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ヘルマン・ヘッセ―『車輪の下』、『デーミアン』、『荒野の狼』、『知と愛』(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録13)

扱う作品


ヘルマン・ヘッセ [Hermann Karl Hesse]

 車輪の下 [Beneath the Wheel]
1905刊行

 デーミアン [Demian]
1920年刊行
主要舞台:小さな町のラテン語学校(Latin school in a small town)

  荒野の狼 [Steppenwolf]
1927年刊行

知と愛 [Narcissus and Goldmund]
1957年刊行

感想

 ヘルマン・ヘッセという、20世紀ドイツの作家が、今の日本でどう評価されているのか、読まれているのか読まれていないのか、知られているのか知られていないのか、知らない。
しかし、このシリーズで取り上げる小説や物語を私が読んでいた頃は、ヘッセは、恐らく最もよく知られた外国の作家の一人であった、と思う。

中学生のための「推薦図書」としても、ヘッセの小説、特に『車輪の下』という、短めの長編小説―三島由紀夫の多くの中編小説的な長編小説と同じ位の、読むのに程良い長さの長編小説―は、しばしば取り上げられていた。

 この、優秀な成績で寄宿制の神学校に入った少年が、自分の中に湧き出て来る思春期のエネルギーを制御する術を知らぬまま、学校や周囲との齟齬に悩んだ末、死に魅入られて行く、という、どう考えても暗い小説が、学校で、中学に入学したばかり位の生徒にも、さかんに勧められていたというのは、今思えば不思議なことである。
それとも、今でも、学校の推薦図書というのは、こういうものなのだろうか?

しかし、ヘッセの小説が皆暗い訳ではない。
「明るい」、と言うのとはニュアンスが少し違うが、寧ろ、童話的・メルヘン的で、普通の意味での暗さや明るさを超越した特徴を持つ作品を多く書いた、といった形容は、ヘッセという作家に対して、かなり妥当な評言であるように、感じている。

しかし私は、推薦されるがままに、最初にヘッセの『車輪の下』を読んだ。中学一年の時だったと思う。
寄宿舎というものも経験したことがなく(その後も一度もない)、近代ドイツの神学校というのが、どういう雰囲気のものなのかも、当然全く分からなかった。
この小説のことは今でもよく覚えており(但し、筋書きを細かく言えるレベルでは、当然ない)、一貫して元気のない、ハンスという名前の主人公に対して、多少の同情と共感を覚えた。
その、派手でも華やかでもないが、端正で、時に詩的な文章にも、関心した。自分がこういう文章を書けるとは思わなかったが、こういう、緻密で丁寧な文章は、一つの模範になり得ると感じた。

しかし、私が最初にヘッセから受けた影響は、狭い意味において、文学的なものでは、全くなかった。
私は『車輪の下』の主人公や、その一人のモデルになったと思われる、作者ヘルマン・ヘッセという作家から、正確に言えば彼らの生き方から、あることを学んだのである。

私は、大学卒業後、コンピュータの会社に勤めて、その頃(1980年代)流行していた、人工知能関係の仕事に携わり(偶然の要因と、意図的な要因とが、混じっている)、すぐに自己流「物語生成システム」のアイディアを得て、やがてAIや認知科学と物語生成システムの研究者になった。
その過程で、文学や文学研究の要素―特に物語論=ナラトロジーや文学理論―も、研究の中に取り入れるようになった。「著者(作者)の意図の排除」といった、流行の思想・哲学も、組み込むようになった。
しかし、ここで紹介しているように、実際は、「作者の生き方」から、影響を受けていたりしたのだ。

 私がヘッセから学んだのは、簡単に言えば、「学校の勉強をさぼること」であった。
ヘルマン・ヘッセは、『車輪の下』の主人公ハンスがそうであったように、寄宿制の神学校に入学させられ、やがて落伍して、退学するに至る。
だが、ハンスとは少し違って、もっと反抗的な生徒でもあったらしく、自殺したり引き籠りになったりすることはなく、本が好きだったので、書店に勤務することになり、最初は迷走するが、やがて本を売る側の人間から、本を書く側の人間に変身し、作家としての成功の階段を上って行く。
多分、ヨーロッパの神学校と、日本の中学校や高等学校とを、それらの違いを無視して、同じように見ることには、無理があったのだろうが、私は、文脈を見ることはスキップし、ただ「さぼること」を、ヘッセから学んだのだ。

