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神戸大学・福島宙輝先生による拙著『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』書評―「3,960円で参戦する方法」―の紹介など

かなり前になるが、去年の9月に新曜社から刊行した拙著『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争―物語生成のポストナラトロジーの一展開』の書評を、神戸大学の福島宙輝(ふくしまひろき)先生がnoteに書いてくれていたので、紹介する。


私の本の宣伝であると同時に、福島先生自身の文章の面白さ(うまさ)を示すものでもある。

福島先生は、認知科学の専門家である。しかし認知科学と言っても広い。従って、それだけは何かを説明したことには、殆どならない。
もう少し狭めると、私が知っている範囲では、「味覚の認知科学」という新しい領域の開拓者である。味覚に関する脳神経科学的な研究は数多あるに違いないが、それとは違って(無論関連もするが)、人間が、味覚をどのように、主観的に体験し、また言語を始めとした表現媒体で表現するか、という問題に、焦点を当てた研究を行って来た。以前は、「日本酒」の味覚の主観的体験に関する研究を盛んに行っていた。
最近では、生成AI関連の倫理や社会的問題についても、研究しているようである。
福島氏は、既に多数の論文を発表しているので、興味のある方は、是非現物に当たってほしい。まだ若いので、研究業績はこれからさらに続々と出て来るであろう。

さて、『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』を出版して、そろそろ一年が経つ。私は、国際関係の専門家でもないし、ロシアやウクライナの専門家でもないので、実用性ゼロ、であることは確かであろう。また、偽情報戦や「ナラティブ戦」について、教科書的にまとめた本でもない。
この間、福島氏のnote上での書評を除き、反応もゼロ、であった。

現在進行形の戦争が題材なので、当然事態は動く。
本書の最初の方で私は、「ロシアの強さ」について論じたが、その通り、ロシアはその後しぶとかった。

さらに、ハマス‐イスラエル戦争などというものもその後勃発してしまい、日本では、「民主主義諸国対全体主義諸国」との戦いという綺麗な構図も崩れ、最近では、反米的・親露(中)的言説もいよいよ強まり、(第二次)ロシア・ウクライナ戦争勃発当初の言論戦のクリアさがどんどん失われつつある。
一番残虐なのは、アメリカではないか、イスラエルではないか、西欧ではないか、「民主主義諸国」そのものではないか、というわけである。
今では、岸田首相が昨年、G7を広島で開催した当時の気分はなく、日本は、様々な局面で、「白人グループ」から排除されつつある、という感じさえ漂う。

このような混沌とした状況の中で、大筋で一本化された、理性的な日本の物語(ナラティブ)を構築し得るのかと言えば、すぐには無理だろう。
しかし少なくとも、「白人グループ」の「偽善」を突くのは良いが、一転してその反対グループに傾斜することによるどうしようもない危険性については、現実的に、冷静に、認識しておく必要はある。

例えば、「テロリズム」や「暗殺」のような、非民主主義的方法を礼賛する、例えば島田雅彦とか山口二郎といった類の輩による「言論の自由」の行使に対しては、より正当な言論の自由の使用によって、徹底的な批判を加え続けなければならない。(サヨクとかウヨクとか関係なく、非民主主義的で全体主義的な言論、というのがポイントだ。この種の輩、IF 政権取ったら(そんなことはないだろうが)、「粛清」を始める恐れがある。)

余談だが、岸田政権から紫綬褒章を貰った上での、あるいは国家から多額の研究資金を受領した上での、言論の自由の死守とは、どうしようもない偽善である。
「言論の自由」などと言いながら、「言論の自由を否定するものを肯定する」という、言論の自由の行使は、考えるだけで頭が痛くなって来るが(しかし、「暴力絶対反対、しかし場合によっては暗殺賛成」という考えの持ち主なら、絶対矛盾の自己同一ででもあるのか)、より疑われるのは、彼らがあるいはその種の輩が、「日本国家は日本国家に反対する者の言論の自由をも守る、極めて懐の深い国家だ」という物語(ナラティブ)の形成に加担している、といことだ。つまり「出来レース」である。せいぜい掌の上で、言論の自由を「死守」しているがよい。それが日本国家に対する、本質的批判になっていないことだけは、上のことから、明らかだ。
私見であるが、このような「現象」は、私の同世代人における、どうしようもないセコさを証明している。後の世代の人々に謝罪したい。などと言ったら、私自身が偽善者になるのだろうが、本当に、同世代の一部の輩のお目出たい言説には、虫唾が走る。

・・・という具合に、今は雑談しか書く時間がない。
と言うのも、この春、盛岡近郊及び盛岡市の岩手県立大学を退職し、大阪府吹田市にある、大和大学情報学部に移り、多くの授業を受け持つことになったからだ。
最初の半期は、AI(特に、自分自身が何より勉強しつつの脳神経科学入門講義)、情報文化論、情報行動論、情報メディア論その他を教えた。歌舞伎やロシア・ウクライナ戦争も論じ、拙著『ポストナラトロジーの諸相』(新曜社、2021)も教科書として使用した。


後期には、認知科学や生成AIなどの講義をする予定で、「流動小説」を書き実験する以外の大半の仕事時間を、授業の準備に費やしている。
論文は青森大学の小野淳平講師と協力して、複数掲載しているが、本は書けない状態だ。逆に言えば、授業の準備が、今後の本や論文を準備する位置付けとなっている。

そんなこんなで、『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』の続編として構想している、偽情報戦やナラティブ(物語)戦や、そのシステム化やゲーム化を内容とする書物に取り掛かるまでには、もう少し時間がかかる。

なお、本書でかなりのページを取って、ワシーリー・グロスマンの小説『人生と運命』を紹介したが、最近この第一部に相当する部分である、『スターリングラード』の翻訳全三巻が出版されたので、紹介しておく。
この本は、第二部に当たる『人生と運命』や、同じ作者の『万物は流転する』(拙著の中でその強烈なレーニン批判の部分を紹介した)程には、ソ連国家や、スターリン等への批判は露骨ではないと、言われていたが(実際どうなのかは、ここで紹介する改稿版を読んでみないと分からない)、ソ連の体制派作家コンスタンティン・シーモノフらによって、グロスマンの意図を無視した大幅改稿が行われ、『正義の事業のために』というタイトルで出版されたが(日本語訳はない)、今回の『スターリングラード』は、現在可能な限りグロスマンのもともとの原稿を復元した版とのことである。

(以下のnote記事で、『人生と運命』の部分的紹介を行った。

第二部の『人生と運命』の冒頭も、スターリングラードに入る列車(囚人護送車)の場面であり(それで表面的には全く異なる川端康成の『雪国』と較べてしまった)、ソ連とドイツのスターリングラード攻防戦が主要舞台となるが、第一部では、恐らくその初期の出来事が描かれるのだろう。グロスマンは、記者として、スターリングラード戦に従軍した。
ロシア語ではなく、英語版であり、英語からの日本語訳である。
買ったばかりで未読であるが、読んだら紹介したい。

なお、最近迂闊なことに気が付いたのだが、グロスマンが生まれたウクライナ西部のベルディーチェフという町は、あの『闇の奥』や『ロード・ジム』の大作家ジョセフ・コンラッドの生誕地でもあった。コンラッドは、ウクライナ人ではなく、ポーランド人である。
子供の頃から、コンラッドという作家には、何やら得体の知れないものを感じていたが、その正体が分かるかも知れない。すっかり中身は忘れてしまったが、今後再読+初読を進めたい。




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