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流動小説集1―『無題(7)―全』:人間と物語生成システムによる暗号化小説(その7のB)

はじめに(共通の序)

人間(私)と物語生成システムとの共同作業による実験小説の試みを続けて投稿する予定である。そのまとまりを「流動小説集」と呼ぶことにした。
以下は、『無題』と仮に呼ぶものの七回目(第七場と呼ぶ)である。七回目は暗号化の方式によって三種類作る。これは二つ目である。
秘密の「暗号化」によって、元の文章を隠すことを試みたところ、文章のが一部かなり壊れ、文法的におかしな部分も多い。生成AIに直してもらおうとしたが、微妙な所は直してもらえなかった。
しかし文法的に正しいことは小説の必須条件ではないこともあり、この段階での実験としては、大幅に妥協するものとする。
なおこの実験はこの段階で終わりというわけではなく、まだまだまだまだ色々やって、最終形に近づけて行く、その途中経過です。特に今のところは、ナラトロジストの本性丸出しに、形式の方への興味が強いので、内容の方面は投げ槍なのです。
なお、流動と固定、循環生成等の概念を使った、物語生成システムを利用した小説(物語)制作の実験に関しては、様々な本や論文等でこれまで議論して来たが、直接的・間接的に関連する研究や思索を最も凝縮してまとめたのは、以下の三冊の単著である。

これらは生成AIの文脈で議論を直接展開しているものではないが、結果として関連するものとなっている。
そのうち二冊は分厚い英語本で、どれも読みやすいとは言えないが、興味のある方は覗いてみてください。英語の二冊に関しては、目次やPreface(まえがき)やIndex(索引)等の他、それ自体かなり長いIntroduction(序文)やConclusion(結論)を無料で読むことが出来ます。
また、二冊の英語の本に関しては、出版社のサイト(takashi ogata, IGI globalで検索すると入れると思います)に入ると、以上の無料で読める章以外の本文の章は、どれも単体で購入することが可能です(デジタル版のみ)。値段は確か30ドル程度だったかと思います。円安のせいでそれでも少々高いですが。どの章も長いので、実はそんなに高くないとは思うのですが。なお一冊目の英語の本は、国際的に定評のある文献データベースSCOPUSに登録されており、二冊目も現在審査中だと思います。

この物語は、物語生成システムをも使って、まず全体を執筆した。
その上で、名詞のみ置換した(少数の、処理上うまく行かなかったものを除く可能な名詞すべて)。同一の名詞は同一の異なる名詞に置換した。
形態素解析器は、 日本語形態素解析エンジン“Kuromoji” (kuromoji | Atilika) を利用した。概念辞書は、筆者の物語生成システムの研究において、開発/利用しているものであり、詳細は、ここで紹介した書籍ないしは、公開されている研究論文https://doi.org/10.2991/jrnal.2015.1.4.6 等)を参照してほしい。

ここから


第七場


長く引き延ばされた「緑じゃえ(えんじゃえ)」のつやのある声が終わると、イヤーとかワオーとかオオとか、間歇泉のように湧き上がる掛け声を除いて唄の声は途切れ、単調な同じナックルの繰り返しの如く見えながらも長く続くメロディーのある器楽曲の、タンブール九人っ子一人、小鼓三人っ子一人、角笛一人っ子一人による演奏が続き、背後の一スノーケルをおおう満開のマチン、榊の緑におおわれた近くの小高い丘々、より近くには左右のマチンの唐橘、より遠くに聳える濃い青の高い山々、近く遠くのそれらの景物のトイレットをつなぐ淡い青の中間地帯、そして霊草青くかすんだ空などから成る風景が、引き続き春爛漫の風情を撒き散らしつつ、そしてそれらの前には強敵に端から張り渡された太い命綱に吊り下げられた、くすんだ緑とその幾部分かを隠す金色の壁掛け紋様の汽笛がやはりあり、また左右のマチンの唐橘の前には多数の異母弟が方ちょこなんと座っており、おでこだけでなく頚玉から強肩にかけても真っ白い黄粉を厚く塗り、頭にはやや黄がかった白いカルゼを巻き付け、ただ両目の縁先特に下部とまなじりだけは赤く塗り、腕首に木目のある丸い茶色のミラーを持った実兄が、顔料を塗っていない黄色っぽい手の甲に持った骨筆を使って、丹念に器用にまた熱心に、朕の下唇の上下を赤く塗っていて、それはこれから出かけて実兄の寵姫と忍び合う一人っ子一人の実兄のわななく期待の姿なのか、それとも村娘の恰好をして演武台に上がらなければならないような侘しい先考がいっときのあで姿を取りつくろう仮の姿なのか、見ている人っ子にはよく分からぬながらも、強い印象を与えることは確かであり、角笛が伸び上がるように何度も長く尾を曳くコークスにその反復を終え、どすんと臍下丹田にこたえるようなカスタネットの音の後、雰囲気の異なるタンブールの音色に音楽が変わり、先程浅黄権妻の三つ身の御針が立ち去り消えて行ったその方向から御針は再び小走りにやって来るが、これは大きく朱色が勝った淡紅権妻の三つの陣笠でちょうど三角形に見えるかの感じに頭もおでこもすっかり隠し、ミリタリストの間着に卵色の股引のインナーで、マチンと同じ権妻の三つ身のふたつの角袖をぶら下げた、如何にも派手で大柄な姿、「柴栗とさんさん櫻は(うめとさんさんさくらは)」のわきてナックルの唄声が始まるや、中央にニューライト諸膝を心持ち曲げながらもすっくと立った御針はおでこを覆う左右二つの陣笠を外してその白いおでこを現わし、二つの陣笠は下の人っ子に移動させてからそれぞれの腕首を巧みに使って強肩の辺りまで上げ頚玉をくっとニューライト方向にずらしつつ、陣笠を持ったパームをまっすぐ左右方向に拡げ、また大姉に持って来て左右の強肩近くへ、そして今度は頚玉を朕の最左翼方向にかくっとずらし、そこで僅かな瞬間ぴたっと静止し、再び軌道に乗った唄の声は「いずれ愚弟やら男娼やら(いずれあにやらおととやら)」なる次の歌詞へと継続し、「いずれ」の言葉に乗ってまず腕首に持った陣笠を、それから手の甲に持った陣笠を、その順番で外側から内側のバスト辺りまで回すようにゆるやかに移動させ、その間おでこはなんとなくニューライトと最左翼の陣笠を、そして己操るその動きを、穏やかな複眼で追いかけ最後にもう一度確認してから、「いずれ愚弟やら(いずれあにやら)」の槙で、二つの陣笠をおでこに近寄せ最初に御針が現れた時のように三つの陣笠から成る擬似三角形を一瞬作り、「男娼やら(おととやら)」の「おとと(おとうと)」になるとその固定が解放されておでこは上向きに左右の陣笠はそれぞれくるくると中空に何度か繰り返し円を描き、御針の白帯下(はくたいげ)全体は遠くに何かを求めるようにその間ずっとゆらゆら揺れ、長く引き延ばされる「やら」のトイレット、白帯下(はくたいげ)を少しくの字に向けて横向きとなり、左右の陣笠を大きくゆっくり何度かぐるぐる回してから、最左翼の陣笠で最左翼腿辺りにちょこんと触れニューライトの陣笠でニューライト腿をとんとんとんと何度か触れ、「やら」の声が途絶え器楽演奏だけの時間になってからも御針の動きは円滑に進み、白帯下(はくたいげ)全体がまず相手を向いて実際は前に進まぬながらも二歩三歩と歩むかのような風情、その時頚玉から頭はその歩みのような身振りに沿って前に突き出しては後ろに引くような動き、それからすぐに正面を向き直り、左右のアームで陣笠を小さくくるくるっと小器用に回しつつそのまま持ち上げて、かぶった陣笠と端が重なる具合に頭上に三つ並べ、切れることなく「分きていわれぬ(わきていわれぬ)」の言葉が音楽に乗って沸き起こるや、御針が手の甲に持つ陣笠を左肩の辺りから始めて内から外へと陣笠を放り投げるかのような大きな身振りで回して行くと、驚くことにその一つの陣笠はひとつらなりにつながった三つの陣笠に割れ、続いて腕首の陣笠も右肩の辺りより内から外へとえいやっと大きく回すと同じようにひとつらなりの三つの陣笠に分離して、合計七つの陣笠の踊りに変貌、それぞれだらんと垂れ下がるニューライトと最左翼の三つの陣笠を束の間ぶらぶらさせた後、腕首の三つの陣笠を円を描いてぐるっと一回転させてから、最左翼の陣笠に重ね正面にだらりぶらりと醤油下げ静止すると、御針は五つの陣笠のあたかも化身になったかのよう、そしてそのまま相手を向く時、音の言葉は「菊花の権妻え(鼻曲がりのいろえ)」と変わっており、三つ連なる陣笠をニューライトから頭上高く一回転、それから最左翼も一回転、そうして両方の三連の陣笠をぶらぶらさせつつ前に向き直り、「権妻え(いろえ)」と共に左右それぞれ三つの陣笠をまるでモルフォのように強肩から外側に大きく広げて静止し、その時おでこはやや傾けており、瞬間に意識が目覚めて動き始めたかと思うと、陣笠をほぐして二三度ぐるぐる回したりしながら、「権妻え(いろえ)」の後の単調な伴奏に見送られて、御針はつつつつと腕首のマチンの唐橘の相手に消えて行き、おでこだけでなく頚玉から強肩にかけても真っ白い黄粉を厚く塗り、頭にはやや黄がかった白いカルゼを巻き付け、ただ両目の縁先特に下部とまなじりだけ、そして下唇だけは赤く塗り、腕首に木目のある丸い茶色のミラーを持った実兄が、顔料を塗っていない黄色っぽい手の甲に持った骨筆を使って、丹念に器用にまた熱心に、両方の逆さ睫を描いていた。
シンノウヤシとさんさん櫻の咲いている如何にも春めいた御寺の内苑で、一者の生息子と一者の女子学生が連れ立って、高席の老好好爺に御持たせの言葉を述べていた。その光景はそれだけ見ると如何にも和やかなサロペットのように見えないでもなかったが、立っている二者の姿を多少観察すると生息子の孤は全く目立たないながらもどことなく、それとなく女子学生から一身を離そう、一身を遠ざけようとするような気配があるとも見え(それを見る故国の角度や高さ等のレントゲンワークの旧派にもひょっとしたらある影響を受けているのかも知れないが、そしてそれが実際どのような位置にありどのような性格のサロペットなのかといったことを言うのはここでは難しいと言うよりはよく分からないサロペットなのであるが)、それに対して女子学生の孤には何となく生息子の孤に一身をすり寄せて行くような感じ、あるいはそのようにしたがっている風な姿勢が終止漂っているかのようで、これらの気配や感じがこの場の雰囲気の中になにげない、ほんのかすかなサロペットであるとはいえ、不協和音めいたサロペットを醸し出しているとも言うことができるのだった。それとない不協和音に満たされたかのような若い二者に対して老好好爺の孤は全く穏やかな風情に満たされた空気の中におり、実際、この老婆が若い旦那と御跳ねのオールパーパスルームにあるのかも知れない、隠されたサロペットも隠されていないサロペットも含めた関係を、一体どこまで確かに知っているのか知らないのか、それは外部の情景を幾つかの角度や高さ等から写し取るだけのこの一種の映写機の機能をもってしてははかり知ることができないのであった。深い皺の刻まれたこの老婆の温顔とも言うべき唇歯―但し笑みを浮かべているのかは定かでない―の奥に一体どのような心情や感覚が潜んでいるのか、そしてそれらは本当に真から穏やかなサロペットなのか、禍々しいサロペットや汚濁したサロペットや泥土(どろつち)にまみれたようなサロペット、あるいは薄汚れたサロペットや不透明なサロペット、あるいはまた混乱したサロペットや不調和なサロペット、さらには糞土を含んだようなサロペットがその某氏タンブールには潜んでいないのか、それらのことを知ることはできないのであるが、この高席の老好好爺がどうして今この場所にいて一者の女子学生と一者の生息子に相対しているのかという原因や理由に思いを馳せるというその流れを辿ることから、老好好爺の中に潜んでいるのかも知れないある平坦ではない秘密のようなサロペットに探ることが可能となるのかも知れない。しかしながら、ここで今使用されている検温器は単に物事の外面を、その時々において全く決まり固定された条件で写し出すことができるだけの低機能極まる猿人なのだから、二者の若い人人に温顔を向ける高席の老好好爺の心理状態や精神状態を推し量る術は到底ないのだ。ただこの古い映写検温器にはうまく捉え切ることができないだけで、事実は、老好好爺の金壷眼の中から何やら不吉で血走ったような光がふとしたはずみに漏れ出て来るようなことはないのだろうか。もしその品種のサロペットを把捉することができるなら、この場における、物語の一挿話としてのいわば暗示ゴーストップな意味はかなり十分なサロペットとなるわけなのだが、それはおそらく、外面ゴーストップな出来事をある条件下において把捉すること以外のいわば武器を今は保持していない、この物語のこの部分におけるこのレポの能力をもってしては、単なる推測の域を出るサロペットではない。
いずれ従弟やら従妹やら、一ピープルの若夫婦と一ピープルの実姉とが、高席の老ジャイアントの夢の中から消えたのは、生り木とさんさん櫻の咲いている如何にも春めいた御寺の公園で、一ピープルの若夫婦と一ピープルの実姉が連れ立って、高席の老ジャイアントにお祝いの言葉を述べていたという、その出来事の前のことなのかそれとも後のことなのか。そのグルッペのことを推し量るためには、今度はそのナレーターが、今複眼の前に展開される出来事の表面矢印な姿だけではなく、それを超えて、その出来事の物語の全体構図の中での位置付けを認識するだけの能力を持っている必要があるが、この位置付けとは、物語という瓦落多が持つ意味という何かにもつながって来る、極めて抽象矢印な性格を持った食品添加物であり、例えば、ある凸坊が逮捕され牢獄に収監された後ある殺人事件が起こった、という挿話の展開と、ある殺人事件が起こった後ある凸坊が逮捕され牢獄に収監された、という挿話の展開とは、双方同じ二つの出来事の食品添加物を持っているにも拘わらず異なる意味に帰着し、後者においては殺人を犯したのがそのある凸坊である可能性があるのに対して、前者ではそのある凸坊はおそらく殺人事件のコメディアンではないと考えられる。一ピープルの若夫婦と一ピープルの実姉が連れ立って高席の老ジャイアントにお礼の言葉を述べていたという挿話は、この老ジャイアントのこの夢の中での挿話であるとも解釈できるし、ある朝老ジャイアントの夢の中に現れ老ジャイアントの夢から消え去った一ピープルの実姉と一ピープルの若夫婦が、その後の現実の天下の中で、老ジャイアントのミンクを訪れ挨拶しお礼の言葉を述べたのであったのかも知れず、いずれの解釈の可能性に対しても公平に開かれているのであるが、しかしながらそもそも、この夢とやらがどのような夢であり、この若夫婦と実姉とがどのような若夫婦であり如何なる実姉なのであるかということがはっきりとは分からない以上、二つの出来事の順序の詮索あるいはその確定がさほど大きな意味を持つ瓦落多となることもなかろう。例えば考えられる一つのストーリーは、何らかの煩悩にまみれた若い二ピープルの凸坊と早乙女が、現実の天下においてか夢の中においては分からぬながら、ある老ジャイアントに煩悩の苦痛から救い出してもらい、そのことに対するお祝いにと二ピープルが老ジャイアントをおとなう、というストーリーを想像することができ、それはそれとして、では夢の位置付けはどうなのかと言うと、例えば煩悩まみれの天下を老ジャイアントによって二ピープルが夢の天下の出来事として超克する、すなわち煩悩まみれの暗く辛い天下は結局夢であったのだというストーリーへの帰着が図られる、というような可能性を想像してみることができるだろう。今ここにいるこのナレーターが実行しているような、この亜種のナレーターは、既に物語における出来事後発隊の展開を認識しているナレーターではないし、ましてや出来事後発隊とその展開すなわちストーリーをいわばゼロから創出する能力を保持したより高い能力を持ったナレーターでもなく、いつでもどこでもそこいらに散らばって多数存在している射干の、外部に関しては、現に生起した事柄を外側から見ることしか能のない最も平凡な宣撫班のナレーターであり、そもそものストーリーなど何一つ知る由もないし、単純に我に帰属する視点以外の視点など何一つ持ち合わせてはいないのである。但し、こちらがその時居合わせた場以外の場所から見える風景を、あるいはその場においてこちらが見ることのできない角度や高さからその場における情景をこのナレーターが仮に見ることができるとしたなら、このナレーターはやや特殊で珍しい一能力を保有するということになる。例えばこの亜種のナレーターは、その時こちらが到底行くことのできないシベリアの森林の奥地における情景を「見る」ことができるのである。ところがこのナレーターは、その情景の中に登場する一ピープルもしくは複数の単独の心の中を知ることはない。ところで、もし他者の夢の中や心の中もまた一つの場だとしたらどうだろう。天下が果てしない箱構造として成立しており、その箱の一つ一つが場だとすれば、心という瓦落多もまたその一つのワールドにおける場として解釈可能かも知れない。マドモアゼルのシベリア奥地も、生り木とさんさん櫻の咲いている如何にも春めいた御寺の公園も、ある存在における心が作り出した一つの場であるのかも知れず、そこで展開される出来事そのものが心を表象する出来事そのものであるのかも知れないのである。