最近―今年の9月に新曜社から出版した『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』という本を書いている途中で―知ったことだが、あのスターリンも、グルジア(現ジョージア)の神学校に、もともとは優秀な成績で入学したが、その後、文学や思想に熱中して、勉強をさぼり始め、やがては革命運動に入って行く、という、一つの典型的なプロセスを辿ったという。ヘッセと同じパターンだ。
スターリンの生涯を記述する本は数多いが、以下の本は、翻訳で容易に入手出来る。

 著者のロバート・コンクエストは、ソ連に関する批判的な観点からの研究者・著述家であり、ウクライナで1930年代初頭に起こった大飢饉についての、以下の分厚い本も、翻訳で読むことが出来る。長らく入手し辛かったが、ロシア・ウクライナ戦争勃発に際して、新版が出た。

 この大飢饉は、スターリンによる、意図的なウクライナ殲滅作戦であったことが知られており、ホロドモールと呼ばれている。
スターリンに関する、もっと手軽に読める本としては、舛添要一が、従来のスターリン本を参照してまとめた、以下の本がある。

あの大悪党のスターリンもこのパターンだった、ということをこの当時知っていたら、私がそれを、学ぶに値するものと、それでも考えたかどうかは分からない。ただ、その当時の私の知力で、スターリンを理解することは難しかっただろう、ということは言える。また、その当時、まだマスコミ人の多くは、スターリン礼賛派だったのだ。

このように、「文学に耽って学校をさぼる」という行動形態は、ヘッセ以外にも、同じ時代の大作家トーマス・マンや、やはり同時代のフランスのやはり大作家であるアンドレ・ジイドにも、共通するものである。
恐らく、彼らは本当に、学校では、少なくとも途中からは、劣等生であったのだろう。
しかし、実際のところは、社会の比較的恵まれた階層に生まれ作家となった者が多く、学校の勉強もそれなりに出来る者が多かった、ということに、その後私は気付くようになり、愕然とした。
学校をさぼれば、文学者になれる、という因果関係は成立しない、ということは、私自身が早々に証明してしまったが、その時は既に遅かった。

このパターンを、ヘルマン・ヘッセを読む以前に私が好きだった何人かの作家からは、学習することがなかったと思われるので、やはり推薦図書である『車輪の下』を読んで、初めて学んだものだと思う。

その後、上記トーマス・マンや、やはり学校時代の勉強はぱっとしなかったと言われている、ドストエフスキイやトルストイ等も読むに至って、このパターンは、私において一つの規範となって行った。
それが、その後の迷走(の少なくとも自己認識)につながる。

なお、私はヘッセの『車輪の下』を、当時の箱入りの旺文社文庫で読んだ。この文庫は、その他の、例えば新潮文庫や岩波文庫と比べて、啓蒙的な解説が載っていることが、特徴だった。
新潮や岩波や、それから角川等の文庫本の解説は、一般に、かなり専門的な評論であっ。それに対して旺文社文庫の解説は、作者の生涯の記述やその年譜、主要作品解説等を含む、一種の作家及び作品の入門となっていた。
作品は、原則として一度しか読まないが、解説の方は、通読というのではないが、何度も何度も、暇さえあれば繰り返し読むのが、習慣であった。
そしてその中の記述に、私は、自分がさぼる口実を作るためにも最適なテーマー文学に熱中し、学校をさぼる―を、発見したのだろう。

 私は、このパターンを、単に個人的に利用し、そして損をしただけだったが、これを社会的に利用する、という道もあり得たのだろう。一時代前の学生運動の中に、このパターンに見られる思考回路が全くなかった、とは言えないと思う。

