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自分が嫌悪しているものこそが自分が大事に思っていることなのかも

 昨日、鎌倉無銘さんのスペースにお邪魔させていただきました。

 先日の無銘さんのスペースにお邪魔した時に伺ったお話と、無銘さんのnote記事を拝見して、無銘さんがかつて自殺未遂を繰り返すほど苦しんでおられ、かつての御自身のように苦しみを抱えている方にその苦しみを解消できる力を持つ仏教の瞑想実践を届けたい、という思いがあるのを知りました。私はその目的に賛同したので、無銘さんのことを多くの人に知ってもらう手助けをしようと思いました。それが私が昨日のスペースにお邪魔した理由です。
 そして、無銘さんの目的をかなえるには、まず苦しみの渦中にある人が最も関心のあることを示す必要があるだろう、と思いました。それは、「苦しみを味わっているのは自分だけではない」ということと「今の自分の苦しみを解消することができる」という2つの事実を示すことです。

 私の場合もそうでしたが、苦しみの渦中にある人は「こんなに苦しんでいるのはこの世界で私だけだ」という孤独感を抱えていることがままあります。そのため、無銘さんが苦しんでいた時の状況を詳しく話してもらうことで、同じ苦しみを抱えている人が「私だけではないんだ」と分かり、苦しみを和らげることができると考えました。
 また、苦しみの渦中にいる人はその苦しみを解消できる、ということを信じられないでいます。
 無銘さんは自殺未遂を繰り返すほどの苦しみを抱えていたにもかかわらず、瞑想実践によってその苦しみが解消されました。無銘さんほどの苦しみでも解消できる道筋があるのだ、ということを示すことは、それ自体が苦しみの渦中にある人にとって救いになると私は考えたのです。

 このことを無銘さんに説明した上でスペースにてインタビューすることを提案し、それを了承していただいて今回のスペースでの公開インタビューのようなものが実現しました。

 インタビューの内容については録音されているので聴いていただきたいとは思うのですが、いかんせん私がインタビューに慣れておらず、途中脱線したこともあり非常にインタビュー時間が長くなってしまいました。
 すべてを聴くのは非常に時間がかかるので、私が文章起こしをしようかと思っているのですが、量が量だけにめちゃくちゃ時間がかかりそうです。文章については気長に待っていただければと思います。


 以下、無銘さんのインタビューをして私が一番印象に残ったことを書いてみます。

 無銘さんが瞑想実践によって苦しみが解消される時、「自分が書き変わっていく感覚」があったそうです。自分の中の悪い部分(苦しみをもたらすような部分)だけでなく良い部分(人に対する優しさとか)も一緒に書き変わっていく感覚があったそうです。
 自分の悪いところだけ切り取られるように無くなるなら何の後悔も無いが、良いところまで一緒に無くなってしまうなら、自分が存在する意義はあるんだろうか?という思いを抱いたそうです。

 私はこの話を聞いてすぐに思い浮かんだのは「長所即短所」という言葉でした。この言葉の意味は「人の長所は、別の側面から見ると短所になる」ということです。
 例えば、「慎重」という良い評価を得る人は、別の側面から見ると「臆病」または、物事に当たって即断することができない、という短所を持つとも言えます。これは逆の場合も同じで、ある面で短所に見えることも、別の側面から見ると長所になるということでもあります。
 つまり、人の長所と短所はコインの表と裏のような関係で、片方が無くなればもう片方も無くなる、ということです。

 無銘さんも、「苦しみがある」という短所を無くした時、そのコインの裏にある長所も無くしてしまったのだと思います。

 無銘さんが無くしたコインとは何なのでしょう。
 仏教において、苦しみの原因は無明(生き物が持っている根本的な無知、真理を知らないこと)と呼ばれています。その無明及びそこから発生する煩悩を滅尽し、涅槃に至ることで悟りを開くことができるとされます。
 無銘さんが無くしたコインは「無明」及び「煩悩」でしょう。そして無銘さんはこの「無明」「煩悩」の中に「自分が善いと思っていた部分」が入っていたことを、無明を晴らした後に気付いたのだと思います。

 私は無銘さんの境地には到達していないので、無銘さんと同じ感覚は持っていないのですが、自分が今感じている実感から延長して推測することができたので無銘さんのおっしゃることは理解できました。私にも「コイン」があることに気づいたのです。