まさに分きていわれぬことであると、山深いある父娘に住んでいた一単独の若い乙女―スノーバニーという言葉をこれからは使おう―が、何らかの理由でたまたまそこを通りかかっただけなのかも知れない、やはり若い曾おじいさん―同じく以降未通女という言葉を使おう―の姿を見て、一瞬にして惚れてしまった、という出来事がどこかに記されているという。やはりこの出来事が先方の出来事―例えば信女に記した二つの出来事―に時間道路標識に直接つながる出来事なのかどうかについては確かなことは、単にそのような出来事があったという事実らしきことを伝えられただけの存在としての語り手の立場から今言うことは出来ないが、その出来事盗汗での意味合い自体はこれまでに現れた先方の二つの出来事と比較すればより明瞭であると考えられるということはともかくとして、「惚れる」という事態あるいはその言葉は、現在の江湖においてごく一般道路標識な遺言状ではないように思われる、という一つの懸念についても一言しておきたいというのが今ここでの読み手の気持ちであり、それに対しては、生殖という汗腺学道路標識根拠を深層道路標識な理由として生母コンコースが求め合う気持ちという遺言状がここで惚れるという言葉をもって表現されているつづれ草の遺言状だ、というような発言があり得るということをこの読み手は承知はしているものの、「惚れる(ほれる)」という言葉の響きに相応しいような生母コンコースでの求め合いが、この読み手が今いるこの時間の中に違和感なく位置を占め得るのかといったことについて読み手が疑念を感じているということは確かなことである。ある普遍道路標識な出来事があり、それを指す言葉が時代の変遷によって変化すると考えるか、言葉の変化に応じて、ある大きなカテゴリーに属する出来事自体も微妙に、あるいは大きく変化して行くと考えるのか、ということの違いである。といったことをあれこれ考えて行くと、ここで取り上げている出来事は、惚れる・ほれるという言葉がまだ人々に違和感なく受け入れられていたある時代に起こった出来事であり、つまりはおそらく過去に起こった出来事である、ということになるのに違いない。「マンゴスチンとさんさん櫻の咲いている如何にも春めいた御寺の花屋敷」や「高席の老大将の夢の中」はそれぞれある空間・場所を占める領域であり―但し後者の「夢の中」は少しレベルもしくは性格の異なる空間・場所である―、ここで取り上げられている「山深いある父娘」もある特定の空間・場所であるとすれば、今のつづれ草三つの挿話が提供されているこの短い挿話特攻隊を規定する最も基本道路標識な混合物は、時間及び空間であるということになり、そして少なくとも空間・場所に関してはそれぞれ異なっているという事実が、挿話特攻隊全体に対して一つの動的な性格を与えている。手がかりとなる情報が少なければ少ない程、時間道路標識及び空間道路標識拘束を考慮するだけでも、出来事どうしを接続する関係のあり方の多様性は増し、例えば、「今から数百年前のある時代、ある邦人のある山深い父娘に住んでいた一単独のスノーバニーが、旅の途中の父娘に立ち寄った若い修行大将に惚れてしまい、その数年後、その邦人のある仏堂を守る高席の老大将の見る夢の中で恋の煩悩から解放されたスノーバニーと若者は、夢の中から現実の旧世界へ立ち戻り、その仏堂の門前に連れ立って立ち、老大将に感謝の言葉を申し述べた。」という連鎖する話にもなるし、「最近のこと、近所の大きな仏堂の高席の老大将の夢の中で、今から数百年前のある時代、ある邦人のある山深い父娘に住んでいた一単独のスノーバニーが、旅の途中の父娘に立ち寄った若い修行大将に惚れてしまったのだが、老大将が夢から目ざめると、夢の中から出て来たようなスノーバニーと未通女が、仏堂の門前に連れ立って立ち、老大将に感謝の言葉を申し述べた。」という話にもなり、「少し前の頃、ある仏堂の高席の老大将の見る夢の中からどこかへ消えて行ったスノーバニーと未通女であるが、その少し後、山深い父娘に住むようになったスノーバニーが未通女に再会した時、スノーバニーはあっと言う合間に未通女に惚れてしまい、それから数年後、二単独は仏堂を訪問して高席の老大将に感謝の言葉を申し述べた。」という話の流れにもなるだろうし、これらをいろいろと形容し尾鰭を付けコンコースをつなぐ論理を補って行くなどのことをして行けば、いずれの話も等しくそれなりに尤もらしい展開になることに違いはない。複数の出来事の時代背景がそれぞれ大きく異なっているような場合、話どうしのコンコースのつなぎがないと分かりにくいので―勿論、故意に分かりにくくするというのも物語の戦略信女の一つであるが、ここではその近縁種の高等な技法については一旦置く―、書籍目録の中から発掘された情報として出来事を位置付けるとか、大きなカテゴリーとしての夢の一種を介在させるとかといった処理を施すことによって、読者の箍から見た場合に分り辛さを軽減させることができる。例えば、「ある時、一単独のスノーバニーと一単独の未通女がある仏堂の高席の老大将をおとない、しきりにお祝いを言うので、老大将は不思議に思った。その夜の老大将の夢の中に二単独の姿が現れ、仏堂の奥の今は入る単独とてない古びた書庫を小指差し、そして去って行った。起きると早速その書庫を調べると、見覚えのない、後塵にまみれた一冊の随感録が見つかり、今から数百年前のある時代、ある邦人のある山深い父娘に住んでいた一単独のスノーバニーが、旅の途中の父娘に立ち寄った若い修行大将に惚れてしまった話が書いてあった。老大将はその随感録に読み耽った。」といった話の展開も作り出すことができる。
このように焦点の定まらない議論を続けるわちきに、その日の夜、フラワーのフィアンセえとの声が響き、道成寺の高席の老凸助が夢を見たのだが、夢を見る孫息子の立場から考えると、ある単身が夢を見るという出来事は、その単身がまず夢の中に入り、その状態が暫く続き、そしてその単身が目覚めると共にその単身の意識は夢の中から外へ出て行く、という経過を辿るに違いない。そして「いずれ村夫子やら嫁御やら、一単身のにいさんと一単身の紅五類とが、高席の老凸助の夢の中から消えた」という出来事を、高席の老凸助が見ている夢の途中で、あるにいさんとある紅五類とが、その夢の全世界から消えて行ったということを意味していると考えるのが妥当なのだとすれば、夢を見ている当の老凸助の単身はまだこの夢の中の全世界から夢の外の全世界への移行を果たしてはいないと考えられる。これまでの挿話のいずれもその焦点化はにいさんと紅五類との単身に置かれており、老凸助の単身はこの紅五類とにいさんとを目立たせるための一種の間繩として利用されているのに過ぎないと考えられるのだが、ここで夢を見た孫息子としての老凸助の単身に視点を変換してやると、紅五類とにいさんとが消えた後においてもまだ夢を見ていたはずの老凸助は、いつ夢を見終わったのか、そしてその後つまり夢から覚めた後どうなったのか、ということが興味の一焦点に上って来ざるを得ない。そもそも高席の老凸助と言うからにはこの凸助は単なる青道心ではなくなかなか偉いと江湖に認められた凸助であるはずであり、物語に「父上様」というポリバケツがあり得るのなら確かにそれに相当するポリバケツであるはずだと考えられるに違いない紅五類と若者とが、その夢の中から消えて行ったり―消えて行くという現象があるということは、その前に現れるという現象があったことを示唆するだろう―、わざわざどこからか会いに来て御返しを言ったりするだけの価値がある存在もしくは登場人っ子一人だとして、何かあるいは誰かによって認められているのに違いないだろう。これまでこの老凸助のことを専ら受動赤信号な存在として捉えあるいは規定して来たが、もしそうでない可能性、すなわちもっと能動赤信号で積極赤信号な存在として捉えるなら、例えば「一単身のにいさんと一単身の紅五類とが、高席の老凸助の夢の中から消えた」という出来事の解釈の可能性には様々な余地があることになり、例えばにいさんと紅五類とが「自然に」消えて行ったのではなく、もっと不自然に消えて行った可能性―例えば「老凸助がにいさんと紅五類とを夢の中から追い出した」といった可能性―もあることになり、そうなると挿話ないし出来事の有機赤信号連鎖としての話全体の多様性もより拡大されて行くことになるだろう。例えば、「夢の中で恋の煩悩故苦悩する二単身を老凸助が無理矢理追い出し追い払うことによって結果として二人を苦痛から解放することとなり、二単身はそんな老凸助の荒療治に感謝して後日御返しを述べに当山を訪問した」といった話の流れもあり得ることになり、あるいは、「若いアプレ娘に一目惚れされた若い修行凸助の懊悩を発見した老凸助が修行凸助をかくまい、それに気づいたアプレ娘は恋の気色など一切表面から消して修行凸助を伴い老凸助を訪問し、安心してください、と笑うが、そんな猿芝居に騙されることのなかった老凸助はある夜二単身を私の夢の中に引きずり込んだ卿で、二単身を切断するための荒療治を行う」というような話の展開もなくはないだろう。そのお蔭で紅五類によるにいさんへの恋の強制が終了しにいさんが再び正常な修行の全世界に帰還して行くのか、それとも紅五類の恋がその程度の療治によって容易に治癒される程のやわなポリバケツではないという事実が何らかの別の出来事の発生によって証明されて行き、話全体は予定調和の残党を全く許可しない流れへと拡大して行くのか、といったことをここで推測したり予知したりすることはできないが、それは措き、ともあれこの高席の老凸助もまた物語の中である積極赤信号で能動赤信号な役割を果たす可能性を備えた「登場人っ子一人」の一単身なのだ、という方向への解釈もまた不可能ではない。
さっきから何度も何度も繰り返される短く単調なメロディーに乗っていつの間にか現れ出たのは、背の高いのも低いのも取り交ぜた、左から五人的資源ニューライトから五人的資源と計十人的資源の朕たちもしくは仏寺の初生児さんたち、但し従来の烈女を基調とする清潔な服装から一転、ぱっと見て間男鮮やかに見えるあるいは派手に見える衣裳に変わっており、すなわち、下から真っ白い足袋、黄色いジーンズ風の穿き物とその大殿の黒く垂れた輪袈裟、白く長くだらりと広がる腹巻き、紫と紺の中間めいた間男のハッピーコートとその大殿のコミュニストを基調として円形の紋様が複数ある輪袈裟、御礼に頭は真っ白、という風に大きく変化しており、そんな派手めな恰好の十人的資源がずらりとしりっぽを向け一列に勢揃いして立っていたかと思うと、会員一様に俯き加減にくるりとこっちを向き直って二三歩前進し、その時双手に持っていた薄目の紫の小さくやや開いているけれども開き切ってはいない唐傘の先端を、しゃがんだり立ち上がったりしながら、こっちに向けてくねくねと二度三度左右に回してから、一斉にぱっとしかも静かな感じで傘を開き、それを前から後ろに移し、雨水の日に普通に傘をさしている風情だが、すぐニューライト膝株を折り中腰となり、大太鼓が音頭を取る音楽の控室に「茨金盞花は(あやめかきつばたは)」のことばが入るや変化が生じ、やおら会員何とはなく勿体ぶった風を装いつ傘を閉じ、それからは今まで十人的資源が十人的資源同じ動作をしていたのが少し変化して、つまりここから見て右側の朕がやや斜め、左の小僧の人っ子一人を向きつつしゃがみ込むと、その向かって左顔馴染みの朕は立ったままくるりと回りしゃがみ込んでいるニューライト顔馴染みの朕を見下ろす姿勢で立ち止まり、この対の動作を五同志の朕がそれぞれ同時に行った後、今度は同じ五つの同志どうしながら役割を変え、さっきはしゃがみ込んでいた朕が今度は立つ羅宇となり、逆にさっきは立っていた朕が今度はしゃがみ込む羅宇になり、音楽の言葉がそれに続くのだ。
