ。

まず、特筆性のあることをわざわざ「ちゃんと」言いに行こうとする必要がないんじゃないか?以前、俺は「自分だけが美しい」とかなんとか書いたけど、そういう、ただ逆説をぶっ放しておけばいいでしょみたいなの、幼稚で馬鹿馬鹿しい。自分で書いてて、くだらないなとどこかで感じてた。逆説には一定の特筆性があるから、それを書くことが物書きの醍醐味といった風潮がありーーそもそも、高校時、そう教わった。逆説が言えれば強い、とーー、そういう巷の物書きの振る舞いを、俺もなんとなしに踏襲したのだった。

しかし、その書き方は「記事らしいもの」を書きにいこうという、枠に捉われた行為であるとどことなく感じていたし、それだけでなく、過激なことや前衛的なことを言わなければいけないような、そんな流れを自分で作ってしまっていたところがあり、いつのまにか、本意からものを書くのではなく、やらされている感じが生まれていた。

新しい文体の話だった。よね?忘れてきた。じっくり構築して作るのも良いが、それは自分の創作意欲ではない、ということだ。そうではないものに可能性や「やってみたい」という気持ちを感じる。で、じゃあ、結果として、その新しい文体とやらは一体どんなものなのかと考えると、先にも言ったのが「既存の在り方と(できるだけ)直接関係のない在り方」だった。そしてそれはまさに、一個人のしがない主観で間に合うではないか、と!そういう開き直りを大発明と銘打って、客観を無視して好き放題に書き、自分だけ楽しく生きていこうという算段であった。ハハハ。

「既存の在り方」っていうのは、例えば小説だったら事件らしい事件が起きないといけない、とか、そういうのだ。そもそも登場人物がいたり、とか。そういうのはあらゆる点において存在する。そこで、やっぱり、「新しい特筆性」に到達するのが目標でしょう、特に純文学とか、芸術とかを目指すのであれば。「これには特筆性がある」と「わざわざ」主張するってことは、つまり、それは既存の価値観から見れば特筆性のないことなんだよ、極端に言えば。あくまでも、極端に言えば、だ。もちろん、ただ気をてらっただけ、というのも、当然、避けたい。

すると、なんというか、なんだか「自然と噛み合ってくる」ような予感がするんだよ。なにがって、既存の在り方の上での特筆性ではなく、それでいて同時に、全くにデタラメで無意味な奇行でもないもの、それは自分の主観そのものではないか、と。この考え、つじつまが合って、しっくりくるような、なんとなくだけど、そんな感覚がある。文章の構成が自分の主観にほとんどそのまま基づいて、その社会で主流な文章がこぞって備える性質や展開を備えず、独自の観点から世界や人生を捉えたもの。ホラ、なんかこれ、文学じゃん(笑)。それが本音で書かれていれば、それがどんなに偏った視点や考えばかり持ち出されたものであったとしても、そいつ自身が本当に本音で本気で考えていることなら、迫真さは自然と宿るんじゃないか。それどころか、偏ってるほど個性的ということになる。既存の作家が取った路線や態度に即してしかものを見られないのは、それはそいつの限界であり、そしてこれはなんらかの点では誰にでも当てはまることだ。だから、表現者は、芸術としての表現者は、蔑視を恐れることだけは、してはいけない、と。そこには抵抗していかなければいけない、と。ま、立派なコト言えばそういうことですな。

文章が、例えばね、小説として提示されようが、随筆として提示されようが、あるいは評論として提示されようが、その形式として見慣れた展開を取るのでなく、例えばひたすら「文章をどう書くべきか」とか「文体とはなんだろう」ということばかりを偏執的に追っていったとしても、だからといって直ちに「それは小説(随筆、評論)ではない」となるわけではないのではないか?新しい表現、新しい内容、すなわち新しい特筆性を目指して作られるわけだから、根本的には内容は自由なはずだ。創作は、根本的には自由なはずだ。

しかし、「根本的には」と断ってる点に、現実の問題がある。別に難しく考えることなく、既存のものとかけ離れ「すぎて」いれば、その分だけ、受け入れられにくくなる。受け入れてくれる人は少なくなるし、また、そのための時間も、よりかかるだろう。別に普通のことだ。無理なく想像できる。

その意味で、やっぱり、既存の権力者や年長者ほど、新しいものには開かれていないのだ。俺自身、年齢は非公開だが(笑)、すでに新しい音楽を全然受け付けない。このことには少し悩んでいる。また別の機会にこれについて書くかも。

だから、芸術として新しいものや創造性を目指す場合、既存の価値観から下される評価を恐れてはいけないのだ。それどころか、空元気でも、堂々としているべきなんだ。

新しいということは、その分だけ、既存の価値観や在り方に対する否定でもあり得る。既存の権力は良い顔しないだろう。既存のものごとをできるだけ否定しないようにして、なおかつ新しさを持ち込むことができれば、それは広く受け入れられ、すなわちヒット作となる、と。ヒットしたければ、既存の価値観と、より上手く付き合っていく必要がある。