先に、ヘッセの『車輪の下』のように、普通に考えて暗い小説が、中学校に入ったばかりの生徒に対してさえ、「推薦図書」として奨励されていたのは、今から考えると不思議だ、という意味のことを述べたが、これを推薦していた、これを中学校の生徒が読むべきだと考えた、その当時の大人達は、ハンスの側に感情移入する立場からではなく、ハンスを圧し潰す社会的制度としての学校、に対する批判的立場から、それを行っていたのかも知れないと、今思う。
しかし、それを読む生徒の側に、既に、社会的制度と個人との矛盾や対立を明確に意識し、それに対して何らかの解決策や問題解決策を提示する、という思考回路が、失われていた、と私は考えている。
「政治の季節」の後に育った私の世代の素朴な感覚にとって、学生運動やそれとの連想における社会的運動は、疎ましい要素を多分に内蔵させた、出来れば避けるべき対象であった。
従って、『車輪の下』のような作品を推薦して来るその当時の大人達の思惑と、その当時の生徒達の思惑とが、ずれていた可能性がある。

 確かに、面白くないとは言えないが、それ程面白いとも言えない『車輪の下』という小説が、あの当時、どうしてそんなに、特に学校社会の中で勧められたのか、という疑問に対する、以上は、一つの解釈である。

 こんなことばかり書いていると、私はヘルマン・ヘッセという作家に、全く影響を受けなかったと誤解を与えるかも知れないが、実際はそうではない。
『車輪の下』の次に読んだ、『デーミアン』という小説から、私は決定的な影響を受けた。『デーミアン』は、暫く時間を置いて、もう一度読んだ。

 『車輪の下』をヘッセが出版したのは、まだ実質19世紀であると言って良い1905年であったが、『デーミアン』はそれから15年後の1920年に出版された。
第一次世界大戦やロシア革命の後、既に禍々しく恐ろしい20世紀が始まったのだと、多くの人々が、多分絶望感と共に、感じていたに違いない頃だ。
第一次世界大戦にしてもロシア革命にしても、それ程大量の人が、一気に殺される、という事態は、19世紀にはなかった。
特にヨーロッパの人々は、その中に完全に巻き込まれた。その後、世界は破局に向かって、突き進んで行く。

 『デーミアン』は、第一次世界大戦を経験したヘッセが、最初匿名で出版した小説であるが、その中に、この戦争自体の場面や描写がある訳ではない。
『車輪の下』と同じように、この小説の舞台は、ドイツの片田舎の、今度は神学校ではなくラテン語学校であり―これも、我々日本人には、フィーリングとして、分からないタイプの学校である―、その結構から見れば、『車輪の下』と同様、青春小説である。あるいは、「思春期小説」である。
登場人物達の行動と言えるようなものは殆ど描かれないので、彼らが、『車輪の下』のハンスのように大人しく元気のない生徒なのか、そうではないのか等、よく分からない。

この小説で描かれるのは、徹底的な思索である。
これは、思想小説であり、哲学小説の一種である。
以下の文章で、私は、三島由紀夫が、理屈好きの思想小説作家、哲学小説作家の一面を持っている、ということを述べたが、ヘルマン・ヘッセにもそのような側面があり、特にこの『デーミアン』と、その数年後に出版した『荒野の狼』とには、その特徴が強く現れている。

ヘッセは、もともとこの種の思想小説・哲学小説の作家ではなかった筈だが、私自身は、『デーミアン』と『荒野の狼』に影響を受け過ぎたためか、その他の作品、寧ろその方が「ヘッセ的」と考えられている諸作品―『郷愁(ペーター・カーメンツィント)』、『シッダールタ』等―を、(『知と愛(ナルツィスとゴルトムント)』を除き、読みそびれてしまった。

 なお、ここで『デーミアン』と呼んでいる小説の日本語訳には、『デミアン』というものもある。寧ろ「デミアン」と記述したものの方が多いかも知れない。
しかし私は、これを、やはり旺文社文庫の常木実訳『デーミアン』で読んだので、この翻訳書の書名のまま、「デーミアン」と呼ぶ。
また、この小説の一人称の語り手である「エミール・ジンクレール」に関しても、「エーミール・シンクレール」と訳されているものがあったり、様々である。これについても、ここでは旺文社文庫版の翻訳に拠り、「エミール・ジンクレール」と呼ぶ。

 それまで私は、ヘッセという作家を、あるイメージー抒情的で、メルヘン的で、トーマス・マンのように構築的ではない作家のイメージで捉えていたのだが、この小説を一読し、ガツンと頭を殴られたような気がした。
私にとって、何が凄かったのだろうか?
平凡な言い方しか出来ないのがもう一つ残念なところではあるが、この小説によって、明らかに世界が倍に広がった。