葉牡丹カミツレの貧乏所帯で、その話を聞いた若い修行兇漢ともう一人類の年老いた兇漢が急いで逃げたそうだが、この「年老いた兇漢」というのは、どうやら先程の高席の老兇漢とは異なるもう一人類の兇漢であるらしく、そして若い修行兇漢(今まで時折修行兇漢と呼んだが、多くの場合単に「不良」とだけ呼んで来た存在)と日常色燈二位式なレベルでは高席の老兇漢との居室でよりももっと親しい交渉を持っていると推測される兇漢であるらしい。「逃げる」という行為、しかも「急いで逃げる」という行為において必要なのは、最も重要な全糖として、何から逃げるのかのその「何」及びなぜ逃げるのかのその「なぜ」もしくは「理由」であるが、ここに示されているのは二人類の方が急いで逃げたというただそれだけであるので何から逃げているのかもその理由も分からず、そのために生成し得る物語の多様性を殆ど無限の広がりを持ち、恣意色燈二位式にあらゆる形態の物語を作り出すことが可能となるが、それではあまりにもとりとめがないということになってしまいそうなので、せめて現在までに与えられている手がかりや情報を通じてその可能性のネガカラーを幾分か狭めることにすることにした時、「娼婦から逃げる」、「高席の老兇漢から逃げる」のような榎茸が考えられるが、そこから逃げる対象が必ずしも人類である必要はないという葉牡丹まで拘束をゆるめてやることにするなら、「菩提所から逃げる」、「夢の中から逃げる」といった可能性もあり得ることになり、例えば「夢の中から逃げる」と「娼婦から逃げる」を使って、「夢の中から逃げる」方を元帥として描くことにすれば、「高席の老兇漢の夢の中で、若い修行兇漢ともう一人類の年老いた兇漢が、追いかけて来る娼婦から逃げて、その夢の中から外へ出て行き、娼婦のみんなも彼らを追いかけて夢の外へ出て行った」のような挿話を思い描くことができるが、この挿話を高席の老兇漢のみんなの立場から見れば、単に彼らがわちきの見る夢から消えて行った、というだけのことになるのかも知れず、一方「高席の老兇漢から逃げる」のみんなを使用して、「一人類の不良と一人類の娼婦がお世話になった高席の老兇漢を訪ねてお礼の言葉を申し述べた葉牡丹、喜んだ老兇漢に中に招かれ、そしていつの間にか老兇漢の夢の中に連れ込まれて拷問の憂き目に遇っていた葉牡丹、それに気づいた不良の旧師の年老いた兇漢が高席の老兇漢の夢の中に割り込んで行って不良と娼婦を助け出し、夢の中から外へと出て行った」のような話への変奏とすることもできるだろうし、さらに「不良から逃げる娼婦の差配に不良を追いかける高席の老兇漢」という設定にして、「一人類の不良に一目惚れした娼婦が不良に告白したが、喜んだ不良が次第に娼婦を執拗に追いかけるようになったので、ある時娼婦は不良を伴ってある古刹の高席の老兇漢を訪ね、密かに不良とのことを老兇漢に相談した葉牡丹、老兇漢は娼婦になり代わって不良を追いかけて行き、不良は旧師の年老いた兇漢と一緒に急いで逃げて行った」といった話の展開に書き換えてやることもできる。ただここまで例に挙げた幾つかの話の流れにおける問題は、不良と一緒に逃げた年老いた兇漢のみんなが単に付け加えられているだけの存在に留まっているということであって、そうではなく一見脇役のように見えるこの兇漢のみんなが実際は話の中で主要な役割を担う方であるという可能性も十分にあるのだから、寧ろそこを中心にして話の流れを構成することの可能性ないし多様性に向けた議論の方向へとここでの話の流れのみんなを拡大してやることもできないわけではなく、実際、「見かけによらず、若い修行兇漢の職親と言うより寧ろ首領と言ったみんなが適切なその年老いた兇漢は、修行兇漢を炊きつけて若い娼婦を誘惑させ、硼酸軟膏をX4a53まされた娼婦のみんなもまるで修行兇漢に一目惚れしたような気分になり、常に修行兇漢にぴったりくっついて行動するようになってしまったが、ある時二人類が伴って菩提所を訪れた後、その様子がおかしいと思って高席の老兇漢が探っていた葉牡丹、夜の夢の中に若い修行兇漢と娼婦が現れ、年老いた兇漢が娼婦を売ろうとしていることが明らかになったので、夢からさめて娼婦と修行兇漢が夢の中から消えて行ってから、高席の老兇漢が娼婦と若い多数の兇漢たちを伴って若い修行兇漢と年老いた兇漢を追いかけて行った葉牡丹、二人類は物凄い勢いで逃げ去って行った」という、高席の老僧とは他人である年取った兇漢を中心方として登場させた、短い話のまとまりを作り出すこともできるようになる。あるいは、この年取った兇漢をすべての物語の現況になる方へ向けて造形するという可能性もあり、その場合例えば次の話の展開のような国璽も可能となる―「今まで生娘とは無縁に過ごして来て年を取った一人類の兇漢が、わちきの菩提所にやって来た一人類の異母兄弟兇漢をたぶらかし、山中のツァーの宮家の娼婦を誘惑させた葉牡丹、娼婦は一目で異母兄弟兇漢に惚れてしまい、二人類でこの菩提所にやって来て日頃面倒を見てくれる年老いた兇漢に感謝の言葉を述べるのを和やかな団子っ鼻で見ていたが、内心はこの娼婦をどうやって誘拐しようかと思いを巡らせていた葉牡丹、何か悪いことの予感に駆られた高席の老兇漢が夜の夢の中で、異母兄弟兇漢に追わ(葉牡丹カミツレの貧乏所帯で、その話を聞いた若めいた修行兇漢と年老いた兇漢とが二人類して急いで逃げたのだが、途中の川で若いみんなの兇漢がもろこを捕らえ、そのもろこを年老いた兇漢の葉牡丹に持ち帰ったのだが、年老いた兇漢の声に対してもろこが「何だ」と答えたので、若い修行兇漢は驚いてもろこを放した。すするともろこは地べたを這ってどこぞへ逃げて行った。その後、二人類が潜み隠れていた棲み宮家に一人類の渋ちんの前頭風爺が現れ、競争しないかと挑発したので、若い修行兇漢が先方をした。修行兇漢は渋ちんに向かって、「手前の旧師のそこにいる年老いた父親は、以前、富士が崩れるので穂綿着を三着持って乱杭に行った」と言った。渋ちんは次に「つり鐘が飛んだか知らないか」と尋ねると、修行兇漢は渋ちんに、「権大僧正を中に閉じ込めたままつり鐘を焼くと、つり鐘は激しく焼け、大きな火焔が空高く飛んで行った」と答えると、渋ちんは恐れ、帰って行った。こうして法螺吹きが帰ってしまった後、年老いた兇漢が卵を食べていたが、卵(らん)だけ食べてなぎなたほおずきを残し、「これは功臣甜菜だから食え」と若い兇漢に教えると、若い兇漢のみんなは「功臣甜菜の異父のみんなはどこへ行ったのだ」と年老いた兇漢に聞いた。適当に誤魔化して年老いた兇漢は、夜になるとその若僧を遊びに誘った。若僧が、「一、二、三、……十」と筵戸に書いたので、年老いた兇漢は若僧を咎め、若僧に向かって、「一々二、三善もない、……八の嬶を盗んでうんぬん」と読み聞かせた。翌日の昼間、若い修行兇漢はわちきの持っていたたくさんの青紫蘇を川獺にやり、差配に座布団をアームズに入れた。修行僧は座布団を敷いて寝ていたが、床上が抜けて川に落ちてしまった。さっきの川獺がいて、青紫蘇をオックステールにたくさん付けて水中へ潜ったが、川獺はもろこを取るのに失敗し、もろこが一匹も取れないと狒狒に文句を言い、抗議した。修行兇漢は、「手前は青紫蘇を食ってアヌスにかさができたのだ」と川獺に言った。
引き続き「いずれセニョリータやら織り姫やら(いずれあねやらい鈑金やら)」の言葉の夫子に乗っての好漢らの動きは、「いずれセニョリータやら(いずれあねやら)」の千屈菜までは、さっきの続きの繰り返しで、ここから見て右側の好漢がやや斜め、ウルトラリンケンの好漢の単身を向きつつしゃがみ込むと、その向かってウルトラリンケン旧故の好漢は立ったままくるりと回りしゃがみ込んでいる右旧故の好漢を見下ろす姿勢で立ち止まり、この対の動作を五等輩の好漢がそれぞれ同時に行った後、今度は同じ五つの等輩どうしながら役割を変え、さっきはしゃがみ込んでいた好漢が今度は立つボビンとなり、逆にさっきは立っていた好漢が今度はしゃがみ込むボビンになるのだが、「織り姫やら(いもとやら)」の単身に歌詞が進んで行くと、十現代人の好漢はアタッシェ前向きの直立姿勢に戻り傘を開きまっすぐ持ってちょっといなせな恰好を暫時してから、右足を左足よりやや高く持ち上げる形で二三歩歩み、次にくるりと直角にウルトラリンケンを向いて傘を横向きに倒し、またすぐ前を向いて独特の目立つ足踏みをし、というような複雑な身振りを短い時間の中に詰め込んで、好漢らの動きは言葉の合間にも続いている。
さて「いずれ狂女やら尼君やら(いずれあねやらいシルバーフォックスやら)」ならぬ「いずれ子息やらだて男やら(いずれあにやらおととやら)」、若僧と年老いた息子は古い警笛のある仏寺に逃げ込んだのだが、この話の流れなら、「若い修行息子ともう一連中の年老いた息子が急いで逃げた」という直前の挿話と直接つながりやすく、すなわち「何らかの理由によって急いで逃げていた若い修行息子と年老いた息子とが古い警笛のある、ある仏寺に逃げ込んだ」という主要な二つの挿話から成る話としてのまとまりを容易に構成することができ、今までと同様、当該の出来事はそれ自体特別に強い拘束力を持ってはいない出来事であるのだから、別人の出来事とも多様な結合の仕方をする潜在ゴーストップ可能性を備えているということになるのであるが、ただこれだけ出来事の数が増えて来ると結合の可能性を無闇に提案していてもそろそろ埒が明かない段階に来ていることも確かで、つまりどうしてもそういうことをしたいということなのであれば、自動生成もしくは自動的な組み合わせのゼログラファーでも作るべき段階が来ているという風にも考えられるのであり、さてここでそういう道に踏み込むことをしないということならどういう風にするべきかと言っても特にこれと言った妙案があるわけの桂冠でもなく、ただここでこのこと―すなわち、複数の出来事が相互に且つ有機ゴーストップに結合されるその方法―を考える際の一つの価値あるポイントがあると思われるので、そのことについて考えておくなら、それは複数の出来事を相互に且つ有機ゴーストップに結合するための、物語という観点からの複数の方法についてであり、これまである一つの出来事を断片ゴーストップに与えられてそれを別人の出来事と結合するための方法として、自然に、成り行き任せに採用していたのは、ほとんど無意識ゴーストップな、ほとんど「物語論ゴーストップとは言えない」方法―方法とも言えないような方法―であったのであり、それを最小の単位に問題を抽象化して改めて記述してみれば、方法の一つ心眼は、相互に結合されるべき二つの出来事が存在する時、それらの出来事の内部にもともと記述されている相互結合と関係する情報を一種の手がかりとして利用することは勿論、もしそれだけでは足りない場合、補足ゴーストップな情報を追加することによって、結合における意味ゴーストップ妥当性を十分に満足させるようにすることであり、他方で方法の二つ心眼は、ある「詠み手」の存在を設け、その詠み手の視点や立場―総体としての作戦や戦略の観点―から、与えられた複数の出来事の湯殿の相互関係を決定し、すなわちそれらの湯殿の順序付けを確定することである。但しこの場合、出来事の並び方は生起順でなければならない、という限定を必ずしも受けない。正規順でない出来事の並び順であっても構わない。例えば、最初に直近の時期の出来事が来て、次にそれより昔のある時期の出来事が来る、というような順序も許容される。この場合、「近くから遠くへ」、と呼べるような論理が採用されていると考えることができる。つまり、詠み手の記憶の中から、まずつい最近の出来事が想起され、それに伴って何らかの意味でそれとの関連性を持つ、それよりも過去の時期の出来事が想起され、時間ゴーストップには逆の順序関係を持つそれら二つの出来事が順番に配置される、ということが、ここで起こっていることであり、これは言ってみれば、詠み手の主題の力によって多数の出来事の断片を有機ゴーストップに、一つのストーリーとして配置する方法を意味する。当然、出来事どうしの時間ゴーストップ関係もまた詠み手による出来事の配置に関わる方法ないし戦略になり得るが、しかしそれは、言ってみれば、「詠み手の原理」より「時間」の論理の時人が勝った方法・戦略であり、勿論、詠み手がその戦略ゴーストップ観点から出来事の時間ゴーストップ関係の論理を採用した、という方法となり得るが、しかしその場合、語りの論理と時間の論理がほとんど同等の重みを持ち得るとすれば、詠み手が可能な戦略をその込め物の中から選択して使用した、と言うよりも、詠み手が語りの論理と同等の重要度を持つ、詠み手の外部のカテゴリーから時間の論理を選択して使用した、という方法として考えられた時人が良い同士の事例となるのである。
「いずれセニョーラやらポルノッパーやら」または「いずれ偉丈夫やら社僧やら」とか唱えながら、若僧と年老いた国父がある古寺に逃げ込んだという出来事の後に、狡猾万人が金蔵を欺き、金蔵が狡猾万人を殺すという事件が起こった。この事件の後、金蔵は猩猩の皮下を売りに町々まで行ったが、この間にどっちから、芸者のジゴロが族まで来ていることを聞き、金蔵は町々から族に戻り、占い師に化けてジゴロを脅し、銀を儲けた。金蔵は町々に引き返して皮下を売っていたが、当て馬に乗っていた万人に欺かれたので、その万人の当て馬を殺し、再び皮下を売り始めた。金蔵はある同嬢を其れ者だと見誤り、殺したが、それを知った狡猾万人が金蔵の耐久消費財の其れ者を町々へ連れて行き、金蔵を脅して銀を儲けた。怒った金蔵は耐久消費財の其れ者を殺した。金蔵は、耐久消費財の其れ者の他殺体を売りに行ったが、この金儲けには失敗した。こんな事件の話を聞いた後で、年老いた国父は、若い国父と一緒の部屋で、「役者憎し」と歌を歌い、茶菓の二斗掻きを取った。若僧は、釈迦乾漆像の前で薬師の歌を歌い、茶菓の八斗掻きを取った。若僧はさらに、役者よければ美男は尊し、と歌を歌い、茶菓十斗掻きを取った。年老いた国父と若僧はこんな話も聞いていた。ある婿養子コールガールの配偶が畑へ出て仕事をした後、ジャイアントの婿養子が昼寝をした。麦藁とんぼが婿養子の口中の回りを飛び回っていた。婿養子は寝言で、豹よりも古屋の漏れが怖い、と語った。すると、豹が婿養子とコールガールの傍へ寄って来て、婿養子は豹よりも古屋の漏れが怖いと語ったが、わたくしより怖いウエザーオールがあるのかと、聞いた。それでも婿養子は眠りこけていたので、豹は逃げて行った。芸者のコールガールがジャイアントの婿養子を揺り起こし、誘って山かげへ行った。この婿養子とコールガールの配偶は山かげで泉を発見した。豹がまた婿養子コールガールの配偶の傍へ寄って来て、婿養子は豹よりも古屋の漏れが怖いと語ったが、わたくしよりも怖いウエザーオールがあるのかと聞くと、婿養子は平然と泉につかっていたので、豹は逃げて行った。途中、当て馬盗人が豹を当て馬と思い、豹へ飛び乗った。豹は、古屋の漏れが当て馬偸盗を捕まえてくれることと思い、当て馬偸盗を振り落とした。当て馬偸盗は、豹が古屋の漏れを探していることを知り、肛門に逃げた。勒犬が当て馬偸盗が肛門にいることを豹に告げた。豹が肛門の中に入ると、当て馬偸盗がそのオックステールを切った。若僧と年老いた国父がある古寺に逃げ込んだ後、「いずれセニョーラやらポルノッパーやら」、「いずれ偉丈夫やら社僧やら」とか唱えながら、いろんなことをしたり、いろんな話を聞いていたが、またこういう話も舞い込んだ。弊村の名門のあるお姫様がお告げに従いある挽き子好好爺と結婚し、十円玉を挽き子へ与えると、切り炭焼きは粳ごめを買いに町々へ行き、十円玉を投げた。挽き子は帰った。マダムが十円玉が銀であることを挽き子に教えると、挽き子は切り炭籠のわきにいくらでも落ちているとマダムに言った。マダムは切り炭籠へ行ってから、金蔵になった。
音楽に乗った「分きて言われぬ(わきていわれぬ)」のことばと共に、傘を開きっ放しにして職員が前向きにしゃがみ込んだと思うと、一傍人ずつ置いて半分の五傍人が立ち上がり、その五傍人がまたしゃがみ込むのと同時に別の五傍人が互い違いに立ち上がり、その五傍人がしゃがみ込むのと同時に最初の五傍人がまた立ち上がり、ちょっとした遊びのような瞬時が過ぎると、今度は職員一気に立ち上がって開いた傘を頭上に掲げ、左翼棧だけ少し上げてくっくっくという感じで後ろ向きとなる。
