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【掌編】『小噺みっつ』

【春の小噺】

春先はいつも、くしゃみが出る。
だけど花粉症ではないはずだ。
嫌がる人もいるからマスクは欠かさない。
でも、静かな場所でくしゃみが出そうになると、とても困る。

それが今だ。

平日の午前、客のまばらな純喫茶。
クラシックが薄く流れる店内で、僕は珈琲カップ片手に、くしゅ、くしゅ、と何とか音を抑える。

何度かそれを繰り返していると、僕と空席3つ分離れたカウンターの隅に座る若い女性がチラリとこちらを見た。
目が合ったので、ほんの少し頭を下げる。
すると女性が小さな声で僕に言った。

「お席、代わりましょうか?」

言葉の意味が判らなかった僕は一瞬、不意を突かれた様に固まった後、
「あ、ああ、はい」
と答えた。

女性は自分の前にあるカップを手に立ち上がり、僕の席へとやってきた。
僕もあわてて、カップを手に頭を下げながら、女性の脇を通り、隅の席へと移動した。

椅子に座り、息を吐き、とりあえず珈琲に口をつける。
そして、よく判らないまま、少しドキドキしながら、席を入れ替わった女性にまた頭を下げる。
女性は微笑みで答えてくれた。

落ち着こうと、また珈琲をひと口飲む。
薄く流れるクラシックに耳を傾ける。
音楽に先入観を持ちたくないから全く知識がない。
これはバッハなのか、モーツァルトなのか。

ふう..
気がつくと僕のくしゃみは止まっている。

なるほど、店の隅っこにいると妙な安心感がある。
こんな気づかいが出来るって..

しばらくすると、女性はカップを置き、ふたたび僕に微笑んで、店を後にした。

それはまるで、春風の様な..
しかし、詮索は無粋だろう。

春の日の、ほんの些細な出来事..


【冬の小噺】

「一昨日、メチャクチャ寒かったじゃない。だから暖まろうと思ってさ、夜、中華の店に入ってタンメン頼もうとしたんだよ。でも歯がカチカチなる位、カラダが冷えてたからさ、なかなか注文出来ないんだよ!タ、タ、タ、タン、タン、ってさ。店員の子もちょっと引いてたんだけど、何とか頼んだの。それで席で待ってたらさ、店員の子が、タンタン麺持ってきたんだよ!」
山下幸二(32歳.会社員)


【優しいセカイ】

「先生の作品に足りないのは、優しい味付けなんです!」
1カ月前から俺の担当になった編集者、斎藤優が目の前で吠えた。
デビュー35年のベテラン漫画家の俺が、なんでこんな小娘に..
一瞬、そう思ったものの、落ち目の俺への愛ある助言なのだと思い直し、俺は言葉を返した。
「いや、でも斎藤ちゃん、ハードコアな男の世界だけで35年やってきたのに、今さら優しい味付けなんて無理だよ」
斎藤優は一段と言葉を強めた。
「じゃあ、先生はこのまま時代遅れの漫画家として、落ちぶれて、忘れ去られて、のたれ死んでもいいんですか!」
「い、いや、何もそこまで..」

斎藤優は言葉を失った俺を見つめ、少し間を開け、優しいトーンで問う。
「ねえ、先生?そんなに変わるのが怖いんですか?」

ほう..
なるほど..
さすがは今ヒット作を連発している売れっ子編集者だ。
この若さながら、人心掌握術に長けている。
心を揺さぶられかけた俺は斎藤優に質問を投げた。
「でも..今、俺が書いてるのはボクシング漫画だよ。どうやって優しく味付けるのよ?」
斎藤優は再び熱く吠えた!
「そんなのいくらでもありますよ!殴られても、絶対に打ち返さない優しいボクサーとか!」
「い、いや、そ、それは変態だろう」
「暴力に訴えないことのどこが変態なんですか!え?答えて下さいよ!」
俺は反論を試みるが、斎藤優の勢いに押され、「ボ、ボクシングは暴力じゃないんだけど..」と呟くのが精一杯だった。

そんな俺を見た斎藤優は諭す様に、俺の目を見ながら語りかける。
「先生..変わりましょうよ。今変わらなきゃ、これからずっと変われませんよ。私、生まれ変わった先生が見たいんです。そして一緒に成長していきたいんです!」

その言葉は俺の心の奥底に届いた..

そして、俺の目から何かが溢れる..

「有り難う..斎藤ちゃん..」

斎藤優は赤くなった目で優しく頷いた。


1年後..

「先生、受賞おめでとうございます!」
斎藤優が俺の右手を両手で握る。
女性とは思えない力強さだ。
「このまま、突き進みましょう!」
「..ああ、斎藤ちゃんのお陰だよ」
斎藤優はハンカチを目に当てて答えた。
「いえ、先生が変わる勇気を出してくれたからですよ」
「ふふっ、そうなのかな」
俺は頷いて、左手に持ったトロフィーを見つめる。

【日本ギャグマンガ大賞】か..
シリアスなスポ根のつもりなんだが..

【劇終】


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