小説の一つの機能を、何らかの形で、世界の領域を拡大すること、と考えることが出来る。
例えば、従来の文章の規範を破壊し、破壊するだけでなく、その可能性を拡大することが、小説には出来る。
吉本隆明が、『言語にとって美とは何か』を通じて主張したことの一つは、このような、文学作品が持つ、言葉や文章における可能性の拡大についてであった。それを、「文語体」と「口語体」との対立から成る文学進化論の枠組みで捉えたのが、『言語にとって美とは何か』という、長大な評論作品であった。

しかし、『デーミアン』という小説が果たしたのは、恐らくそのような意味での機能ではなかった。

無論、小説の機能は、その種のものに留まらない多様性を持っている。
読者に対して持つ機能、というものもあるだろう。
例えば、ある読者における、従来の思考領域を拡大してやる機能である。
この機能は当然、ある小説の中で描かれた世界や描写や思想や哲学等とも、関連している。つまり、小説おける世界を拡大した、ということと関連している。
一方では、どちらから見るか、という問題である。
あるいは、極めて平凡な小説を読んだにも拘わらず、その時の文脈等の影響によって、読者が、その精神世界を拡大した、という結果につながる場合もある。
恐らく、『デーミアン』という小説は、小説そのものの内在的な世界拡大作用と、その読者への影響とが両立した例に当たるのだろう。

 ヘッセの小説が、寓話的、童話的、メルヘン的等の言葉(それぞれ異なるが、何となくの印象で一グループにしただけ)に相応しい印象を与えるのは、その多くの作品の構図が単純で、悪く言えば図式的であるからだろう。
その意味では、ヘッセの小説は、同時代のトーマス・マンの小説とは対極的に、本格小説や全体小説といったものからは、最も遠いものである。
しかしそれ故に、その単純な構図が、作品のテーマとぴったり一致した時、大きな効果を発揮する。
そのような意味でも、『デーミアン』は最も成功した作品なのではなかろうか。とはいえ、私がきちんと通読したヘッセは、冒頭に挙げた数編に留まるので、確かなことは言えない。特に、最後の大作、ヘッセにして殆ど唯一の長編小説であった『ガラス玉演技』を読んでいないので、確定的なことを言う資格を、私は持っていない。

 「デーミアン」というのは、小説の語り手たる「ぼく」(私が読んだ本では、そうだった気がする)の名前ではなく、一人称の語り手の名前は、上でも記した、エミール・ジンクレールである。

因みに、ヘッセは、この匿名で、最初この作品を出版したという。それが大層な評判を取り、やがて作者がヘッセだとばれてしまったという。

エミールは、神学校とラテン語学校の違いはあるが、『車輪の下』のハンスと同じように、寄宿制の学校に入学する。
デーミアンとは、その学校で、エミールの前に不意に現れ、そしてまた不意に去って行った、学友の名前である。
エミール・ジンクレールも、一つの小説の主人公の資格を明らかに持った、個性のある登場人物なのであるが、学友のデーミアンの出現に驚き、その存在の大きさを只管受容する役割を与えられているので、やはりこの小説の主人公は、タイトルにもなっている、デーミアンの方なのだろう。
デーミアンは、ジンクレールにとって、殆ど言説でのみ存在する、全く奇妙な学友である。二人の間で議論が交わされると言うより、デーミアンが一方的にジンクレールに、この世の理を、物事の理を、世界の理を、語り聞かせ、ジンクレールの方は、只管感激して、ハーとか、イーとか、アーとか言っている、それがこの変わった小説の構図である。

見方によれば、デーミアンは、ジンクレールの精神が作り出した幻で、ジンクレールは、終始自己の内部で対話を交わしているだけなのではないか、とも受け取れるような、不思議な小説である。

また見方によれば、ボケとツッコミから成る、漫才のような小説、と考えることも出来る。
只管にツッコミ続けるデーミアンに対して、ジンクレールの方は只管ボケ続け、しかし普通の漫才とは違って、ツッコミ役は突然消えてしまい、舞台上に、ボケが一人取り残される。
しかしこの時、このボケは、一回り大きな存在となり、客席からの多数の視線を浴びても、動じないだけの人物になっている。