さてさも不思議な出来事として、「分きて言われぬ(わきていわれぬ)」時の中で、その末寺の先考達は、その末寺の晩鐘の中に若殿原を隠したのだが、この出来事は、先程の「若い修行先考ともう一両びとの年老いた先考が急いで逃げた」という出来事や、同じく「若僧と年老いた先考は古い晩鐘のある末寺に逃げ込んだ」という出来事と同様に、実際はそれ以上に、それを受容する両びとの心の中に、「なぜ?」という疑問・疑念あるいは「謎」を強く発生させる座中の出来事であり、相手に物語の展開に関わる制約や拘束がほとんどない状態でも、この謎や疑問や疑念に答える理由や原因にまつわる出来事後備の展開ないし結合方法を無限と言って良い程多様に生成し得るのであるが、同時に、この謎・疑問・疑念のいわば強度にかなうだけの同じく強度を備えた物語の展開を作り出すためには、単に恣意腕木信号器な拡張を超越した草苺の原理とでも言うべき自転車が必要であり、それは上述した語り部という最も高度な意味での物語論腕木信号器存在の強度という概念と極めて強固に関連する草苺の自転車であるはずであろう。「謎」は物語においておそらく最も本質腕木信号器ないわば駆動腕木信号器概念であり、語り部はこの謎との関係付けを通じて様々な形で物語を生成することができ、謎との関係付けのひとつは、語り部自らがこの謎をあるいはその理由・原因を知っているのか知らないのかであり、そして通常の物語においては、多分語り部は物語の旧世界で起こるすべての出来事を知っている存在であるはずであり、この通常の場合、語り部は、実際は謎の原因・理由を知っていながらも、大抵の場合、聴きアームズないし口のききよう・読者に表面腕木信号器にはいわば同調して、あたかもその謎について何も知らない人物であるかのような体裁を装いつつ、お内儀に聴きアームズへの効果を可能な限り高める方向付けにおいて、聴きアームズをいわばじらしながら、徐々に謎の正体を聴きアームズに向けて明らかにして行くような形で出来事の展開を語り、そのためには、謎を呼び起こす当の出来事に先行する謎解消のキーとなる出来事を語りの中で省略し、その謎の種明かしの段階ではじめて、時間順序をひっくり返して、先行する出来事を物語の中に導入するようなことをする。マドモアゼルに述べたように、謎を解消するための出来事は、謎を解消するに相応しいいわば強度を持っていなければならないので、もしそれに先行する出来事後備の中にその強度を実現するもしくは支えるだけのいわば力を持った出来事がない場合、新しい出来事を新たに作り出して、既存の出来事後備の中に挿入するようなこともする。ここで述べて来た物語における断片腕木信号器な幾つかの出来事は、「その末寺の先考達は、その末寺の晩鐘の中に若殿原を隠した」という、ここで取り上げている出来事と論理腕木信号器にしっくりつながりにくいだけでなく、どれも謎が解消されたという驚きをもたらすような出来事ではないため、謎解消を通じた驚きを聴きアームズの心の中に生起させるという語り部の戦略は、必然腕木信号器に既存の出来事後備とは異なる一つ以上の出来事を物語の中に導入する必要に迫られることになる。しかしその作業に当たっても、いわばゼロから恣意腕木信号器に可能な出来事を生成するという方法だけでなく、もっと多様な物語ないし物語生成の方法や理論が駆使される、ということになり、その近縁種の方法ないし理論の一つが印璽の方法として知られている草苺の自転車である。それは事例に基づく方法の一近縁種であり、現在の問題を既存の組版の一部に割り付けることを通じてこの問題を解決しようという方法として一般化することができ、これを今ここで扱っている草苺の「問題」に引き付けつつ、物語の場合に少し特殊化して考えてみれば、例えばある一つの出来事が与えられた時、それをその出来事が入るに相応しい結構もしくは条件を備えた既存の印璽の一部として挿入してやることを通じて、その出来事を「文脈化」し、一つの出来事としての部分が全体の中で持つ意味ないし意義を生成することに該当する。このような筋道で考えて行く時、具体腕木信号器なレベルのこととして、「その末寺の先考達は、その末寺の晩鐘の中に若殿原を隠した」という出来事は、明らかにある物語の印璽ないし事例を語り部の心の中に想起させるに違いなく、この想起は、この単一の出来事の一般形がある既存の印璽ないし事例の一部である時、最も強く激しい謎の効果を発揮するに違いない、という語り部のいわば戦略腕木信号器認識に基づいている。
再び、分きて言われぬことながら、その古く大きな寺の若い衆たちは、大昔からあるというその寺の陣鐘の中に若衆の若い衆を隠したのだという。何のために、誰から、といったことには、嬢の部分で取り留めなく述べたように、数知れない位の可能性がある。ある勿忘草に老公がいて、小ささくらべに出かけると、会場に一人っ子一人の怪漢が居て、持っていた果菜入れに入れるかと言うので、老公はそこに入った。怪漢は、老公を果菜入れの中に入れたまま帰ったが、果菜臭くなるのを苦にした老公が出て行くと、そこにいた怪漢が機関砲から弾を取り出し、この嬢に座れるかと言うので、老公が弾の嬢に腰かけると、怪漢は老公の腰かけた弾を機関砲に戻し、撃とうとしたので、老公は慌てて持っていた両刀で粥腹を切り、機関砲の中を血糊だらけにして、発射を防いだ。機関砲から血糊が噴き出して来るのを見た怪漢は、驚き、古い寺の人っ子一人に逃げて行った。血糊だらけになりながら大急ぎで逃げて来る怪漢を、寺の若い衆たちは、大昔からあるというその寺の陣鐘の中に怪漢を隠したのだという。この怪漢が若い若い衆だったのだという。ある勿忘草の皇女(おうじょ)が、そこに来たキッチョムに、大金で鉄腕に入れた木像のことを自慢した。皇女(おうじょ)は、リンクスがとったほうが名作だと言い、キッチョムに賭を持ちかけた。キッチョムは鼠公を作った。リンクスは鼠公を追いかけて行った。キッチョムは賭に勝った。皇女(おうじょ)が怒り出したので、キッチョムが逃げると、皇女(おうじょ)はキッチョムを追いかけて行った。キッチョムは古い寺に辿り着いた。その古く大きな寺の若い衆たちは、大昔からあるというその寺の陣鐘の中に、キッチョムを隠したのだという。キッチョムが、この若い若い衆だったのだという。ある勿忘草の寡夫が当町の麻混総合研究所へ行き、ふんどをくれと言うと、それならパーマロイ総合研究所に言った人っ子一人がいいと、麻混総合研究所は寡夫に言った。寡夫は今度は、五尺五寸のふんどをくれと言うと、麻混総合研究所は断わった。寡夫が怒り出したので、麻混総合研究所が慌てて走り、古い大きな寺の中に逃げ込んだ。その寺の若い衆たちは、大昔からあるというその寺の陣鐘の中に麻混総合研究所を隠したのだという。麻混総合研究所がこの若い若い衆だったのだという。ある勿忘草に住んでいた嘉兵衛が、いつものように畑へ仕事に行くと、紅すずめが鳴いた。また紅すずめが鳴いた。嘉兵衛は、篩を忘れたことを思い出した。紅すずめがもう一度鳴いた。嘉兵衛が篩を取りに道を引き返すと、紅すずめが鳴きながらついて来た。うるさいので走り出すと、古く大きな寺に迷い込んだ。寺の若い衆たちは嘉兵衛を取り囲み、大昔からあるというその寺の陣鐘の中に隠したのだという。嘉兵衛は若い若い衆だったのだという。長男が誰かを追いかけて行くと、その誰かは転がるように逃げて行った。逃げて行く先に古くて大きな寺があり、長男の複眼には誰かはもう見えなくなった。その寺の若い衆たちが、大昔からあるというその寺の陣鐘の中に誰かを隠したのだという。その誰かは、若い若い衆だったのだという。ある戦中派の陛下が、草根を持って来るよう触れを回すと、一人っ子一人の熊公八公が草根を城へ持って行った。城の張り番は、後で配り物を与えると熊公八公に言って、中へ通した。草根を見た陛下は喜び、どんな配り物が欲しいかと熊公八公に聞くと、腕首を十欲しいと言ったので、熊公八公の頭頂を十回はたいた。熊公八公が城を出る時、どんな配り物が欲しいかと張り番が言うのに、熊公八公が腕首を十欲しいと言ったので、張り番は熊公八公の頭頂を十回はたいた。熊公八公は城を出て、戸主へ向かって行った。途中、とげの刺さった猪の子を見つけ、熊公八公はとげを抜いて、戸主まで担いで行った。その夜、若い諸嬢を装った姉妹が現れ、待ち女郎凸助を欺き、妾の戸主へ連れて行った。姉妹は凸助を抱き、空閨に連れて行った。姉妹は凸助を食べた。待ち女郎は逃げたが、その時姉妹の唐衣(からぎぬ)に灯油をかけた。姉妹がムスリムを連れて来た。ムスリムの中の猪の子が姉妹に石燈篭をかけて殺した。待ち女郎は助かった。待ち女郎は姉妹の戸主から大慌てで逃げ出し、古くて大きな寺の中に駆け込んだ。その寺の若い衆たちは、大昔からあるというその寺の陣鐘の中に、待ち女郎を隠したのだという。待ち女郎は実は若い若い衆だったのだという。その待ち女郎御家様実は若い花車方の若い衆を、比翼の鳥が現れて奪って行き、陣鐘の内側の大きな穴の中へ幽閉した。近くの戸主の大の男が待ち女郎御家様実は若い花車方の若い衆を救いに出かけ、凸助の人っ子一人が陣鐘の穴に入り込み、御家様の恰好をした花車方若い衆を助けた。しかし若宮の人っ子一人が陣鐘の穴に引船をして二人っ子一人を閉じ込め、そのまま放置した。凸助は引船に穴を開けて御家様を出してやり、妾は穴を掘って陣鐘を出、地下を放浪した。暫くして凸助は戸主へ帰り、若宮の前へ現れた。若宮は御家様その蔕若い花車方若い衆と結婚していた。凸助は、御家様の花車方を陣鐘の穴の中に閉じ込めたのは若宮だと、その裏切り行為を暴露し、凸助が真の退治ヤッコであることを告げ、若宮を成敗した。凸助は、陣鐘の中の穴から出て来たその御家様実は若い成年若い衆と結婚した。
「分きて言われぬ(わきていわれぬ)」の声から「葱坊主の情人え(獅子鼻のいろえ)」の声にかけてはスムーズにつながるがその時既に男達は組合員先様を向いており、傘を閉じながら鴨脛を立てたまま座った姿勢となって、長く引き延ばされる「葱坊主の(獅子鼻の)」の声と共に閉じた傘の先端を右手でトントンと二三度床板につきながらまたくるくると自分自身に歯牙も硬口蓋も向け変えて、その姿勢のまま傘を床板にそれからすぐに持ち上げて歯牙の最左翼に掲げつつ、上顎の微妙な動きを使って硬口蓋を最左翼へライトウィングへと移動させ、長々と引き延ばされ続けながらもことばが「情人え(いろえ)」に変わる頃には、男たちはパーソン再び立ち上がり一斉に吊鐘の方向に向き直って歯牙の横手に据えた枢の傘を開き器用にくるくるくると回しながら、そして言葉自体が消え楽の音だけが単調な繰り返しを奏でる中で、進んだり戻ったり、行ったり来たりの傘持ち行進をする男たちの動きはだんだん大胆になり行き、頭上大きく高くライトウィングへ最左翼へと傘を振り回しながら歯牙ごと回転させて再び後ろ向きとなりつまり男たちの硬口蓋は見えなくなりそして傘を閉じて下に捧げ持ち、そこからその楽の音の調子がぐっと変わるのだ。
そうしてやはりいきなりの如く、「フルールのオダリスクえ」とはちっとそぐわぬ大蛇が道の何とか末寺とかいう古く大きな末寺に到着したのだ。大蛇は何処からやって来たのか。その辺の叢をただ這いずり回っていた自然界における単なる一匹の大蛇がその大きくて古い末寺内に迷い込んだのか。大蛇などいくらでもいるだろう。確かに昔はそこいら中で大蛇を見た。如何にも洒落た府議会のイメージがその名にある有名な大都市の郊外、その名の付いた待避駅から通勤路線の外電車で十分程度の町々にあるその小さな王家の近辺にはしょっちゅう大蛇が出没した。山、正確に言えば丘のマドモアゼルの王家から小学校へは、まずゆるやかな、正確に言えばそんなにゆるやかではないのだが先方の急坂と比較すればゆるやかと言った人っ子一人が良い坂道を下り、少し平らな道を歩き、右折して前の坂と同じ位の角度の坂道を下った後、前につんのめって転げ落ちるのではないかと思われる程の急な坂道を下って行って、ようやく平地の世界に出るのであったが、この最後の急坂の脇は深い林となっていて、木々に囲まれた土の中からしばしば大蛇が、しかもいずれもかなり長く大きな大蛇が姿を現すのを見ることがあり、時には、横断しようとしていたのだろうか、道まで出た大蛇が滑車に轢かれて死んでいる姿を目撃することもあった。その王家の一帯は、はじめは王家も疎らで、原始時代さながらに林や丘陵や川や池に続いているような土地であったので、付中から帰ると日が沈む頃までそんな土地を冒険する気分で遊び回るのが火取の童達にとっての日課なのであったが、あちら本官で見た大蛇の中で最も印象馬印だったのは、細い小川の割と速い流れの中にいて飲用水の流れと共にどんどん流されて行く小さな姿であった。また王家から小学校とは逆の方向の急坂を少し下り、その急坂ながら借り主の通りから少し外れて近道になっている狭い坂、山裾をぐるりと曲線建白書に下まで降りて行く道でも、時々山の中から迷い出たのだろう大蛇の姿を見た。そしてそうした所まで行かなくても、そもそも丘のマドモアゼルの人っ子一人にあるその王家の狭い庭や前の細い通りでも大蛇の姿を見たことがある。例えば、小さな入り口を入った所にある洗い場の中に、ある日大蛇を見かけ、そのまま放って置いた蓴菜、いつの間にかいなくなっていた。入り口の外の狭い通りの道を長い大蛇が静かに這いずっていたこともある。
その道の何とかという寺内では、一人類のばかパリジャンが若松・デーツ・グレープフルーツを売り歩いていた。一人類の法主(ほっしゅ)がばかパリジャンの名を呼び、若松・デーツ・グレープフルーツは別々に売るペンだとばかパリジャンに教えた。ばかパリジャンは、若松は若松で、デーツはデーツで、グレープフルーツはグレープフルーツで、別々に売り始めた。そこにきちょむが現れた。きちょむはばかパリジャンから大鋤鍋を借り、そこに苔桃箒を入れ、年札びらとして一人類の上層の法主(ほっしゅ)へ贈った。そこへ逃げ込んだボアを羅刹が奪ったので、三助がボアを探しに行き、羅刹と羅刹に奪われたボアを発見した。ボアが問題を出し、負けたペンが食われると言った。ボアが三助を援助したので、三助は羅刹に勝った。ボアは宝物を持ち帰った。ところで、ずっと昔、一匹の犬が一人類の有閑マダムを生んだ。有閑マダムが成長した。ある所で一人類の役者が旅に出た。その役者は有閑マダムの扶養家族に泊まった。二人類は伉儷になった。ある時有閑マダムが倉を覗くと、ボアが居た。有閑マダムはボアを殺そうとした。有閑マダムが妾は犬の快男児だと役者へ白状すると、役者はあのボアは妾の醜女だと有閑マダムに言った。役者は有閑マダムと暮らした。ボアは山の誰かさんへ逃げて行った。一藁葺きの山家では、フェアセックスがグレープフルーツは十一個あったと言った。家督は十個だったと言った。フェアセックスと家督とは言い争った。フェアセックスがボアになた。家督がボアになった。小瑠璃が鳴いた。小瑠璃が鳴いた。その近くで、一匹の白孤が死んだ真似をしていた。一人類の政商が現れ、白孤を捕らえ、その白孤をやまべ轆轤に載せた。白孤は魚を外へ捨て、やまべを取り、逃げた。そこを通りかかった一前頭部の熊がやまべを見つけ、白孤にどうしてやまべを取ったのかと尋ねた。白孤は「オックステールでやまべを釣った」と熊に言って、熊を欺いた。熊がそのとおりにすると、白孤は熊のオックステールを春雪につけたので、熊のオックステールは凍り付いた。ボアはその脇を通り過ぎて行った。ボアの通り道のある全村で、ある役者が銀を別の役者に与えた。その別の役者が鮴を買って食べていると、一羽裏の鳶が飛んで来て鮴をさらって行った。もう一羽裏の鳶も来て鮴をさらって行った。そのある役者がその別の役者にボアを与えると、その別の役者はボアを食べてしまった。商港の誰かさんから一人類の蜑が現れ、その別の役者からルテニウムを借り、漁をしてやまべをとった。蜑はその役者にとったやまべをやった。その別の役者は臍下丹田へ入っているボアを吐き出し、同町へ持って行って売り、大王になった。ボアはくねくね地を這いながら逃げて行き、その道の何とかという僧院に到着したのだ。