俺のこの文章はといえば、これは小説というほど小説ではないし、随筆といえば随筆だけど、なんかちょっと違うというか、体験よりも主張の方が多い。かと言って、評論でもない。それらの特徴を併せ持ちつつも、既存の枠組みからしてみれば在り方が釈然としない、曖昧なものであろう。これをこれ自体で理解できないのであれば。こういうものを人は中途半端と呼びそうだし、小説くずれであり、随筆くずれであり、評論くずれと見なせそうだ。しかし、その時点で、そのことがむしろ、この文章が持つ新しさの証拠であり、保証になっているのだと、俺は確信する(空元気)。名前が付かないものを作ることに成功したということなのだ。

この文章は、小説を書こうとするわけでもなく、随筆を書こうとするわけでもなく、評論や哲学そのものでもないだろう。俺が自分の主観や興味を、別物に料理せずに素材のそのままの形で書くという、非社会的で無益そうな行為を行った結果の文章だ。誰からも何ともみなされないであろう。哲学者のジル・ドゥルーズの言葉に「哲学書は一種の推理小説である」というような言葉があったのを覚えている。『差異と反復』という本だった。哲学書に書かれる思想は、教師が生徒に物事を教えるというような明快な書かれ方がされているものとは限らず、推理小説のように、見えない全貌を、読者が自身の考えを駆使して解き明かしたり、そもそもそれを娯楽として楽しんだり、などといった示唆のある言葉だ。

俺なりに、俺が書いているこの文章を表現するならば、「思索小説」(あるいは「内省小説」)とでも言ったものかもしれない。小説として、登場人物もいなければ、出来事があるわけでもない。しかし、評論や哲学かと言えば、そう呼ぶにしてはあまりにも内容がカジュアルで、その意味では「“小”説」と呼ぶにふさわしい。小説とは元来、明治期に、それまであった、孔子など偉人の教えである「大説」に対する、取るに足らない言説という意味の、蔑みや自虐の呼称であったようだ。

このような、自分で「思索小説」などという、既存の小説でも哲学でも随筆でもない(随筆と言えば普通に随筆だが)文章を書くのは、そういった、既存の「それがそれとして、確固たるひとつのものごととして広く一般的に認められ、他のものと明確に区別されるもの」に自分が成りに行くのが億劫であり、また、哲学をかじった以上、それが無粋なことに思えたからだ。なぜ先人と同じ肩書きを目指さなければいけない?と。そんな野心めいたものを抱いたのだ。

このへんで、一旦、本稿を終わりにしようかな。この文章、裏アカウントなどを作ってそこに吐き出そうと思って自由に書いたものだったけど、別に愚痴や批判がそんなに出るわけでもなく、それどころか、普段書いているものよりも落ち着いた、冷静に内省を吐露するものとなったかも。普段は、なんというか、過激なことを言いにいくみたいな、自分で勝手に作ったキャラクターのイメージのせいか、また、諸々の文脈のせいで、自分の本意とは違う方向に文章を書かなければいけないような雰囲気が自分の中にあり、やりにくかった。今回のこの文章は、「思索小説」だなどと銘打ってみたが、とどのつまり、ただのブログと変わらない。そんなこともないか……?吐露される自意識や語り手の位置付け、文章の展開や長さ、背伸びするところも含めて等身大の自分(屁理屈か?)を、既存の文脈とあまり関係のない仕方を心がけて、書き連ねてみた。Youtubeの生配信とか、ゲーム実況とか、そんなつもりで。そう考えると、なんか良いね。楽しいかも。既存のという意味では、テーマのない文章というわけだ。強いて言うなら「自分」ないしは「自分の考えてること」(笑)。そのような自己中心なくだらないテーマの文章を、それとしての意思を持って書いているというのは、やっぱり新しいことなのではないか?そういうことにして、今回はここで終わり。この文体でまた書いていけたらいくかも。

追記.

いま、何度目かでこの文章を読み返してみた感想は、この文章は、たしかに、語り手自身の興味関心だけをただひたすら追った文章であり、展開や読みどころが、客観的な視点から楽しめるように用意されているとは言い難い。語り手は、自分の興味関心だけに基づく自身の語りに「ついて来い」と読者に迫ってるわけだ。語り手の主観によれば、嘘偽りなく充実した内容がある、と。語り手はそう考えているらしい。

こう書いてみて、そんな文章(作品)、ごまんとあるような気がするが……。だから俺は、他人の文章を読むのが好きじゃなくなったんだ。どこへ連れて行かれるかわからないから。目的地のわからない車に乗り込むようなものではないか。自殺行為だ。「楽しいじゃん」と言い出す人もいそうだが。俺は誰の文章を読んでも「なぜそっちへ行く?」と違和感を感じるようになり、それで本を読まなくなった。そして、では、自分で書いてみた結果、この有り様だ。俺以外の全人類にとって「なぜそっちへ行く?」と感じられる究極の個人劇場となった。こう書くと、成功のように聞こえる。不思議。

地上の我々の一人一人は、みな違った方向を向いているが、それぞれが前を見ているというわけだ。うわ〜、名言。

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