あるいは、平凡な言葉を使えば、メンターの小説でもある。

 この「膨張する小説の記録」の以下の文章で少し取り上げた、三島由紀夫の『金閣寺』にも、ボケたる一人称の主人公に対して、柏木というツッコミ役、一種のメンターが現れ、主人公の「私」の精神に、拭えない痕跡を与えて、去って行く。

ドイツで発展した「教養小説」との関わりで述べれば、この場合のツッコミ役、メンターは、まだボケッとしていた主人公の前に突然現れ、その精神を上方に引き上げ、自分の役割が済むとサッといなくなっている、青春時代の、あるいは思春期の時代の、重要な、しかし脇役の、登場人物である。

 デーミアンがジンクレールに、毎日毎夜語って聞かせるのは、この世には、光の世界と闇の世界、昼の世界と夜の世界がある、という二元論の思想・哲学であり、もしジンクレールがひとかどの人間になりたいのなら、この二元論的世界構造を理解・納得し、二つの世界の間を自由に往還出来るようにならなければならない、という一種の倫理である。

私にとって大きかったのは、目に見える世界に目には見えない世界が加わることによって、世界の大きさが倍に拡大された、ということと、目に見えない世界は、その重要度において、目に見える世界に匹敵する、という観念であった。

この思想には、ユング派の精神分析の影響があると言われているが、ヘッセは『デーミアン』を書いていた時期、実際にそのカウンセリングを受けていたので、思想的・哲学的観念は、単なる観念ではなく、あたかも実体であるかのように、ヘッセの精神に影響を与えたのではないかと、考えられる。

私はユングは、摘まみ読みした程度であったが(但し、ユング派の精神分析学者の本は、高校生の頃多読した)、『デーミアン』を最初に読んだ少し後、フロイトの『精神分析入門』は読み、これを二度目に読んだ頃には、同じく『夢判断』を読んでいた。

フロイトの、構造主義的とも言って良いような、精神世界の構図の構築の徹底振りには圧倒された。フロイトとユングとは無論違うが、精神世界の論理を、あたかも実体であるかのように、ある意味機械的に定義・構築した点では、類似している。

 『デーミアン』のヘッセは、ぼんやりしたジンクレールがいつも見ている光の世界の向こう側には、あるいはそれよりも広大な闇の世界・夜の世界が広がっていることを説いた。少年ジンクレールははじめショックを受けて、その考えを否定しようと努力するが、やがてデーミアンの説教に大いなる影響を受けるに至る。

この小説を読む過程で、読者たる私自身も、ジンクレールと同じような立場の、被説教者であった。この本を読むということは、デーミアンの説教を聞くということも意味する。
大袈裟ではなく、中編小説程度の長編小説『デーミアン』を読み通す過程で、私は、自分の頭の中が徐々に広がり、読み終わった時には、倍に拡張された、と感じた。
これまでもやもやしていた多くのもの、その存在を何処に位置付ければ良いのか、あるいはそもそも存在するのか、疑問だった多くのものが、闇の世界、夜の世界の何処かに、位置を占めることが出来た。
日常生活の中の、何気ない情景も、それまでとは変わって見えた。朝のラッシュアワーの中、駅を歩く人々の頭の後ろに、犬や狼や猫や狐や狸や熊や虎等々の、動物の顔が見えた。ある時、本当に見えた、と思い、このままではヤバい、と思った記憶さえある。
このままではヤバい、という思いが募り始めた、学校の勉強を只管さぼる高校生の頃、私はもう一度、以前読んだのと同じで本で、『デーミアン』を通読した。

その頃は、吉本隆明の『共同幻想論』や「丸山政男論」、転向関係のエッセイ、そして詩の類も読んでいた頃だったので、『デーミアン』を精神分析的に解釈するだけではなく、共同幻想と個人幻想、対幻想から成る、吉本の理論との関わりにおいても、解釈していたように思う。

デーミアンの言う、闇の世界・夜の世界とは、恐らく吉本の言う個人幻想や対幻想の世界と重なり合う世界だ、そして二人とも等しく、闇の世界/夜の世界、個人幻想の世界と対幻想の世界は、光の世界/共同幻想の世界と、匹敵するだけの重みと価値を持っているのだ、と唱えたのだ、という風に。

