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個体差について。

私の作品のほとんどは、轆轤(ろくろ:映画ゴーストのあれね。ってずっと言ってるけどこれそろそろ通じなくなる世代いるんだろな。)で作っています。

「どうして同じかたちが作れるんですか!?すごい!」
と驚いてもらうことも多いのですが、
いやいやそんなことはないのです。

重ねられたお皿や、並んだマグカップをよーく見ると
それぞれの個体差が分かるかと思います。
少し高さが違ったり、立ち上がりのカーブの具合が違ったり。
微妙な色味や、濃淡の表情も、一つ一つが異なります。

それらの個体差を、私は「良し」としている。
量産品にはない愛しさだと感じ、受け入れている。

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もちろん、ろくろを挽いてかたちを作る工程において、基準となるサイズや角度は存在します。
トンボと呼ばれる道具でそれを測ったり、同じカーブを持った木のコテをあてて成形したりします。

それでも人間の手で作っている以上、どうしても微妙な違いは生まれるものです。

だからこそ、かたちに関しての良し悪しは、数値よりも、自分の目で見た感覚に頼ることが多いです。

この径とこの高さのバランスは気持ちがいいな。
このカーブの立ち上がりは美しいな。
もうちょっと厚みが欲しいね、あ、そうそうこのくらいだよね。

そういう判断を、自分の内側にある言語化できない基準と照らし合わせながら一つ一つ行なっているのです。

径◯センチ、高さ◯センチ、が合っていようと、しっくりこないものはこない。そういうものはボツです。

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色味や濃淡の表情に関しては、陶芸という世界では最後を窯に委ねます。
ある程度の知識と経験でコントロールできたとしても、熱による化学変化に、陶芸家は直接手を加えることができません。
最後の最後は神のみぞ知るってやつです。

これはもう自然の中から取り出す行為なので、ここに関しての良し悪しはほとんどありません。
ちょっと意外な結果が出てきても、「あ、なるほど、今回こういうかんじね。これもいいね。」という具合。
逆にそれは、陶芸の神様からの思わぬギフトのように感じることさえあります。
自分の想定を超えるような焼き上がりに対面したときの驚きと喜びは、しばらく一人でニヤニヤするかんじのソレです。

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窯から出したとき。
納品するとき。
お店に並んでいるとき。

たくさん揃ったうつわを眺めているときの感情は、やっぱり「愛しい」が全面的に溢れます。
ちょっと歪んだ部分や、濃淡が大きく出ているところなんかも、まるっとすべて「いいな」と思う。

けれど、
最終的にこのうつわたちは私の手元を離れます。

お客さんの手に渡り、家庭の食卓や、カフェやレストランで。
お料理が盛られ、デザートが載せられ、珈琲が注がれ。
温かな談笑や、一人くつろぐ時間の中に寄り添うことで完成するのです。

そのような場所でも、同じようにこの個体差を愛してもらえたら嬉しい。

私自身も消費者であるとき、
例えば木製のカッティングボードや一輪の花を選ぶとき。
似ているようで、よく見ると全然違う彼らの中から、そのときの私にいちばんしっくりくるものを手にして、愛しさとともに持ち帰ります。
そうやって選んだものは、日に日に愛着が増し、まるで自分の一部のように日常に溶け込む心強い味方になってくれます。

そんなふうに、うつわも選んでいただけたらとっても嬉しい。

作家の傲慢な願いかもしれないけれど、
そういう風景を想像しながら、今日も土をこねております。


読んでいただきありがとうございました! サポートしていただいた資金で美味しいものを食べて制作に励みます。餃子と焼肉とカオマンガイが好きです。