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中立よりも独立を

 現代日本では「中立であること」に価値が置かれていることが多いように感じます。AとBという対立した意見があったとして、そのどちらかに与するのではなく、どちらにも言い分はあるよね、という態度が「正しい態度である」と見なされる傾向があるように感じます。
 そういう風潮を見て、ある友人が「私は中立ではなく独立であろうとしている」と常々言っていたのを思い出します。

 中立という言葉を辞書で調べると次のような説明が出てきました。

① (━する) どちらにも片寄らないでその中間に立つこと。ある特定の思想・立場・意見などに片寄らないで、中正の道に立つこと。ちゅうりゅう。

② (━する) 反対・敵対しているもののどちらの味方もしないこと。

③ 国家間の紛争および戦争に参加しない国家の国際法上の地位。双方の交戦国に対して、公平と無援助を原則とする。局外中立。

コトバンク(精選版 日本国語大辞典

 ③は限定的な状況なので使い方として参考にするのは除外するとして、①と②を参考に意味を考えると、2つの対立する意見・思想のどちらにも偏らず、あるいは与しないでその間に立つことを言うようです。

 次に独立という言葉を見てみましょう。

① 他に束縛されたり、支配を受けたりしないで、自身の力で行動すること。

② 個人が一家をかまえ、生計をたて、完全に私権行使の能力を持つ状態になること。

③ 一国または団体が他から支配されることなく完全にその権限を行使しうる状態になること。

④ 他のものから離れて立つこと。また、他のものとはっきり別になっていること。

コトバンク(精選版 日本国語大辞典

 他のものに影響されず、それ自体として立つ、存在する、というニュアンスがあるようですね。

 さて、先の友人の言い分はこうです。

 中立は対立する二つの意見の中間を意味することから、相対的なものである。世間の趨勢によって世間の意見がどちらかの意見に偏った時、「中立」の位置は変わってしまう。
 しかし、独立は違う。周りの考えがどうであろうと「私はこう考える」ということは変わらない。その軸があれば周りに影響されることは無い。

 私なりに言い換えると、AとBという二つの考えが対立していたとして、AとBの中間の立場をとることが中立、AとBの意見と関係なく自分の意見を持つことが独立と言えるでしょう。独立の場合、意見の中身がAになることもBになることもあるし、全く違うCになることもあるでしょう。

 例えば、戦時中の日本において、いかなる戦争も絶対に行うべきではないという主張をした場合、その意見は「中立」とはとても見なされないでしょう。非常に偏った考えの持ち主で危険思想の持ち主だと思われたはずです。場合によっては投獄される可能性もあります。
 しかし、現代日本において戦争に反対する立場を表明しても危険思想だとは見なされないでしょう。平和主義者で、場合によっては賞賛されることでしょう。
 あるいは、戦争を行うべきではないという主張を日本で行うのと、ウクライナで行うのとでは受け入れられ方が違うでしょう。戦争反対という主張が中立ではなく過激な思想だと取られるかもしれません。

 「戦争反対」という意見自体は変わっていません。しかし、時代や地域といった状況が変わればその意見が「中立であるか否か」が変わります。「この意見は中立だろうか」ということを気にすると言うことは、周りの意見を気にすると言うことであり、常に周りの意見に左右されることになります。
 友人はそうではなく、自分の意見をまず持って、その上で他の人の意見を聞いて参考にすべきだ、ということを言いたかったのだと思います。


 今更ながら、私もその友人の主張に納得するところがあります。最近の私がやっていること、考えていることは全く「中立」ではなく、そもそも中立であろうと考えてもいないと気づいたからです。

 私が行おうとしている「中立でないこと」は、自分自身に対するものではオリジナルの何かを作ろうという取り組みで、外に対して働きかけるものでは環境改善活動です。

 オリジナルの何かは私一人が救われれば良いので、中立も何もありません。どんなに偏って極端なものであったとしても、自分が救われればそれで良く、対立する意見の調整をする必要はないので、中立を気にする意味がありません。

 環境改善活動については、これは恐らく中立とは言えないものです。以前の記事でも書きましたが、私たちの環境改善グループである「環境再生 いのちの杜 野土」は環境改善を行うだけでなく、かなり思想的な思いがある集団です。私たちにとってはその方向性は妥当なものであり、目指すべきものであると考えていますが、今の社会でかなり過激なものである自覚はあります。
 私たちは自然をモノとして扱う人間中心主義の現代の社会の在り方自体を変え、人間を自然の内の一つとして在る社会を作りたいと思っています。その実現のためには今の世間で常識となっている価値観(自然に対する価値観だけでなく、経済に対する価値観、政治に関する価値観、生活に関する価値観など)を改める必要があります。私個人の感覚としては、江戸時代から明治維新が起きるくらいの変革が必要だと思っています。そんな変革を求める思想はとても「中立」と言えるものでは無いでしょう。

 このように私の内に対しての行動も外に対しての行動も、どちらも中立とは言い難い方向性です。しかし私(たち)はこれが大事なことだという思いがあるので行っています。これは、おそらく友人の言う「独立」の立場だと思っています。

 
 ただ私は、このように「私/私たちはこう考える」という自分の意見を持つ人がそれぞれの場において現れれば良いと思っています。その中には、私と意見が対立する人も現れるでしょうが、そういう人とこそ私は意見交換をすべきだと思っています。私は自分の今の考え、主張が最善だと思っていないので、私と違う意見の方と話し合うことでよりよい意見になることもあるでしょう。あるいは、絶対に相容れない立場の人も現れるでしょう。それこそが人の社会だと思います。

 「私はこう考えます」という意見を持った人同士が意見を交わし、時に意見を戦わせることで初めて、私が、私の所属する集団が、私の所属する国がどこに向かおうかということが話し合われると思います。みなが中立を気にするあまり、周りの意見を様子見していては、交わす意見、戦わせる意見が無いため、そもそも話し合いが行われません。それでは私たちが進むべき道を本当の意味で話し合うことはできないと私は考えます。

 まず私たちが進むべき方向性を話し合う前提として自分の意見を持つために、私も友人と同じように「中立よりも独立を」と主張します。


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