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悩むことができる、という長所

 私はしょっちゅう悩んでいます。最近でも自分の進退に悩んでいましたし、自分の生き方についても始終悩んでいます。大学の時、OBの先輩に「髙橋は悩みたくて悩んでいる」と言われましたが、その通りだと思います。
 かと思えば、明後日の方向に突然行動することもあり、我ながら難儀な性格だと思います。

 しょっちゅう悩み続け、考えや行動がふらふらしてしまいがちな私は、自分の考えをしっかり持ち、常に一貫した態度と行動をとっている人に憧れがあります。そういう態度を持っている一番身近な存在は、実はだったりします(非常に癪ですが)。
 父は自分の考え、価値観をしっかり持って、それに基づいた行動、発言を心掛けています。そのため、私の子どもの頃から言動は一致しています。逆に、だからこそ価値観の違う私の意見を聞いてくれないのですが……。まあ、あれだけ一貫しているのは凄いと素直に思います。

 
 しかし、私は最近、必ずしも悩むことが悪いとは限らないと思える話を聞きました。
 
 松葉舎の授業で、ある塾生の方から甲野善紀先生の次のような逸話を聞きました。
 何年か前に韓氏意拳の創始者 韓競辰 導師が来日し、講習会を開催した際、甲野先生が一度だけ指導を受けたことがあったそうです。甲野先生は日本の古武術を参考に探究したいという意志があったため、中国武術である韓氏意拳を体系的に学ぶつもりはない、と韓競辰 導師に伝えていたそうですが、講習会を見ていてつい参加してみたくなり、一度だけ手を取って指導してもらったそうです。
 すると、甲野先生は即座に韓導師の実力の高さを実感するとともに、自分が今まで探究していた技が「全部間違いだった!」ということを強い衝撃と共に感じたようでした。
 そしてその後、自分の技を高める方向が分かった喜びと、それ以上に自分がこの後武術研究家としてやっていく自信を失って悩まれたそうです。自分がやっていたことが全く見当違いであったため、自分は武術研究家としての道をあきらめた方が良いのではないかと思うほどにショックを受けたのです。
 結局は武術を探究することを続けられたのですが、一時は武術の道を捨てて物書きとしてやっていこうかとさえ思い詰めていたそうです。

 その話を塾生の方がされていて、甲野先生ほどの人が悩むのだったら自分にも今後衝撃を受けるような方法に出くわすかもしれない、とも話されていました。


 甲野先生は自分の現在の技を本気で未熟だと思っているので、常に今の自分の技を否定して新しい技を探究しています。よく甲野先生がおっしゃる例えで、自分が求める技のレベルを体育館の天井くらいの高さだとしたら、自分の実力は点字ブロックの凸くらいだ、というものがあります。それくらい、御自分の技術に常に満足していないのです。

 現在の自分を否定することや、自分の今までが間違いであることに気づくことで悩むことは、それだけ聞くとあまり一般的に良いとされる振る舞いではないように思えます。しかし、甲野先生は自らの探求のために常にあらゆる前提を排して、自分の中の既成概念さえ壊しながら進み続ける方なので、一般的にはあまり良いとされないこうした振る舞いも、御自身が進むために非常に大切な態度となっているのだと思います。

 もし甲野先生が、自分の技に絶対の自信を持ち、それ以外のものを受け付けない態度であったなら、韓導師の指導を一度でも受けようとしなかったでしょうし、受けたとしてもそこから何かを得ることは無かったでしょう。
 悩むことができる、ということはそこに変化への可能性が開かれていると言うことであり、それは柔軟性の表れでもあります。


 そう考えると、私がしょっちゅう悩んでしまうのも悪いことばかりでは無いかもしれません。私が悩むことができるということも、裏を返せば自分の変化することができる余地を持っていると言えなくもありません。
 実際、私が憧れている「自分の考えをしっかり持っている人」の代表格である父は、悩むことはたしかにありませんが、人の意見を受け入れることもほぼ無いです。少なくとも私の意見で父の意見が変わったことはありません。
 父の生き方にブレがないのは素晴らしいことですが、父とは違う意見を持つ私からすると、私がいくら意見を言っても父が受け入れないという状況は、「何言ってもこの人聞いてくれんやん」と虚しい気持ちを私に植え付けます。父と話をしたくなくなります。

 ブレの無い父とは逆で、私は人の意見を聞いたらとりあえず「それも一理あるなぁ」と思うことが多いので、複数の人から違う意見を聞いたら「それぞれに一理あるなぁ」と自分の意見が固まらないこともあります。
 ただ、自分の意見が人の意見で動いてしまうというのは逆に言えば人の意見を取り入れる余地があるとも言えます。そうであれば人の話を聞くこともできるでしょう。これは父のように意見にブレの無い人には無い長所と言えると思います。

 そもそも、私も悩もうとして悩んでいるというより、自分の傾向として勝手に悩んでしまうので、「悩もうとするまい」と思ったところで悩まないで済むわけではありません。
 ともかく、勝手に悩んでしまうなら、悩まないようにするのでなく、悩むという傾向の良い部分を伸ばす方が精神衛生上も良さそうです。
(どうでもいいですけど「悩」の字が怒涛のように出てきて面白いですね)

 悩めるというのは甲野先生の例のように一種の柔軟性でもあり、人の意見に左右されやすいと言うことは人の話をちゃんと聞こうとしているという表れでもある、ということで、悪い特性と考えないようにします。むしろ今後もっと悩もうかな。

  私は自分が人の意見ですぐに意見が変わってしょっちゅう悩むのを嫌だと思っていましたが、短所即長所なので、短所の部分だけでなく長所の部分をあえて見つめてみて、自分の嫌だと思っている特性を長所と捉える練習をして見ました。自分の文書に自分で励まされる感じがして面白かったです。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!