 私がnoteを書いているのは、以前にも書いたように「苦しみの発散」というのが大きな理由の一つです。

 私のnoteを書く動機であるこの「苦しみ」は、無銘さんが解消した「苦しみ」と同根のものだと思います。なので、仮に私が悟りを開いて苦しみを解消できたならば、私はnoteを書かなくなってしまうと思います。正確には、「noteを書く意欲が失せてしまう」ということでしょうか。「書かない」というより「書けない」状態になると思います。

 また、同じように、もし私が苦しみを解消してしまえたなら、今行っている環境改善活動にも今ほどの意欲を持って取り組むことはできなくなると思います。

 上記の記事でも書きましたが、私が環境改善活動に携わりたいと思っている大きな理由は、自然に対して感じている罪悪感を解消したいと思っているからです。
 私が生きているだけで殺してしまう命たち、迷惑をかけてしまう命たち、汚してしまう自然環境、そうしたことへの罪悪感が強くあり、その罪悪感をいわば原動力にして、環境改善活動に取り組んでいるところがあります。
 しかし、もし私の苦しみが解消されたならば、その「罪悪感」は無くなるか、無くならないまでも非常に薄くなり、私にとって切迫したものに感じられなくなるでしょう。
 そうなれば私にとって環境改善活動の重要度が下がり、結果として今ほどの意欲を持って環境改善活動に取り組むことは無くなると思います。


 無銘さんのお話を伺いながらそんなことを考えていた私は、非常に不思議な気持ちになっていました。
 私はずっと、自分に生じる苦しみを無くしたいと思っていました。無くしたいと思っているからこそ仏教実践を行い、そして今も続けています。
 しかし、その仏教実践を続けた結果、苦しみの解消だけでなく今の私が大事に思っているものさえ無くしてしまう結果になってしまうなら、それは本当にやり遂げるべきものなのだろうか、という疑問が生じたのです。

 また、自分が今まで「苦しみ」と感じていた現象についても別の感情が生まれてきました。
 私の中で「苦しみ」と呼ばれているものの具体的な感情は、将来への不安や自分の未熟な心に対する怒りや自然に対する罪悪感や自分が望むものが手に入らないことへの不満や成功している(ようにみえる)人への妬みです。そうしたものが私の中に生じるたびに苦しみを感じ、そしてそうした感情を私は非常に嫌悪していました。
 しかし無銘さんのお話を伺うと、どうやら私が嫌悪しているそうした感情の裏側には私が大事にしている私の特性や個性があるようなのです。

 将来への不安があるから自分が今後どう歩むべきか真剣に考えるようになったし、自分の未熟な心に対する怒りがあるからこそ自分をより善くしようと決意し努力することができます。自然に対する罪悪感があるからこそ環境改善活動に手弁当であっても参加しようと思えますし、自分が望むものが手に入らないことへの不満があるからこそ望むものを手に入れるためにその方法を探し求めます。成功している(ようにみえる)人への妬みがあるからこそ……あれ?この感情の裏側ってなんだ?よく分かんないですね。もしかしたら妬みは無くなって良いのかもしれないです(笑)

 とにかく、今まで一方的に嫌悪していた自分の感情、特性といったものが実は私が大事にしている、好ましく思っている感情、特性といったものの裏側のもので、両者は同一のものであったのかもしれない、と思い至ったのです。
 すると今まで自分の中に強くあったそれらに対する嫌悪の感情が薄れていったのでした。まあそんな嫌悪せんでもええんかな、という気持ちになったのです。

 実際、今朝の瞑想は普段より落ち着いて淡々と行うことができました。無銘さんの境地には遠く及ばないですが、それでもいつもより心穏やかに、自分の心に生じる現象を眺めることができました。
 スカトー寺で修行したときに感じた、抑圧していた心に出会えた時の気づきに似た気付きを得ることができました。


 瞑想を深めた人の言葉はやはり非常に説得力があり、また勉強になると感じました。自分がまさに至ろうとする境地がどういう結果をもたらすものなのか、教えていただいたことで今の私にも大きな学びがありました。
 インタビューを受けていただいた無銘さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!