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春はピンクの呪文かける魔女たちの季節

春だ

『春は出会いと別れの時期』だなんて言葉とはほぼ無縁の立ち位置にいる僕は客観的にそれを感じている

高校を卒業して髪を染め始める女の子や、平日の昼間に卒業式を終えてスーツでぶらつく大学生

SNSに流れてくるひとり暮らしを始めたという報告

今年の春は少し苦手かもしれない

春だからって前向きになる人達を見て後ろ向きな自分が際立ってしまう

厚手のアウターは御役御免と言わんばかりにすっかり色を失った

僕は今日も自宅待機だった

ちゃんと朝に起きて、顔を洗って髭を剃って歯を磨いて、まだ袖を通していない春服に身を包もう、その辺をぶらぶらしてタバコを吸える喫茶店で本でも読もう

スーツで歩く大人たちを見るのは少し気が滅入るけど、それでも正常な生活リズムで動こう

土日は家に引きこもっても許されるのに、平日はちゃんと動かなきゃ社会に取り残される気がする

働いていた時と同じように7時30分には起きよう


そう考えて眠りについた数時間前の僕を裏切ることになってしまった

あぁ…また寝過ぎてしまったと後悔しながらダラダラと身を起こし、テーブルの上に放置したままのぬるくなったコーラで喉を潤す

花瓶に生けた紫色のチューリップの花びらが開いていた

タバコに火をつけ、その開いたチューリップの中心に目掛けて煙を吐く

昼の12時だった

「腹減ったな…」

誰もいないのにそう呟いた

声を出す

そしてその音を聴く

それだけで僕は規則正しく進む世界に繋がれている気になる

伸びた前髪が目に刺さった

とにかく起きなければ、と自分に鞭を入れて洗面所まで行き、顔を洗って髭を剃った

・・・・・

親子丼が食べたい…

ウーバーイーツでなか卯の親子丼を注文した

それから本を読み、映画を観てなんだかんだで18時になった

観た映画の舞台が僕の地元である富山県だった

そんなに時が経った訳でもないのに懐かしく思えた

作中で主人公達が乗る車が、とっくに潰れたボーリング場の駐車場に停車した

そこは僕が元カノとの待ち合わせに使っていた場所だった

彼女は年下でニートだったが今どうしているだろう

ふと彼女が好きだったお香を思い出して、引っ越してきた時から放置していたダンボールからそのお香を取り出して火をつけた

部屋に甘い香りが漂う

そこでハッと思い出した

リンスが切れたから薬局に買いに行かなければ

パジャマのまま鍵と財布とスマホとイヤホンをポケットに入れて外に出た


外は僕の部屋よりも温かく、明るい

薬局に着き、お酒やお惣菜や冷凍食品を買った

今日の夕飯は冷凍チャーハンとコロッケだ

そういえばコロッケって久々に食べるな、そうだソースも買わなければ

今日1日何もしていないくせに夜は酒を飲もうと決心して上善如水を買った

外に出て気付いた

そうだ、リンスを買わなくちゃいけないんだった、危ない危ない

背にしていた夕日にまた向き合い薬局に戻った

ひとり暮らしのくせに1000円以上するシャンプーとリンスを使う変な意地は変わらない

詰め替え用リンスを買った

レジの人が「こいつ買い忘れて戻ってきたんだな」って顔をしてた

はいそうですとも

気付いただけでも偉いでしょうよ褒めておくれよ


僕は行き先がどれだけ近くても僕は音楽を聴く

サニーデイ・サービスのセツナを流す

単調でありながら明度が高く鮮やかで爽快感があり

でもその中にも哀愁と気怠さと、失われた何かを惜しむような後悔の念が見える

僕の中ではセツナは春に聴きたくなる曲だ

でも、なぜだろう

歌詞には春を示唆する言葉は出てこないのに

夕暮れの街切り取ってピンクの呪文かける
魔女たちの季節
緩やかな放物線描き空落下する
パラシュートライダー
はじめっから汚れちまってる眠ることのない魂
また今日もいつものところで待ってる 
セツナの恋人

夕暮れの街は大人たちを見送っている

それとは逆に僕を迎えてくれる

生ぬるい風がスウェット越しに僕の肌を撫でる

春を感じる

今の感情はどう表せるだろう

希望?絶望?

喜悦?悲哀?

なんだろうと考えている隙に、この感情はもう僕の心から音もなく飛び出して消えていってしまう

絞り出そうとした言葉も行き場を失ったようで、淡い輪郭だけが僕の目の前に映る夕暮れの景色にピンク色のシミを付ける

その1秒にも満たないセツナが春なのだろう

春は、言葉を嫌う魔女が作り出す季節らしい

また今日もいつものところに帰る

富山のあの汚れちまった駐車場はもう「いつものところ」では無くなった

新しい「いつものところ」を探そうか

家に帰って、お香の甘い香りがまた僕にあることを思い出させた

あ、

切れてたの、リンスじゃなくてシャンプーだった

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