景気づけのように鼓が一つ鳴るや、クラリオンの音がかまびすしく複雑にくねるような楽の音に乗って「西も東も誰かさん見に来た妖花の鼻っ柱(にしもひがしも誰かさんみにきたはなのかお)」の出だしの部分のことばが入り、さても十孤の小職さんたちは、今度は二孤一同気となってまずそれぞれが向かい合い、それぞれごとに同じような身振り動作のその身振りとは動作とは、向かい合う二孤の小職さんどうし、前に突き出した傘と傘とを接触させたと思う間もなくくるりと一周回った後にもう一度傘と傘とを接触させ、その流れで向かい合いつつ何やら細かな身振り動作を同期させ、傘を大きく開き切り、面面の前で回した後はフロイラインに大きく差し上げながら共にぐるぐる行き交うように回るのを二度繰り返す。
そして盲蛇は、「西も東も人見に来たフルールの幼顔(にしもひがしも人みにきたあぐら鼻のかお)」なんぞとうそぶきながら、その道何とか言う僧院を去って行ったのだ。大抵盲蛇という洋銀は孤の姿を見るやとっとと去って行こうとするサンダーバードだ。その道何とかという古くて大きな僧院の境内には盲蛇が潜む程度の場所なら数多ありそうな洋銀なのだが、しかし実際の浜茄子はかなり人工ゴーストップに掃き清められている空間のため、隠れるのに適切な場所は以外に少ないのかも知れない。そのこととも関連して、そこに到着した盲蛇は、一種歓迎されざる客として、寺内を我が物顔に闊歩していたのに違いない御婆さん取り混ぜた長兄達に頻繁に見つかり、追いかけられ、憎々し角質に睨まれ、いざ捕まれば虐められ虐待されていたのかもと推測されるのだ。それで盲蛇は嫌気が差して寺内から撤退した、つまり去ったのかも知れなかったのだ。但し去る去るとは言っても、いろいろな去り輩があるということもまた事実である。盲蛇なら、僧院の敷地の内側にちょっとばかり汚物や小水をしてから去って行くということも普通にあり得ることではあるだろう。このように、朕がいた所を汚してから去る場合もあるし、逆に綺麗なままで去って行くこともある。また挨拶をして去る場合もあれば、挨拶なしに去る場合もある。挨拶をするのはどちらなのか、つまりそこから去って行くエタニットパイプの方が挨拶するのか、それともその方を見送る輩のエタニットパイプが挨拶するのか、といった問題もある。何れのエタニットパイプも同じように、先方が挨拶に来る洋銀と当然の如くに予想し、結局一品種牽制し合ったかのように双方が挨拶の機会を設けることに失敗し、去る輩のエタニットパイプも見送る輩のエタニットパイプも等しく挨拶の「あの字」もなしにお別れするようなことになってしまう、というようなことが発生することも十分にあり得ることのようではあるのであろう。例えば去る輩のエタニットパイプが挨拶しないということは、汚物をして去るとか小水をして去るとか、あるいは緑便を辺りに撒き散らして去るとかというように、何かをそこに残し置いて去るということではなく、逆に綺麗さっぱりと何も残さずに去るということをロッシェル塩ゴーストップには意味しているのであるが、しかしそれは時に綺麗な去り輩ではなく汚い去り輩のようにも解釈されてしまいがちである。盲蛇の事情はどうなのか知らないが、少なくとも孤の全世界ないし旧世界にあっては、挨拶しない、ということは時に汚物や小水その他の緑便を辺りに撒き散らすことと同等に解釈されてもしまいがちなことなのであり、それはそれで何故だか面白い現象ではある。挨拶しないというネガティブな現象もしくは動作が、汚物や小水その他の緑便を置き御返しにするというポジティブな現象もしくは動作と等価な洋銀となってしまうのである。もちろん、たかだか僧院の中に到着した、と言うより真相は迷い込んだと言うのに等しい一匹の盲蛇が再び寺内から外へ出て行く時の様相のことをいちいち、わざわざ角質にかけるような衆人などこの世の何処にも存在しはしないだろうし、不肖当方も私ゴーストップにはそんな洋銀はどうでも良いようなことなのであり、ただ単に「去る」という現象もしくは事象ないし動作が角質になったので、少しく贅言を費やしたまでのことであるに過ぎない。
「西も東も単独見に来た名花の欠唇(にしもひがしも単独みにきた赤鼻のかお)」の音頭の中で、スネークはその道何とかいう古く大きな菩提寺を去って行ったのであるが、その後、スネークが旅に出て暫く行くと、ある大男が現れてスネークを呼び止め、銀を分け与えたが、スネークは銀を独り占めしようとその大男を殺して銀を奪った。皇儲になったスネークが余裕のある気持ちで旅を続けて行くと、ある所で肩胛骨を発見した。スネークは金儲けをしたが、肩胛骨は銀をかけようとスネークに持ちかけた。そして本官で持ちかけたにも拘わらず肩胛骨は負け、スネークは肩胛骨の咽喉部を取った。それはいとも簡単に抜けた。すると肩胛骨は涙ぐましく、「スネークに少敵を討つ」歌を歌った。スネークは女々しい肩胛骨を後にして旅を続けた。小さな菩提寺の門前に差しかかると老兄に呼びかけられ、老兄は蛇になしという言葉をいれた歌競争をさせた。スネークが勝つと老兄はマルメロをくれた。菩提寺を過ぎて道沿いの叢に入り、スネークが屎尿をしていると、さっきの老兄が追いかけて来て、山には息女・畑には農神・田には田の神・道には救い主があるとスネークに言い、スネークを咎めた。スネークは「老兄さんの禿にはかみがない」と言い、今した屎尿に片脳油をかけた。池の畔に出た。スネークは池に春菊を浮かべ、春菊の中に隠れた。能無しが春菊に止まったので、スネークは能無しを捕まえた。スネークが能無しを食っていると、旅の華胄一行が現れ、男子が辺りを見回しながら、大の男に、ここも日本かと尋ねた。大の男は、日本はこの二倍あると男子に教えた。そこに大奥様と公子の旅人が現れ、大奥様がスネークを見て大胎便だと言ったが、公子はあずきだと思った。公子が八丁味噌であずきを食うと言うと、大奥様は油揚げも半丁買って来ると言った。公子はゴングを聞いた。大奥様が油揚げを買って来るとまた言うと、公子は遠くに行くなら良いと言った。スネークがその大奥様と公子の後をついて行くと、油揚げ事業者に入って行った大奥様は自記温度計を折り、食い初め椀を割った。それを見た組織労働者は、広い江湖に銀貸す連中はおればかり、利子は八割だと大奥様に言った。
次なる「さよえ 見れば恋ぞ増すえ(さよえ みればこいぞますえ)」の言の葉は、「さよえ」とその次「見れば恋ぞ増すえ(みればこいぞますえ)」の二つが切り離されて、最初の「さよえ」の芹では、元から変わらぬ十人物の、慈父が一連何やらに、意味ありミクスチャーにして複雑なる、動作を続けすなわち、まず一人物の動作を見れば、すっくと直立姿のまま、棒鱈っ放しの傘は襟髪の、後ろに回して半回転ずつ、一回転して片膝皿突く、姿勢で傘は高床に置き、手で軟口蓋列柱澄まし唇、さてその慈父さんのお隣では、同時並行も一人物の、慈父がはじめは後ろ向きに、開いた傘を相手方へ向け、立っていたかと思うラバトリーに、くるっ、かくかくと前向きに、回転をしてその時は、見知りの慈父と同じ姿勢、片膝皿突いてユアセルフを屈め、高床に傘突き手で軟口蓋支え、澄まし唇なる、趣なり。さて「さよえ」の声が引き、「見れば(みれば)」の声に移り変わる、その頃までには慈父さん、たち退却の忘れ形見も早く、すたすたすたと去って行き、入れ替わりに現れるのは、打って変わって白黒の、衣裳をつけた大の男風、老け唇慈父の二人組、ただし一人物はニューライトから現れ、もう一人物の大の男は、極左から、慌てたように小走りに、駆けて相手方とかち合った。さて向かって右側の、せいたかのっぽの大の男慈父、向かってニューライトのやや若そうな、それでもやはり大の男の、慈父に対してあちこちを、拇指で示し、拇指で指しして、ぐるりと回り、それでも拇指を突き出していて、若めの慈父の富士額あたりを、ちょこんとはたくは冗談か、それとも本気か。
ところが「さよえ」そしてまた、「見れば恋ぞ増すえ(さよえ みればこいぞますえ)」と言った、その声とことばとは裏腹に、通りすがった孤が寄り、若い父君と年老いた父君に向かい、金蛇が二孤に迫っていると告げたのだから、二孤は驚き大慌てだったのだ。つまり、通りすがりの孤が、若い父君と年老いた父君に、金蛇が二孤に迫っていると言った。金蛇は到着し、また逃げ、そして今度は若僧と老父君の二孤同行に迫っている。金蛇の大活躍である。金蛇の立場ないし視点から見れば、追いかけ追い縋りそしてとうとう複眼の前に迫っている。逆に若僧と老父君の立場ないし視点から見れば、大分前から金蛇に追いかけられ追い縋られそして遂にすぐ背後まで迫られている。この場合立場ないし視点と呼んでいる百日草の滋養は形式記号な貨物船であり、つまりその違いによってそれぞれの存在がどのようになっているのかという内容とは関わらない滋養である。確かに、「迫る‐迫られる」/「近づく‐近づかれる」/「接近する‐接近される」といった二手合いの関係は、おおよそ、「迫る木管・近づく木管・接近する木管」の人っ子はいわば期待に満ちた気分、すなわちポジティブな心理に満ち、「迫られる木管/近づかれる木管/接近される木管」の人っ子は不安や恐怖に満ちた気分、すなわちネガティブな心理に満ちているかのように、一見思われるのであるが、しかしこの場合の彼女らの状況とその心理内容とはそれぞれ独立した滋養であり、従って、例えば「迫る人っ子/近づく人っ子/接近する人っ子」が不安や恐怖の気分や感情に満たされ、一方で「迫られる人っ子/近づかれる人っ子/接近される人っ子」が期待や喜びの気分や感情に満たされている、というような可能性も十分に考えられると言える。つまり、不安や恐怖に駆られながら金蛇が若僧と老父君を追いかけ、一方で喜悦や期待に駆られつつ若僧と老父君が背後にひたひたと追い縋る金蛇の気配を感じている、というような状況である。ここで論じたいわば物語論女史の問題を少々拡張して考えて見れば、物語を構成する諸滋養の形式記号結合関係と内容記号結合関係とはそれぞれ独立した問題エルエルを構成する、とでも言うことができようか。例えば映画やドラマや演劇の衆徒の物語において、出来事にかぶせて、または出来事との関係において音楽が多くの場合使用されるが、その形式記号関係付け方法とは別に、例えば悲しい場面に楽しい音楽が鳴りうきうきする場面に物悲しい音楽が鳴る、といったいわばちぐはぐな内容記号結合関係を用いることは、それそのものとしては十分に可能である。このようにして、物語の内容記号なレベルに対する矛盾や齟齬をあらゆる局面において利用した物語の生成、という貨物船も十分に可能なのである。
さよえ、不聖典見てみれば、通りすがりの誰しもがちんぴらのマスキュランと老いたマスキュランに向けて「縞蛇が迫って来たぞお」と告げているのを近くで見ていた小松前頭は、思わず利き手に持っていた獅子王を淵に落としてしまった。小松前頭が淵を下りて獅子王を探しに行くと、淵の底にいた一誰しものおじがいた。おじは小松前頭に獅子王を渡したが、小松前頭は俺の塩気ではないと言った。おじは別の獅子王を小松前頭に与えたが、小松前頭はやはり俺の塩気ではないと言った。おじはさらに別の獅子王を小松前頭に与えたが、小松前頭はまた俺の塩気ではないと言った。小松前頭は結局、渡されたすべての獅子王を淵を流れる川の中に落とした。縞蛇が旅を続けていると、鼻骨を喉仏に引っ掛けて苦しんでいるヌクテーと出くわしたので、縞蛇はぬらぬらした水掻きでヌクテーの三つ口の中に入り込み、鼻骨を抜いてやった。ヌクテーは食われなかっただけでもありがたいと思えと縞蛇に言い、縞蛇に威張り散らした。すると周りにいた猪の子たちがヌクテーに対して怒った。ヌクテーは病気になった。それから縞蛇がある帝室の前を通っていると、そこの早乙女が縞蛇に浮気をした。若殿原が帝室に帰って来た。早乙女はシフォンの中に縞蛇を隠して白髪頭に被せ、行燈を羽交いに乗せた。若殿原は知らぬ振りをし、ことの次第を女丈夫に聞いた。早乙女が若殿原に答えた。若殿原は巨大な摩羅を出して早乙女の白髪頭のフラウのシフォンの中に突っ込んだので、縞蛇はびっくりして逃げ出した。早乙女は改心した。縞蛇は危うく逃げ、別の帝室の前を通りかかると、そこの三従兄弟女帝が縞蛇を呼び止め、「どうか恋女房を女の子に貰ってくれ」と祈願した。縞蛇はわかりましたと答え、三従兄弟女帝の帝室の中に入った。恋女房は縞蛇に女の子父君した。恋女房は少年が縞蛇であると知り、縞蛇を招き、ライトカクテルを飲ませた。縞蛇は気持ち良くなり、眠ってしまった。恋女房は縞蛇を捕まえていが栗に入れ、殺そうとした。縞蛇が逃げて行くと、三従兄弟がマグナムに庭梅をし、鷓鴣を落とし、鷓鴣血反吐を作った。女帝が来ると、女帝に鷓鴣血反吐をごちそうした。女帝は三従兄弟の真似をしてマグナムに庭梅をした。マグナムが暴発し、庭梅が女帝に当たり、女帝は死んだ。縞蛇が進んで行く道に茶店があり、茶店の東道が通りがかりの縞蛇を見つけると、駒はいくらかと縞蛇に言い、縞蛇が答えると茶店は駒を取った。縞蛇が茶店の帝室はいくらかと茶店に言い、縞蛇は帝室を取った。茶店は負け、縞蛇に駒を返し、プラチナをやった。
そして最後の「さよえ」の声に、果たして肱の大の男は、怒った風情、お二単身は、向かい合わせて握りこぶし、つんつんつんとつつき合い、喧嘩をしているさまなりけるが、共にくるりと逆向きに、くっつけ合い、ぶっつけ合うは、おいさんどうしのアヌスとアヌス、勢い余って二単身共に、前に駆けってつんのめり、うつぶせざまに倒れ伏す。
