見出し画像

エッセイ紹介:渡辺保(2023).「猿之助は未来への希望だった」.『文藝春秋』七月特別号 (pp.151-159)―(その3/3)

続く二つの節では、雑誌『女性セブン』によって猿之助攻撃の中心概念として用いられた「セクハラ」や「パワハラ」を巡る議論が展開される。
【「パワハラ」や「セクハラ」という概念による自主規制は現在の社会の一つの象徴的ないし典型的特徴である。すべてをパワハラやセクハラの眼鏡を通じて萎縮的に捉える感性も普及しており、そんな輩の目にはあらゆる男女のヌード写真や裸体像もセクハラの体現物であるらしい。そのくせ、例えば、「勉強し授業の準備をすること以外のどうでも良い雑用に膨大な時間を取らせ教員を疲弊させ続ける」というパワハラや暴力、「人材不足と言いながら非正規の女性や男性を安給料で奴隷労働させ、正社員化直前の時期に首をちょん切る」というパワハラ・セクハラ・暴力、「子供や大人を本人の意に反し性的に支配する」という暴力(猿之助事件において今後追求されなければならない一つの話題は、この最後のものとの関連であろう)、等々を、文部科学省、学校、企業などは素通りさせている。こうした社会状況の中で、セクハラやパワハラや関連する暴力などを巡る論議は十分健全に展開し得ない部分があるが、本エッセイの中で歌舞伎批評家・渡辺保は、歌舞伎という芸能の複雑性とも絡めて、これら極めて難しい問題にも踏み込んでいる。】
まず「パワハラは必要悪?」の節では、最近はどの世界でもパワハラが厳しく追及されるようになっている一方で、現実と虚構との違いは明確に区別する必要があり、現実社会では許されない人殺しやセックスも虚構の世界では存在し、現実の論理をそこにそのまま当てはめることには無理があると、著者は述べる。問題の本質的な難しさを反映して、この辺の論理は少し分かりにくいので、順を追って紹介していくことにする。歌舞伎だけでなく現代劇も含めた演劇、さらに映画も加えた制作の世界においては、演出家と主演俳優が中心となって虚構の世界が作り上げられる。そしてその稽古や舞台上では厳しい上下関係が生まれる。そのまま引用すると、「ひとつの虚構世界を作り上げるには、才能がある人の世界観や解釈に従って、プロジェクトを進行させなければ成功はおぼつきません。歌舞伎や演劇の世界は、役者一人一人に意見や役柄の解釈を聞くなんてことははしない。その意味では民主的ではないのです。」みんなの意見を聞いて中和させて作ろうねなんて言ってたらロクなものは作れないという意味だろう。
歌舞伎界特有の話も論じられる。すなわち、歌舞伎の世界では、師匠と弟子、座長と役者の関係は絶対であって、何があっても覆らない。それは師匠が演出を行うと同時に主演を務めるという事情が深く関係している。
【なお、歌舞伎というのは、伝統的に演出家のいない演劇であり、たまに演出家の名前が明示されていることもあるが、それは例外である。地方巡りをする劇団をイメージすると分かるが、そこのボスが演出に当たるものはすべて自分で行い、場合によっては脚本も書く。忠臣蔵をやる場合忠臣蔵の元々の脚本というものはあるが、それをそのままやっていたら何日もかかったりするので、面白い所だけピックアップしたりつなぎ合わせたりして、自分たちなりの・その劇団なりの作品を作って行くということを歌舞伎の人たちはやっていた。今の歌舞伎座などでやられているのはそれが洗練された形に過ぎなくて、その伝統は今でも継承されている。だから猿之助が演出もやって脚本も書くと言うとびっくりする人もいるかも知れないが、これはある意味歌舞伎の世界では当たり前なことである。ただし、この当たり前のことを出来る人―座頭タイプの人が少なくなっている、という事情もあるのだろう。】
また、歌舞伎には、人殺しや心中やラブシーン、あるいは残酷な場面などが多く現れ、ある意味そこが売りになっている部分もある。そんな特殊で濃密な世界を作り上げるために、現場のトップには時に強烈な刺激を役者たちに与えることが求められる。世間でパワハラあるいはパワハラ的と言われるようなことも、虚構としての演劇を創造的に作り上げるためには必要な場合があるということを、渡辺は、蜷川幸雄や菊田一夫の例を挙げて述べている。同時に、小説家で劇作家の川口松太郎の次のような言葉も伝えている―「役者っていうのは、普通の人間とは神経が違う」/「決まった時間に女を抱き、決まった時間に殺人をする。そんなことを毎日のように繰り返している人間が一体どうして正気を保てるんだ」/「だからお前たちは、もっと役者の話を聞いて、支えてあげないとだめだよ」。ここで「お前たち」とは、川口がこの話を言い聞かせた東宝の「先輩」を意味する。渡辺保氏もかつて東宝に勤めており、この話をその先輩から聞いたという。
次の「男が女になる奇跡」の節では、「セクハラ」との関わりで、歌舞伎における女形の問題が論じられる。【渡辺保の初期の代表作の一つは、昭和の中村歌右衛門を扱った『女形の運命』であろう。】渡辺は、歌舞伎に女形が存在していることが事情を複雑にしていると述べている。幕末から明治にかけての八代目岩井半四郎は家でも振袖を着て一年中女みたいに振る舞っていたという。また渡辺自身が見た、前進座の河原崎長十郎と中村国太郎は、まるで本当の夫婦のようであったという。そして、「こうした関係は歌舞伎界では美徳だと捉えられていますから、稽古場や楽屋でのことならば、「セクハラだ」「性加害だ」と批判することは出来ません」と書いている。
最後の「舞台に戻ってきてほしい」では、公私の区別や虚構と現実の区別を付けることが出来なくなり、今回の事件に至った猿之助を批判する。同時に、この才能を見捨てるには忍びないという痛切な心情が開陳されている。さらに、「役者が困難な立場に立たされた時には、本人を周囲の人間が支えてあげて、状況を改善する努力をしなければならない」と述べ、この観点から、「他人行儀なコメント」をしている松竹を、川口松太郎なら叱りつけていただろうと、批判している。

(冒頭画像は、「平成七年 子ども歌舞伎フェスティバル」ポスター」[札幌市北区・篠路コミュニティーセンター収蔵・展示。許可を得て著者撮影])

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?