実利的には、ただでさえ勉強しない生徒が集まる高校と有名だった高校において、その中でもさぼっていた高校生たる私自身の、闇の世界・夜の世界、個人幻想の世界・対幻想の世界(?)は、それ自体独立した広大な世界であり、この世のあらゆる他の世界に匹敵するだけの価値を持っているのだ、という、とんでもない「理論武装」に、『デーミアン』がつながった可能性すらある。

 今いろいろと理屈を書いているが、中学生及び高校生の当時、『デーミアン』を読んで、私は、理屈ではなく、いわば存在論的に震撼し、自分の中の何かが変わり、そして自分が感得する世界というものの姿を変わった気がした。この感覚は、極めて感性的なもので、言葉ではなかなか言い表せないものであった。

だから、その後のドイツの歴史、世界の歴史、等々を考え合わせると、この小説から、様々な解釈や示唆を引き出すことは可能であるが、ここではそのようなことはしたくない。

『デーミアン』は、これからもう一度読んだら、どんな風に感じるだろうか、という好奇心も刺激する、これまで読んだあらゆる小説の中で、最も記憶に残る作品である。

 数年後にヘッセが出版した『荒野の狼』は、ヘッセの小説の中では変わったもので、ドイツ流教養小説の枠組みすらも、とうとう壊れかけていることが、小説自体の筋を通じて、示されている。私は、講談社文庫版で読んだ。

 昼の世界と夜の世界の対立の中に、さらにもう一つの異物が入り込み、二元論的世界すらも、破壊される。
その後のドイツがどのようになって行ったのか、我々は知っているが、現在進行形の時代を生きたヘッセに、それを正確に予想することは出来なかった。
トーマス・マンとは違って、ヘッセは、ナチス支配下のドイツに留まり、ナチス批判を続けた。
翻訳でしかヘッセを読めない我々、またドイツの時々の時代的情況を、感覚と共に把握することが出来ない我々にとって、ヘッセは単なる「小説家」であるが、実際にヘッセが書いたものの中で、エッセイや評論が、かなりの量に上る。
何と、日本語の翻訳でも、全8巻のエッセイ全集を読むことが出来る。最初の巻だけ紹介しておく。

『荒野の狼』を出版して数年後、ヘッセはそれとは趣の違った長編小説『ナルツィスとゴルトムント』を発表した。日本語訳では、『知と愛』というタイトルでも知られている。私は、講談社文庫版の確か『知と愛―ナルチスとゴルトムント』で、この作品を読んだと思う。

 この小説は、『デーミアン』や『荒野の狼』とは違って、ヘッセ本来のものと思われる、穏やかで明るく、そして深みのある、寓話的・童話的な作品で、小説として面白い。『荒野の狼』という破壊力のある小説の後に、このような小説を発表したことは興味深い。
見方を変えれば、昼の世界と夜の世界の同在を主張するが、その「調和」には達していなかったそれらの小説に対して、『知と愛』で、ヘッセは、少し違った角度から、回答を与えた、とも考えられる。
寓話的な小説の一種とも言って良い作品なので、ストーリーの展開に図式的なところがあるが、物語としての面白さと魅力に溢れた作品で、文章も抒情的で美しい。

ヘッセの作品に興味がある読者には、『車輪の下』よりも、私はこの『知と愛』と、そして『デーミアン』をお勧めしたい。あるいは、もっととんがった作品が読みたい、という読者には、ヘッセ唯一の前衛小説と考えられる、『荒野の狼』をお勧めする。

 ヘッセは、あらゆる優れた作家と同じように、複雑な人間性を持った作家であった。
寓話的、童話的な作品を多く書いた、というところから来る印象とは異なり、その人生は一筋縄では行かず、何度も離婚・再婚を繰り返している。かなり精神的に不安定な人間だったのだろう。その側面が、『デーミアン』や『荒野の狼』のような小説に現れたのではないか、というのも、一つの解釈である。
同時に、『知と愛』に見られるような、「調和」への志向性も、ヘッセの中では強かったのだろう。そう思う。
そのことは、ヘッセの美しい響きの抒情詩を読むと、よく分かるのではないかと思う。

我々日本人にはなかなか見えないが、 ヘルマン・ヘッセは、実は、詩、小説、エッセイという、文学の主要三分野を網羅する、意外に総合的な、大きな作家であることが分かる。
個人的には、ナチスの時代、どんなことを書いていたのかに、興味がある。

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