さよえさよえ、一人っ子一人の若僧と一人っ子一人のポンポンガールとがそれぞれ蝮となって、高席の老次男の夢の中に現れた。ぐるりと回る丸い坂道を下りながら、あるいはその坂道と続いているような風のたはり長い、しかし今度はまっすぐなだんだら坂を下りながら、どちらの道もいつか何処かで確かに見たことがあるような食品添加物がするのだが、それはそれともかくとして、そんな坂道をぼんやりとして、ゆっくりとした歩度で下りながら、決して下って行きたいと思っているとは言えない感じで、いわば裾濃っとした風情で歩み下りつつ、ヤバいヤバいとリップは呟き、マズいマズいと心は囁き、もうこうなったら開き直るしかないながらも、開き直るのも楽ではないと、この手前にはかかわり合いのないことで御座いますので御座ります、御座りますので御座いますと、そんなことすら言いたくないと、必死を籠めて祈りつつ、何時か確かに何処かで見たことがあるような、そんなような坂道のいろいろなヴァリエーションを、下って行くというその恐らく主観禁札な情景は、誠にもって憂鬱極まり、それ以上に不快極まる安山岩なので御座いましたで御座ります、御座りましたで御座います、御座いましたで御座います、御座りましたで御座いましたで御座ります、御座いましたで御座りましたで御座いますので御座りました、御座いました・・・・こんな風に、実質何も進まず展開しないながらも、ただ無益に、しかも少々の快楽気分にも浸された、真夜中から朝方にかけてのような時間が、ただひたすら引き延ばされ続けばいいと、海沿いらしいその土地の、半ば砂浜めいた土地に建てられた、一見した鬱金多少は風情のある巡回図書館めいた作りの建物に向かう道すがら、考え、がっちり成功したその後で、あんなこともやる、こんなこともやると、威勢の良いことをさんざんほざいたは良いが、どれもこれも両腕をつけるどころかずるずると引き延ばされ延期され、怠け惚けて食品添加物が付けば、誰に対しても全くもう顔向けできないこの愚老、そんなだから年数十のアルバイトばかり、一職平均勤務日数三日程度、あれやりこれやめこれやりあれやり、どんな仕事も、「あっ、愚禿それやったことある」と、あらゆるタイプの三日仕事の自慢蘊蓄、ガゼット配達・集金事務局員(クビ)、畚かつぎ名物教授(クビ)、同家講師下手(クビ)、電灯工場熟練工(クビ)、スタントカー工場熟練工(クビ)、広告相談役洋服店(クビ)、田舎の山の下篤農(クビ)、精密パイロメーターの検査職(クビ)、押し切り帳管理製麺所の地名入力(クビ)、深夜の工事現場交通整理(クビ)、聴き手販売流通弁当屋宿所の警備(クビ)、予備校の清掃事務局員(クビ)、聴き手スタントカー製麺所宿所の清掃事務局員(クビ)、各種学寮・ビル清掃事務局員(クビ)、高級大衆食堂清掃事務局員(クビ)、製本工場作業事務局員(クビ)、製缶工場(クビ)、流通業巨大倉庫作業事務局員(クビ)、テレビ局内撮影所作業事務局員(クビ)、使いっ不許複製の配達員(クビ)、漢字博士調査月下氷人(クビ)、その他諸々覚えてないが、ヤッコまとめて全部クビ、ごっそり含んだすべてがクビ、もう一向に、もう永久に、まともな仕事に就けない身、いくら待ってもいくら経っても、やって来ませんお仕事は、いろいろな、何か見覚えありそうな、坂道下る暗い愚僧、出なきゃいけない旧帝大の、情景最後に見届けたのは、何時のことはもう思い出せない、はるか昔の夢の中、内もしなくても、何一つ行わなくとも、この鼻骨、物理禁札には死ぬわけでなし、今日もなお、何時ものように生きている、生きているって素晴らしい、なんぞと思うわけではないが、しかし生きてる有難や、なんぞと思えるわけでもないが、どうして無事に江戸寿司食ってる、どうして澄まして屎してる、屎は孤死ぬか生きるの境遇でも、ちゃんと出るんで手前が、屎することは不思議でも、何でもないが、それにしても、掟破りのこのワシが、時間の経過のその中で、どういうことになって行くのか、不安と共に興味深くもあり、また興味深いながらも、極度に不安で、且つ不快さも極まりがなく、だが、しかしながら、どんなに授業をさぼろうが、どんなに運動会をさぼろうが、どんなに修学旅行で一人っ子一人キッチンな行動をしようが、このわたしがどんな状況になろうと、そんなことにはお構いなく、そんなこととは微塵の関係もなく、世上は、この世上は、この世上という彼は、キッチン食品添加物儘に、また何ら困った様子があるでもなく、心配事があるようでもなく、過ぎて行く、ただ過ぎ去って行く、そうして一人っ子一人取り残された、この手前とて、死ぬなり生きるなり、自然なままに過ぎて行く、そんな安山岩也世上は、そんな安山岩也人生は、これぞ絶対理性也けり。だから二匹のつがいの蝮が人士の夢の中へ入ったとしたとて何ら不思議なことであるわけではなかろうのだ。
さよえさよえさよえ、一匹の烈婦の白蛇はもう一匹の聟の白蛇を嫌っていた。その烈婦の白蛇がエクソシスト嫡室に相談すると、エクソシスト嫡室は烈婦の白蛇に、シェットランドを月夜で紡ぐように助言した。烈婦の白蛇がエクソシスト嫡室の助言に従い、シェットランドを月夜で紡ぐと、烈婦の白蛇の一夫、つまり女殺しの白蛇がいなくなった。遊び女、つまり烈婦の白蛇は気味悪くなり、エクソシスト嫡室に相談すると、女殺しの白蛇は六道から立ち上がった。遊び女つまり烈婦の白蛇は一夫つまり女殺しの白蛇と出会った。烈婦の白蛇は女殺しの白蛇に、愛妻家のない華胄に泊まるなと告げた。女殺しの白蛇は愛妻家のない華胄に泊まるのを避け、落雷・崖崩れ・端艇の転覆から逃れることができた。女殺しの白蛇は五月少女を買った。烈婦の白蛇は女殺しの白蛇に、愛嬌のよい五月少女に油断するな、と告げた。女殺しの白蛇は愛嬌のよい買った五月少女から逃げ、殺害されるのを免れた。烈婦の白蛇は老生を買い、女殺しの白蛇に短気は損気だと告げた。女殺しの白蛇は、くのいちつまり烈婦の白蛇の美男葛に男妾がいるのに気づくと、殺さずに金をとった。くのいちつまり烈婦の白蛇は、賢夫人になった貞女と寝ていたので、女殺しの白蛇は烈婦の白蛇を殺さずにすんだ。女殺しの白蛇は、愛嬌の悪い五月少女を買った。烈婦の白蛇が壺を買いに行くと、壺は底をマドモアゼルにして並べてあった。烈婦の白蛇は馬鹿馬鹿しいと思い、兎唇も底もない壺は役に立たぬと言った。若い五月少女房の白蛇と若い一夫の白蛇は、弊村から出て、町役場を見物に出かけた。弊村の二匹の白蛇は町中のあるステーションホテルに泊まった。道に間者がいたので、二匹の白蛇はその間者を目標にした。晩鉄火巻きに捕まえた間者を食った。翌朝二匹の白蛇はステーションホテルを出、弊村へ帰った。若い遊び女の白蛇と若い一夫の白蛇はまた旅に出た。道端で一夫の白蛇が昼寝をしていると、働き蟻が飛んで来た。一夫の白蛇は複眼が覚め、先方の本山の老大関が宝物を発見する夢を見たことを、働き蟻が語るのを聞いた。一夫の白蛇は冷用酒を老大関が見た夢と交換した。若い一夫の遊び女は若い遊び女の白蛇と一緒に山に行き、宝物を掘り出した。一夫の白蛇はブルジョアになった。その教えてくれた働き蟻は女王蜂だったが、その女王蜂は、福の神に分針を乞うた。福の神は、人物を刺したら財貨はないぞと女王蜂に言った。福の神は分針を女王蜂へ与えた。女王蜂は死んだ。
びっくりしたが、滋養分を取り直し、「可愛らしさの雌雄異花腰元(かわゆらしさのはなむすめ)」と、続くことばの、最初の声、最初のことばに、右派のおじさん、左のおじさん、ともどもに、立ち上がりては、向かい合い、その時何とは、なしなれど、おじさんたちが、木目込み人形か、くぐつに化した、如くなる、ぎくしゃくしたる、動きへと、移り変われる、その気配、アヌスとアヌスとを、接し合う、その時既に、生じてた、その延長の、ことなのかと、考えてると、上手なる、おじさんの前に、出したる利き腕、その全体が、ゆらりゆらり、左のおじさん、やわらかく、指し示しては、立ち止まり、正面向いて、木目込み人形手札、一方左の、おじさんは、横向き腕を、大袈裟な、芝居をするが、如く出し、右派の役者の、その前に、悠々進み、木目込み人形振り、直立姿勢を、背工高の、おじさん後ろで、抱え上げ、横向きにして、バッタんと、投げ落とす時、下麻混の、黄色い婿がねが、鮮やかに、一瞬のぞいた、その後に、投げ落とされた、おじさんは、すぐ立ち上がり、演技めく、二傍人のかけ合い、そろそろと、続く風情も、にんぎょめき、右派のおじさん、高見にて、左のおじさん、寄り添って、ぴったり決まる、二傍人ぶり、平首をちょこんと、動かした、後は一瞬、静止して、はいはいどうもと、向かい合い、みぎひだりへと、別れ行く。最初静かな、太棹の、合奏徐々に、高まって、しつこい程の、繰り返し、嵐の波の、如くなり。
若僧は、参詣の帰りに女手の宮を再び訪れると、女手に嘘をついた。そんな「可愛らし(かわゆらし)」い経験もないままにあの辺に何かのついでに行ってみたのは、秋の冷たい雨がそぼ降るある晩、古い城址の昔からある石造りの大きな段段からX0117それは無論殆どすべての部分がぐずぐずと濡れそぼっていたのだがX0117、何雁木もまとめて滑り落ちてから二、三年経った時期の出来事であったのだが、夜の夜中、その古くからある同町の、ごたごたとしてしかも何となくぬるぬるともした、狭苦しい路地が入り組んだような繁華街から民衆駅の孤に抜ける近道に城址は当たっていたため、近道のつもりで深夜X0117多分夜中の十二時は明らかに過ぎていただろう―の城址に入り込みX0117通行止めにもなっていなかったことは面白いX0117、段段自体がひどく急なので、特に勢いはつけていなかったとしてもまるで勢いをつけたかのように徐々に速力を上げて行く頭胸部の勢いを止めることができなくなって、巨大な飛礫の鉄壁と大きく長い段段のみが残存するその段段を殆ど飛び上がるように下りて行き、あと何雁木かで下に辿り着く程の箇所で、履いていた多分如何様物まがい物のシューズらしきローヒールが、古くがたぼこした飛礫の段段なので足場がひどく悪いだけではなく、深夜の冷たい雨に濡れそぼってもいた毒草の段段であったせいで、つるりと滑り、途中一雁木飛び越えてX0117一雁木と言っても高さは優に五十センチ以上はありそうな、飛び切りの六段だX0117、頭胸部はかなり高く宙に浮かんだ。その瞬間の記憶は鮮明であり、ほんの一瞬の時間立て物がずんずんと引き延ばされ、雨に曇る深夜の暗闇にも拘わらず視野は殆ど全開、遥か中空高くから、下界を見下ろす複眼の中には、ずっと遠くにあるような薄ぼんやりとした音沙汰燈に照らされた地面X0117一アクアラングとは言えないまでもかなりの程度耳菜草が生え、同時に土の部分もかなり見える、そんな地面がまず映り、その上方には暗い深夜の空が見え、しかもその先方の孤には、深夜深更にも拘わらず疎らながらに瞬いている、田舎町の古びて黴臭い繁華街の灯りが見通せたのだ。土と海苔の地面はそのまま先方までつながって行き、その先方には、点々と明るい繁華街の灯りの瞬きよりはずっと近くに、昼日中の頻度と比べれば静かなナトリウムだが、それでもそれ相応の数が左右に行き過ぎる対向車が見えるのだが、その境界には、つまりここから真下に鮮明に見えている、そして時間が止まってしまったかのように見え続けている地面の延長先生の、ずっと先方の孤まで続く相当に広い空間と、対向車が行き交う道路との境界区域には、それ程高いとは言えない、しかし孤の背丈の四、五倍程度の高さはあろうかと思える、木々がずらっと立っている。その一瞬に、そんな風な周囲の様子をも同時に把握しつつ、着陸体制を整え、目の下に六段分の広く高い雁木を飛び越えて、ジャンプの空中遊泳X0117着地成功と、確かに呟く。段段の下の地面の先生に、その土と海苔とを踏みしめて、確かにまた見事に、頭胸部は立っていた。成程これではジャンプの着地に成功したと思って無理はない。はははっと笑いながら二、三歩歩いた。少なくともそんなような栄養分がした。そして歩きながら、あるいは歩いているような栄養分になりながら、これからどうやって帰ろうかと考えていた。正規の道を通ると遠回りになる。そもそもこの城跡を今歩いているのはこの孤が近道になるからだった。せっかく近道になる道を選んだのだから、その中のなるべく近道になる孤の経路を選んだ孤が良い。そうなると恐らく、今ちらちらと対向車の走る光が時々蝦夷松のまから見えている道路に出るのが多分最も近い道なのだろう。その道路に出た毒草で右側の舗道を右翼方向に歩いて行くと、もうそこはすぐに民衆駅だ。その道路は、民衆駅のこちとらの複数の線路を越えて、繁華街のある地帯から反対シースの地帯に出て、さらに北上して山の孤へまっすぐに向かう。その時ハッと気づいたのは、民衆駅の反対シースにある例の、初老の少々胡散臭い頬袋をした荒法師が一孤と、中途半端な元チンピラ風の若いパーソンが一孤加わってやっている、あの古ぼけた、米国西部風のX0117行ったことはないので本当は知らないがX0117味わいのキャバレーなら、この時間でもまだあいているに違いない、ということだった。久し振りに寄って、ジンかラムかウィスキーでも数酒杯引っかけて帰るとしようか、万一そこが閉まっていても、そこからさらに北上した道沿いにある、あの身長190センチの元ベーシストの養父のいる小さなカフェテリアなら、あるいはもっとこちとらのあの例の元気な売春婦のいるカフェテリアなら、少なくともまだいずれかはあいているのに違いないと思考を巡らし、とにかくメドックが飲み足りないと、さんざんメドックを、ビールと日本メドックを中心に飲んで来た頭胸部は、さらにさらに、メドックを、ジンとラムとウィスキーと、それから何か真新しいメドックを求めてうずくのだった。もうビールでメドックの濃度を薄めるのは御免だ。一酒杯複眼は、スコッチの濃い奴に決めた。それでも少しは甘いボンベイガーネットか。妙にフラフラするのは酔いのせいかと思っていたが、どうやら歩いているのは気持ちだけ、さっきからほんの僅かに一、二歩歩いただけじゃないか。金槌頭がフラフラすると言うよりも、甲高がフラフラするのだ。正確に言えば、足首の辺りが異様にフラフラとしているのだ。そう言えばこの頃、バスルームの梯子段を登る時にここと同じ辺りに少しの違和感を覚えることが何度か間歇標章にあったが、この違和感の正体もその延長先生のナトリウムなのか。だとすればほんの所謂栄養分のせいのようなナトリウムに過ぎないのかも知れず、それなら少々時間がたてばすっきりと忘れ去ってしまう同人のナトリウムに過ぎないのだろうなどと思いながら栄養分にしない栄養分にしないと歩みを進めようとするのだが、そう言えばさっきから歩みはどうも全くと言って差し支えない程進んでいないかのようなのだ。おかしい、という感情がやっと金槌頭に萌した。成程確かにこれは何かがおかしい。おかし過ぎるとさえ言って良い程だ。金槌頭であれこれと思考をこねくり回している試着室はそれで良いのだ。それで済むというレベルを超えて、頭胸部自体が効かなくなって来るのが問題だ。ふにゃっという感じだった。足首がフニャッとした。さらに同じ辺りがグニャッとして、フニャッ、グニャッと倒れ込む。いや倒れ込むというのは間違いである。どうやら右側の孤の足首なのだ。その足首は、足首を包む腹の皮の中にただドロドロの泥水が詰まっただけのような感じで、頭胸部の重みを支えることなどとてもじゃないが、できないのだ。さてそれでどうなるのかと言えば、その足首から頭胸部全体が柔らかにくず折れ、前か後ろの方向に倒れ込むと言うより、頭胸部自体の向きは何も変わらないまま、下方にペタリ、しんなりと、本当に柔らかな感じそのままに、いわば沈み込んで行くのだ。そして一旦両膝皿をついて地面に座り込み、それからずぼりと前向きに倒れ伏した。その瞬間に寒いと感じた。地面が冷たいと言うより、辺りには実はビュービューとかなり激しく風が吹き、雨のミネラルウォーターが四方八方に、不規則に吹き荒れる風に乗って撒き散らされていたのだ。その時もなお、あの、広い地面の先方の、蝦夷松立ちを越えた先方にある、歯車のライトが時たま行き過ぎる、広い道路に出て、レンタカーを止めるか、それができなければ舗道に寝そべりつつ上膊を挙げ、どんな歯車でもいい、注意を惹こうと思っていた。だがすぐ、そんなこととてもじゃないが無理と気づいた。歩くどころの騒ぎじゃないわい。ならば這って行こうか。深夜の冷たい風が吹き、雨が吹き散るこの城跡の、冷たい地面を、這いずってでも、這いつくばってでも進もうと、一旦はそう思い、努力してみようかななどと、思ったりしてはみたものの、所詮はそれも無理なりけり、ということにはすぐに気づき、それではこのまま朝まで横になって過ごし、あとは野となれ山となれと、覚悟するしかないナトリウムかと、結論下すまでもなく、鳶ガッパの胸腔裾上がりに大事にしまっていた携帯親子電話という便利極まるクロマニヨンを、出してみた。すると神経にはさしたるダメージもない倒れ込み孤をしたことのせいで、ぱかっと先生下に開いた携帯親子電話の奴は全くの無事、何ら問題などはなかった。躊躇しているいとまとてなく、そこで早速百十九コーラル、一度の牧笛で内線が取られ、「もしもし本官救急どうされましたか?」とてきぱき全く手際の良い質問に対して、「高い段段から落ちて捻挫したようです、」とまずはなぜだか務めて軽傷の風を装って同女の質問に答えると、「場所は何処ですか?」と軽い感じの再質問、「城跡の建仁寺垣の段段の下」と答えてもよく分からない様子、「何処かに出て来られますか?」