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仏教を学び始めたきっかけ?

このnoteのテーマは「仏教の悟りをなるべくポップに語る」なのですが、全然ポップに語れてない…

というわけで今までで仏教を一番ポップに語ってくれたのは誰かな、と考えて本やブログを読んだりしていたのですが、そこで思いついたのニー仏さんなんです。

ニー仏こと魚川祐司さんは多分仏教に興味ある方なら一度は聞いたことある有名人ですよね。でも私はニコ生とかも見てなかったし、彼の活動として知っているのは『仏教思想のゼロポイント』と『自由への旅』を読んだくらいで、リアルタイムで追っていたわけではないんです。知り合いでニー仏さん好きで動画見て内容教えてくれた人がいて興味は持っていたんですけどね。
ただ今は仏教に関する著述からは引退されてるし、どうしようかなと思っていたんですがネットでこの記事を見つけたんですね。
https://freemonk.net/magazine/vol-47/

内容は是非元の記事を見ていただきたいのですが、そこで「当たり前のことが、当たり前でなくなる感じ」についてお話しされていて、ニー仏さんはこの感じを幼少期の日常として持っていたそうなんですね。それが仏教を学ぶことにつながっていくのですが、それを読んでいてなんとなく思い出したことがありました。

私もそういう「当たり前のことが当たり前でなくなる感じ」を強烈に経験したことがあるんです。私はそれをブランケンブルグの著作からとって「自明性の喪失」と呼んでいたのですが、仏教を深く学んでいる人と話をすると結構同じような経験をしている人が多い。
それで今回はちょっとその自分の経験について文字にしてみようと思います。

それは中学3年の夏のことでした。部活を引退していよいよ高校受験に向けて本格的に勉強し出した頃です。生活は順調だったのですが今思うと将来のことを漠然と考えて不安を持っていたのかもしれません。
塾の帰り道、夕陽が沈みかけた中で考えたのです。部活もなくなったしあとは勉強に専念するだけだな、と。それまで毎日何かしらで忙しくしていて過去のことを振り返る余裕はありませんでした。思えば物心ついた頃からずっと何かしらのスポーツをやっていて、平日も土日も忙しく動き回っていました。それが部活を引退してなんとなくその部分がぽっかりと穴が空いたようで寂しく感じたのです。

「いや、でもよく考えると今まで勉強と運動のこと以外ろくに物事を考えてなかったな。それが運動しなくなって…あれ?」
なんとなく視界が歪んだ気がしました。今まで何の疑うこともなく信じていたものが揺らいだ気がしたのです。

「あれ?僕が今まで生きてきた意味ってなんだろう」
言葉にすると陳腐ですが、こんなありきたりな問いが浮かんだ瞬間、今までの色々な経験が頭を駆け巡り、何か頭の歯車が急激に噛み合って回り出したような感じがしました。

「あれ?生きてきた意味って、意味があると思い込んでいただけなんじゃないか?根拠なんて何もないんじゃないか?」
いくつもの問いがうかんでは消えその度に簡潔な答えがより鮮明に浮かび上がってくるようでした。

「僕の人生に意味はない」
この瞬間人生で初めて何かが本当の意味で「わかった」気がしました。
すると歪みかけていた世界が急に色褪せていきました。もはや見慣れた光景の全てがよそよそしいものとなって、どこか遠く知らない国の知らない場所にいるようなそんな錯覚に陥りました。

「それ」が一度わかってしまったらもう以前には戻れない。

それからというもの何をやるにもそこに意味が見出せなくなりました。当たり前のようにしていた勉強も運動も何もやる気が起きなくなってしまったのです。高校には何とか受かったのですが、そこに喜びはありませんでした。

それからは私は10年以上鬱と希死念慮の間でのたうち回り続けることとなります。

全然ポップじゃない…

まぁそれは良いとして、今はこうして幸せに暮らしているわけですが、私の人生の半分以上は本当に悲惨なものでした。
そんな私でも救われたのです。だから仏教の実践には人生を変える力があると力強く断言できるのです。

読んでいただきありがとうございました。




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