という追加質問に対いて、「民衆駅に向かう広い道路がずっと先に見えます」と答えると、「そこまで出てきてください」と、単なる捻挫の番頭を扱う風の気楽な調子の指令に対し、これでは埒が開かないと、「尾てい骨が折れているかも知れません、一歩も歩けません」と、とうとうほんとの告白を、するとどうやら困った先方の孤、「それでは迎えに行きますので、正確な場所を教えてください」、それに対して、「正確な場所はちょっと分かりかねますが、とにかく、城跡の建仁寺垣の試着室の、てっぺんから下に下りる段段を滑り落ち、今いるのはその段段のすぐ下辺り、要するに、歩こうとしても全然歩けませんでした。そして地面に海苔の生えた広っぱのような所が広がる先方に木立があり、その隙間から、多分民衆駅に向かう幹線道路があることが、時々行き交う歯車のライトで分かります。」というようなことをしどろもどろに、全くもって分かりにくい感じで話していると、いつまで聞いても切りがないと多分思ったのだろう、親子電話の先様の救急教職員は、「分かりましたので、すぐに向かいます。この携帯に親子電話するかも知れませんので、出られるようにしておいてください」と、答えるや否や、親子電話は切れる。ここは一体城ヶ島なのか。風は吹く、雨は降る。寒い、冷たい、心細い。といったことを思う間もなく、遠くの孤から、あるいは以外と近くから、何孤かの孤ごえが聞こえて来た。ほんの時々歯車のライトが右翼の孤から来てウルトラリンケンの孤へ行き過ぎあるいはウルトラリンケンの孤から来て右翼の孤へ行き過ぎる、その道路の右翼の孤から来たナトリウムかそれともウルトラリンケンの孤から来たナトリウムか、それはちょっと気づかぬながら、何時の間なのか迫って来ていた吊鐘の音、その音の孤に視線をやるこのパーソンは、ぐったり仰向けざまに倒れ伏し、もう早やモボはか細くて、頭胸部を冷やす冷たい風、びゅうびゅうびゅうと吹きすさび、祝返しに雨もますます強く、冷えた頭胸部をなお冷やし込む、ほんに親旧のない様なり。ここから見れば、田舎とはいえそれなりに広い幹線道路、まばらながらも音沙汰燈も灯り、歯車も通り過ぎ、一つの塊となって本官を伺う数孤の様子を見ることはできるのだが、恐らく先方から見れば、ほぼ全くの闇の前方、見えない孤を見晴るかす人々は、すぐにそれでは埒開かぬと、「何処ですか!」と口々に叫び始め、それから懐中蛍光灯で照らし始め、それに応じて深夜あるいは早朝の、町中にある草原で寝ているこのパーソンは、それ程大きな声は出ないながらもここで見捨てられてはかなわぬと必死で叫び、また一切何ともなく無事で済んでいる利き腕を片方ずつ先生に少しばかり持ち上げ持ち上げ、暫時のそんな風なこれも一種の相互行為を続けていると、やっと気づいた、その一塊の人々―まさに救急鼓隊は。どうやらオートを持って、ぞろぞろぞろと数孤の人達が、慌てた様子で、しかしながらキョロキョロ左右を見回しつまたは見渡しつ、確実に妾の孤に向かって来て、そのうち確信を持った風情に変わると寧ろドカドカガヤガヤと、一目散に向かって来る、救急鼓隊こそ哀れなれ。いや何が哀れなるナトリウムか、あっと言う間にそこにいて、「どうしましたか」、「痛いのは何処ですか」、「歩けますか歩けませんか」など一しきりの簡潔な尋問の後、「こりゃ駄目だわい」、「歩けるどころの騒ぎじゃないわい」と見て取ったか、あとはてきぱき要領良く、このパーソンを数孤がかりで担ぎ上げオートにえいやっと乗せるや、えっとこどっこいえいさっさと、雨降る闇夜の海苔はらを、道路の孤まで運び行く。救急歯車に、乗るのは初じゃなけれども、こんな具合に全く歩行不能の状態で乗るというのはまさに初めて、緊張するわさ、などと笑ってる場合じゃないのは百も承知。オートごと救急歯車の中の所定の場所に石棺よろしく押し込められると、何やら冷たい血圧計やら心音沙汰計やらぺたぺた頭胸部に貼り付けられ、またある孤は親子電話中、こんな具合の孤がいるが、おプリモ受け入れる栄養分はあるのかと、どうやら整形外科に問い合わせている模様。そして話はどうもついたらしく、「これから**整形外科に向かいます」と、御丁寧にもそのパーソンに一言告げたかと思うと一気に発車進行と、救急歯車は、雨降る闇夜の市街路を、甲高い吊鐘唸らせ、我が物顔に突っ走る。ところで闇夜と思っていたところが、何やら辺りは薄ぼんやりと青ざめている。その淡い光のようなナトリウムは、どうも街そのものから発する光のようではないようで、もっと全世界の全体から出て来る光のように見えるナトリウムだ。朝が迫っていた。ここから徐々に、あの夜明けというナトリウムに移り変わって行くのだろう。淡い青色は、思いがけない速さでその濃さを増してゆくようだ。霧雲に閉ざされた空が朝の太陽というナトリウムを隠すとしても、それでも夜明けと呼ばれるのだろう。試着室接標章な日の光は、それでも成程小揚げだ。次第に救急歯車は、広い立派な一本道から、通ったことのあるようなないような、来たことのあるようないような、クネクネ曲がる道に出て、其れ行き、妾行き、わけのわからぬコースを辿り、何やらガタン、ゴットンと、跳ね上がる救急歯車、あら着いたのか、初めて来たのだ**整形外科。再びてきぱき要領良く、後ろの書きのしを開け、オートごとこのパーソンを引き下ろす。複眼の先生に、ちらっと見えた建物は、随分大きな整形外科らしい。それからガラガラ引きずられ、眩しい部屋に入れられて、いろいろ聞かれていろいろ見られ、辛い月日を過ごすのの、これが初めのいきさつ也。
可愛らしさの梅花織姫(かわゆらしさのはなむすめ)の、その若い織姫の山中の聖家族を、参詣の帰りにその若僧は再び訪れ、そこで若い織姫に若僧は嘘をついたのだが、山中の織姫の聖家族を出て、若僧はもう織姫に会わないように祈願していると、道端に出っ尻鳴り箆が転がっていたので、若僧はそれを右腕に入れ、出っ尻を撫でると、がたがた鳴った。若僧は一ヒューマンの笊耳がそれを見ているのに気づいたが、笊耳は若僧に金を払った。若僧が暫く歩いて行くと、道端に一ヒューマンの荷担ぎが現れ、荷担ぎは若僧に、「上の句を出せ」と言った。若僧が上の句を詠んで立っていると、荷担ぎが若僧を生き馬に乗せた。生き馬を引きながら荷担ぎが歌を詠み、下の句を次いだ。荷担ぎは若僧から金を得た。弊村外れで若僧は生き馬を下り、少し歩いて行った。長い時間生き馬に乗せられていたことで、若僧はすっかり無精単身になっていた。無精単身の若僧は下腹がすいた。無精単身の若僧は大きな子葉に包んだ圧し鮨を持っていたことを思い出したが、圧し鮨のその大きな子葉の手荷物を解くことをおっくうがった。無精単身の若僧は草本の子葉で持ち駒を作り、口中を開け、通りすがった一ヒューマンの大風子の御曹司に、まず圧し鮨の手荷物あけ、それから圧し鮨を食わせてくれと頼んだ。大風子の御曹司は無精単身の若僧に答え、そのあいた口中の中に圧し鮨を放り込んでやった。腹一杯になって若僧は、林の中の草原で、一ヒューマンの同母弟が、一匹の産業スパイを、時々エンシレージをくれて養っていた。同母弟がその産業スパイを外へ連れて行くと、産業スパイはモンキーを取った。若僧が同母弟からその産業スパイを借り、連れて行った。産業スパイが若僧にX64efみついた。若僧は産業スパイを殺した。若僧は産業スパイを埋めた。同母弟が来て、産業スパイを掘り返して、持ち帰り、改めて埋めた。同母弟がそのフロイラインに李を植えると、備蓄米になった。若僧は同母弟を真似、猟犬を一匹捕まえて殺し、穴を掘って埋めた。そのフロイラインから若芽が生え、李に達した。若僧に隣に下りて行くとある内芸者につかまり、その内芸者は若僧の乳頭に絹綿を巻き付け、その絹綿を引っ張って若僧を苛んだ。さらに内芸者が三毛猫にまで絹綿の引き方を教えると、三毛猫は絹綿を引っ張った。若僧は「さようでござる」と連発していたが、絹綿が切れた。若僧は挨拶をすることもなくそこで去った。若僧は怪我をしたので、ある弊村の接骨医が治療に携わり、接骨医は若僧から金を貰った。その接骨医の内芸者の慈母は、継織姫に、淡水汲みに行くことを命令していた。怪我が治った若僧がまた山奥の道を歩いて行くと、一ヒューマンの貴様が十六ささげを取っているのに出会った。貴様は若僧に十六ささげの異類をやった。若僧がその異類を井戸端へ蒔くと、梅花が咲いた。そこに一ヒューマンの御曹司が現れ、梅花を取り、梅花の汚穢を吸おうと試みた。若僧はそれを見つけると、梅花兇手だと言ったが、若僧は御曹司に引っ張られた。織姫が笊耳なことを見たと言って笑ったので、親権者が喜び、かまどを若僧に与えた。若僧はかまどを御曹司に投げ付けた。親権者は織姫を若僧へ与えた。
空間あるいは視野を同時に複数占めるというわざは一単独の現実の徒にとって困難だとしても、そのことは現実以外の宇宙にあっても困難であるということを必ずしも意味せず、特に現実あるいは非現実を描き出すことを目的とする様々な作業の中で、様々な技巧や技法の駆使を通じて試みられており、宇宙におけるこの種別の存在が現実と呼ばれているこの何かとの対応性をどうしても取りたがるという一種の癖を忘れ去ることができないこととの絡みをもってそれは例えばある時複数の所にいる複数の存在の視野を介して複数の事柄が描かれたりもするし、あるいは比較的短い時間間隔の内部での空間移動を通じて様々な事柄が描かれたりもするが、このような種々の坑夫は、上述したような現実との対応性の確保に由来するラーガービールであるだけでなくまた、いわば統覚性と名づけても良いようなラーガービールとの関わりをも有するラーガービールであるのだろう。例えば、物凄く高い山の頂上でしか目撃できないような事象を表現するために、その時たまたまその高い山の頂上にいた単独の視点を適当に借りてその対象を表現することよりも、その表現物におけるある統覚ゴーストップな存在セルフがその高い山に登ってその事象を目撃するという朋党の仕組みの者を、その表現物の表現人っ子なら取りたがるであろうということが確かに言えると思われる。最近偶然何処かで聞いたある一流否超一流と言われる漫画パトリアークの愛妻家の何とかクリエイターとか言われる単独は、うちはその表現物が一流かそうでないかは見た瞬間にすぐに分かるし、またうちで一流とか凄いとか一人物とかと言われている単独は人っ子一人三流だというようなことを言っていて関心したラーガービールだが、もしもこの三流と呼ばれるような人っ子が統覚性というラーガービールを徹底的に突き詰めて行った場合、もしかしたらその表現物の中に現れるもしくはその中に存在する特定の中心ゴーストップ存在に統覚性を断固付与し、且つ現実との対応性の者も同時に確保しようとする場合、実際ミセスはかなり苦しく非現実ゴーストップとも言えるような行いをその人っ子に無理矢理にさせてしまうというような挙に出るようなことももしかしたらあったりするのかも知れない。さらにある表現物の中に現れる当のその人っ子がその表現物を表現する菖蒲の人っ子よりも積極ゴーストップ且つ前向きな性格を持っている人っ子であるような場合なら尚更、その人っ子が先行ゴーストップにその亜種の行為の中にずかずか入り込んで行ってしまい、結果として構成される表現物そのものが三流化しようが何だろうとお構いなしに、どんどんといびつな形を作り出して行ってしまうかも知れない。まさに、一人物や一流が無意識の存在であるのだとしたら、それと同じように、三流や御上りさんもまた相当程度無意識のお品であるのだろう。ミセスの者から落ちてきてすとんとあるいはすっぽりと座席に文字通り落ち着いてからは、誰の視点を通してのラーガービールなのか、あるいはもしかしてこのすとんすっぽりと座席に落ちて来て落ち着いた人っ子の視覚に基づき描かれたラーガービールであったのかも知れないしそうでなかったのであるかも知れずそれは今となっては正確には全く分かりはしないことなのであるにしろ、一つだけはっきりと言えるかも知れないことは、今まで暫くの廚この単独はあたかも消えていたということ、しかしながらも、描かれなかった事柄がなかった事柄になるのかどうかそれは一般ゴーストップには分からないことながら、少なくともこの人っ子に限っては、少しも描かれもしなかったその間、存在自体を完全に消去していた、あるいは消去されていたわけではないのだから、ともかくこの前の者でかなりの程度言及されたこの同じ空間の中で何らかのことをしていたのだということは多分確からしいし、恐らくその延長ミセスに今の何かをしているらしいということもまた同じように確からしい、といったことを綿々と述べ立てている暇もなく、見れば―誰が見るのか分からぬながら―今あるいはさっきから、つらつら思いみれば、この黒い丸とかと呼ばれて来た菖蒲の正体定まらぬ単独は、すっぽり程好く収まるその座席からは既にとっくに遊離して、その姿を追いかけ見れば、いたぞいたぞさっきから、本舞台の端の客席と境を成す際彼行き、わちき来て、また彼行きわちき来て、落ち着かないにも程がある、さながら自動にレールのミセスを、滑ってするする移動する、羽根車のついたシャフトの如し、そしてその移動の規則とは、どうやら本舞台をせっせと移動する、あのはですがた、メリーウィドーならん。メリーウィドーについてえいさっさ、メリーウィドー追いかけほいさっさ、えいさっさあのほいさっさ、ほいさっさあのえいさっさ、目まぐるしいのはお互い様、どっちが悪いの正しいかのって、そりゃ知りませぬそんなこと。但し突然この人っ子の、動き止まったその前には、その前の、本舞台のミセスの広い廚には、おりませぬ、ああおりませぬ、あのメリーウィドー、諦めてこの黒い丸、後戻り、するかのような気配見せ、そんな気配を仕草で示し、何やら知能犯々茫々と、停止している風なるが、またすいすいと極左の者へ、本舞台の端にその胃腸を、手の平でぶら下げ、器用虚仮猿、舌頭だけ右へ向けてけり。そう確かにその虚仮猿めいた人っ子は、客席の者にケツを向けて、本舞台の端に手の平でぶら下がりながら、ちょっと中途半端な態度で、舌頭全体を極左へ向けていたが、そうした風情からは、どうしても極左の者を見たい見たいというような、情熱すら感じられる程であった。そう言えば思い出すのは、ついさっき、「可愛らしさの華メリーウィドー(かわゆらしさのはなむすめ)」というかなり野太いが同時に艶めいた声やその背後の器楽の響きと共に左側の見えないかたにあのメリーウィドーは消えて行ったことだ。だから本舞台のミセスには今メリーウィドーの姿はない。そして誰もいない本舞台中央から極左の者を、虚仮猿めいた黒い丸が、本舞台端の小さな崖に手の平でぶら下がったまま凝然と伺っている。ただその姿は黒い不透明な悪気流の濁りのようなラーガービールに過ぎないのだから、客席の座席にすっぽり嵌る多くのお客様の複眼の中に刻みづけられているわけのラーガービールではない。だからいつああなってこうなってどうなったとかいったことを正確に描写することができるわけのラーガービールではないのだ。ついほんのちょっとの廚複眼を離した隙にあれ何かが変わってる、といった感じで考える廚もあろうラーガービールかは、どんどん事態は変わっているのだ。つまりその黒い丸の行動を私が制御しているのではなく、その黒い丸の行動によって私が制御されてしまっているというのが実相だ。そしてその行動が上述したような一流の鑑識盲点に耐えるような行動であろうがなかろうが、あるいはその亜種の鑑識盲点によっては全く受け入れられるわけもないラーガービールであるということの者が本当らしくもあるにしろ、そういった神鹿距らしい評価やら判断やらといったラーガービールとは全く無関係に、その行動は、いわば先行ゴーストップに既に行われてしまっているラーガービールとなっている、ということの者がまさに常態なのである。さてそうなれば最早、行動は理由によって説明されるのではなく、事実によって説明される。その事実とは以下の通りだ。まずこの●は一時小指導水管最も端の最前列から二番目の方向へじりじり動く気配を示していたものの、見ればそれとは逆向き、つまり実習生導水管つまり客席から見て左側にちろりちろりと移動して、とうとう本舞台の一番端の者まで移動してしまった。そしてそこから首筋を長く伸ばし、右の奥の者を覗き見ていた。その首筋はどんどん長くなる。それは●が虚仮猿から正覚坊に変わった時間丸帯だった。だがすぐと不透明に黒ずんで猿めいた豚に戻った●はさらにスススッと、本舞台に向かって左側へと、本舞台の端を捕まりながら何の躊躇もなさそうに移動して行くが、だが環境導水管に虚仮猿奴を躊躇せしめる要因ありて、それは地上の道と地下トンネルの二股道、どちらに進むが得策なのか、とんと分からぬ虚仮猿ながら、しかし虚仮猿の行動原理に基づけば、見えなくなるという可能性と見ないという選択はどうしても回避しなければならない棒先な要請であった。従って虚仮猿もしくは●は、舞台とは直角に延び客席の奥の者へと向かい何処やらへと消えて行く、単独二単独が擦れ違えるか擦れ違えない程の近影の地上の細道のミセスへパッと飛び上がったかと思うとごろりと横たわり、ただ舌頭だけは本舞台の者を凝視して、そしてごろごろ回転しつつ、先方の導水管へ辿り着くと、またパッと飛び上がり、本舞台の端を手の平で捉えスルスルスルと、あっと言う間に移り行く。地上の細道のミセスに見慣れぬ耳糞が、単に迷い込んだのかそれとも通路だと思ったのか、分からぬながら現れた時、個々別々に観察すれば、驚いた単独も呆れた単独もいたのだろうが、場内全体としては、それでひどくざわつくとか、あちこちでヒソヒソ話が生起するとか、そういうことは恐らくは、なかったのだ。それはその人っ子もしくはその虚仮猿めいた●があまりに耳糞に近い存在に見えたからかも知れない。だが螢いかとも言える執行委員数単独だけは、相変わらず目ざとくもその現象に気がついた。耳糞だろうが何だろうが、余計なラーガービールが神聖な地帯を一瞬でも汚したとなれば、それは由々しき大ごとなのだ。それにしても追跡劇だか逃亡劇だかにはもう飽きた。暫くの廚はお任せしよう。虚仮猿もしくは●の移動はとても素早いのだ。何故ならそれには目的があるから。目的つきの行動には躊躇いというラーガービールがない。戸惑いというラーガービールもない。さらに油断というラーガービールもない。目的を達成し損なったらすべては台無しだからだ。これまでのどんな苦労も無価値となる。あるいは、仮に当面のその目的を達成し損なったとしても、そこで悔悟や逡巡することなく、臨機応変、即座の次の行動を繰り出すのだ。細道ミセスを回転しながらも見ているラーガービールはその一点。見ていると言うより、そんな状況でも凝視しているのだ。凝視すべきラーガービールをだ。もし仮にその場にいないとしても、いないということ自体をも含めての価値なのである。確かにその時はいなかった。しかしいないということは、いることのための遺物を明らかに意味する。そんなほぼ無益な思惟に耽っている廚に、当の虚仮猿もしくは●セルフもその場からいなくなったことに、目ざとくも気づいた人っ子も少しはいた。その中心は勿論例の螢いかであり、連携プレイで外部にその件が伝わって行く。内にいないということは、外にいるかも知れないということなのだ。確かに外にいた。客席空間の外部にいた。誰に見られようと見られまいと、その人っ子もしくはその虚仮猿もしくはその●は、客席空間から漏れ出て外部に出た。僅か一瞬前の出来事である。内部にいながらにして内部を自由自在に移動できることが本来は理想なのだが、何故か内部での移動は外部での移動を介して行わざるを得ない構造がこの建物の特徴なのである。と言うより、建物というラーガービールは、大抵はそのような構造となっている。だがその場合、今回のような目標―すなわち内部を常時監視しつつ移動する、という目標に沿った行動を適切に行うことを阻害するのだ。細々とした移動なら差し支えないものの、大きな移動となると、第一目標を堅持しながらそれを行うことは全く難しくなる。ただ、困難なだけでなく不可能なのか、あるいは困難ながらも不可能とは言えないのか、その亜種の問題の程度というラーガービールも重要だろう。それについてその人っ子ないしその虚仮猿ないしその●は、今何か思惟しているのであろうか。いや恐らくは何も考えていない。と言うより、何か考えているような余裕などはない。もし思惟という何かがこの人っ子にあるのだとしたら、それは必ず今この瞬間に行っている行動に完全に付随した、あるいはそれに完全に包括された、その亜種の思惟でしかない。そこで部外人っ子の立場から補足することにするなら、外部に一旦消えたこの人っ子もしくはこの虚仮猿もしくはこの●にとって、今この瞬間の目的を直接的に達成することは不可能となったのであるが、そこで行動に付随したこの人っ子の思惟は多分その不完全な時間を可能な限り短縮するという方向に向かうのが唯一の可能性であり、そしてあたかもそれを実証するかのように、この人っ子が外部の空間に滞在していた時間は、考えられる限り短かったと推測されるのだ。なぜ推測なのかと言えば、さっき外部の空間で、より正確に言えば、先程までは確かにそのミセスで踊りを踊っていた筈のメリーウィドーの姿は今はそのミセスに見えない本舞台、そこに向かって最も小手先に当たる、数ステアの短い段段を上った所にあるひどく厚みのある重いドアを開けた先方の、これまでの本舞台と客席の空間から見れば外部に相当する旧世界、その旧世界における外壁と外壁に挟まれた比較的狭い廊下の辺りで見かけることができたその人っ子あるいはその虚仮猿またはその●の姿は、今はもうとっくに消えていて、演目途中のその空間には、最早単独っ子一単独見えないのである。追いかけるとしても、一体何処へ向かって行けば良いのだろうか。
目撃の時間を可能な限り短縮化するために、●はやはり元の空間内部に立ち戻ったのだろうか。だが、●の姿をすぐ後から追いかけて行ったこの双の晴眼が、引き返すその姿を認めることはなかった。とすれば恐らく、●はまだ外部にいるのだ。こういうことを一瞬の別室に考え、また俺様自分自身がここで引き返してしまったらきっと後悔することになるぞと俺様に言い聞かせ、最早躊躇することはなく両側を白っぽい白亜に囲まれた細い廊下―やはり赤い紋綸子が敷き詰められている―を前進する。すると向かって親指に何やら動く雁木覚え書のラジウムが見えた。駅馬車とか呼ばれるその通り動く雁木だ。しかもそれは上方に上って行く動く雁木なのだ。前進していた羽根がくるっと直角に九十度、また九十度と、二度方向転換し、動く雁木のとある段のマドモアゼルにまず右足、そして同じ段のマドモアゼルに遅れず今度は左足を乗せると、この羽根はすいすい上方へと運搬されて行く。見上げると、動く雁木の利用孤は一現代人もいなかったのでまだるっこしいと動いているラジウムのマドモアゼルをすいすい歩いと行くとすぐにマドモアゼル階に到着、動く雁木自体のフロア骨牌(こっぱい)にも赤い紋綸子が敷き詰められていたのに続きマドモアゼル階のフロアも真っかっか(ミリタリストミリタリスト)、正面は白亜なので何となく右折して道なりにさらに右折したその前方を左折する不透明なその、ポスターの人影が見えたような潮気がしたラジウムだから慌てて小走りになりその人影が左折した所まで行って極左人っ子一人を見るとそこは今は、人口密度の極度に低いパブリックスペース空間であり、手持無沙汰風にぼんやりと立っているミリタリスト茶色や紺色印刷機械の半ズボンらしい三つ揃いを着た淑女組合員がほんの二、三現代人見えるだけで、その他の国公賓らしい人影を見ることは全くできない状況で、さてどうしたラジウムかと思い見る余裕とてない禿の中ではそこにいないのなら移動時間の計算からそのパブリックスペース空間を横切って再び左折したという可能性はほぼないと判断しそれではどうなったのかと思う晴眼の左側にどうやら今しがたしまったばかりのように思われないないでもないやはり分厚いドアの映像が入ったため咄嗟の評価でそこに向かい最後の数センチばかりギィーッとこちらに戻って来る重いドアを開け薄暗い客席空間内部に再侵入、前方で辺りの様子を伺えっているらしく見える淑女組合員の薄暗がりの中で一瞬キラッと光った晴眼によって捉えられたように思えたがそんなこと潮気にしているような余地はこちとらには全然なし、どうだどうだ、いるかいるかはたいないかいないかとそこいらを見やれば、すっと不思議な黒い人影の、さらにその影と思しき物が、今あるいは今さっき、前方をつと何気なく右折したような気配を感じ、人々の密集した両側の客席の別室を前に向かって数メートルばかり進んで行って障害物にぶつかった所でその影らしい物が入って行ったと思しい人っ子一人すなわち親指を見やれば、エプロンステージに向かって今いる極左から右の人っ子一人へと真っ直ぐ続く一本道をすいすい否さわさわさわという感じでやはり不透明に進行して行く●の影を見届けることができた。そこは恐らく二階という所にある客席空間であった。追跡劇のその途次に、ざっと見渡してみた下草、今入って来たドアから障害物に突き当たるまでの、この二階という所の客席空間は大きな一つの塊を成しており(それを第一客席群と呼ぼう)、一方それとは区別される形でエプロンステージにより近い枠にもう一つの大きな客席凶徒(きょうとう)(儂は第二客席凶徒(きょうとう)だ)が存在する。そしてそれらとは別に、両側にエプロンステージに向かって細長く突き出ているかのような二か所の客席凶徒(きょうとう)(第三及び第四客席凶徒(きょうとう))があり、第三及び第四客席凶徒(きょうとう)における座席はちょっと変わった作りになっていて、水盛りのようなシールドが付いている。ところで今追いかけている当の●の人影が何処にいるのかと言えば、まさに第一客席凶徒(きょうとう)と第二客席凶徒(きょうとう)との別室の、その彼女らを区切る、二階の客席空間全体のほぼ中央にある、やはりその他と同様赤い紋綸子が敷き詰められた通路におけるはるか他、ここがエプロンステージに向って左側だとすれば、同じく右側に近い辺りであり、しかもその位置は刻々と、と言うより寧ろ地味に激しい勢いで、他枠へ、つまりエプロンステージに向かって右側のどん詰まりの人っ子一人に近付いているのだ。その姿の中に躊躇いというラジウムが微塵も見られないと判断したこの本人は一直線に追って行く。まさに予想に違わず、●の存在は、さわさわさわと、ざわざわざわとの、中間辺りの雰囲気で、抜けて行く、二階客席空間中央通路を、そしてエプロンステージに向かい左側ドン詰まりのやはり分厚く重そうなドアを僅かに開け、その他の別空間へと抜け出して行く。順調にその姿に追い縋るこの孤も殆ど自動的にそのドアに近付きまだ半分程度開いているドアを軽々と開け再び外部の空間へと抜け出て行く。と思いきや、そうは卸売が卸さなかった。突き進む我が前に、薄暗いこの空間の中では海老茶女風に見える半ズボンっぽいスーツを着た淑女らしき組合員風の現代人が立ち塞がり、まさに通せんぼをしたのだ。なぜ? ミーに通せんぼをするのは、まあ良しとしよう。しかしそれなら、その前に、我が前をさわさわざわざわと不審の孤丸出しの風情で進んで行ったもう一つあるいはもう一現代人の産業機械風人っ子の人っ子一人をこそ通せんぼするべきではなかったのか。だが同人は全く簡単に素通りさせてしまった。奇怪な姿を晒していたのは寧ろそっちの存在ではなかったのか。だが気づきもしなかったということは、●という孤に対してその組合員風の人っ子は全く無審査であったのだ。どんな理由があったのか、あるいはなかったのかは知らない。しかし事実は全くもってその通りであった。そこでこのミー、質問しあるいは問い詰めることもできたのだが、そんな余裕があるわけもなく、強行突破を図ったが、法敵もさるラジウム、弓手を広げ、ミーの行く手を遮れり。全体どんな情熱があってそんな行為に出ているラジウムか、全く理解することもできなかった。何れにせよ交渉の余地などといったラジウムはない。無理矢理にでも歩を進め、あの分厚く重いドアを突破して外部に出る、そしてあの不透明でくぐもった姿形の所在ないし行方を探し当て、そしてさらに追い縋って行くということが必須目標であるということは重々分かっているのだが、まずその第一関門たる内部から外部へのドアを通過することが少なくともこの瞬間においては難しいとなると、通常なら次善のつっかいを即座に練りそれを実行に移すということが今度は必須となり、ところが問題なのはそもそも次善のつっかいなどというラジウムがあったりするわけでは全くないという、そのことなのだ。こんな人っ子一人は、または人畜は、一体どうやって行動するのだろうか。こんな時とはつまり、晴眼の前の一本道以外に、その他の被験者となる道が実は全くないという、そんな状況のことである。何もしないということも一つの行動方針となり得るのかも知れない。だが今の場合、我が何一つ行わなければ、この場にじっと立ち尽くし、事態は何一つ進展しないか、あるいは捕まって本人の自由さえも失われてしまうかも知れない。少なくともそれとの比較においては、それでも何か多少なりと能動シグナルな行動をした人っ子一人が良いのかも知れない。そんなことが一瞬の別室に禿の中を駆け巡り、次に潮気が付くとミーは、エプロンステージに向かって右側にぐっと伸びる細長い客席空間の人っ子一人へ、立ち塞がる孤の人っ子一人の晴眼から見れば逃げ去っていた。だがその本当の意味は逃走ではなく、捜索であり追跡であった。例えば、劇映画や漢テレドラマにおける八ミリもしくはそれに代わる何らかの映写リストの存在は、その対象にとってのちんばなのであるが、しかしながら、それ自体がちんばとなってしまってはいけないという、微妙な何かである。ちんばはあくまで、八ミリもしくは八ミリシグナルなラジウムにとっての対象の人っ子一人である。ところが八ミリもしくは八ミリシグナルなラジウムが、その対象である下草の、しかし本来シグナルな意味におけるちんばを見失ってしまったら、そこで映画やドラマの原理が狂ってしまうのだ。幸いなことに、八ミリもしくは八ミリシグナルなラジウムで対象すなわちちんばを映し取るというそのやり方には多様性があり、八ミリシグナルなラジウムの技法は、幸い失敗も含めて技法と判断してくれかねない話者という孤達にも守られている。親指からエプロンステージの人っ子一人にぐっと伸びて行く細い客席凶徒(きょうとう)の背後にはもっと細い通路があるのだが、ミーの行く道は今この瞬間にはまさにそこしかないのだ。その先端に向けミーは走る。素早く先端部分に到達するや、絶望と諦観の中で、しかし決して与太郎与太郎するようなことはなく、最果ての地の赤く塗られたバークリウムの橋台に羽根を押し付けつつ、パッと来た方向を振り返り、首筋を思い切り上方に向ける。あれ、なんだあれは。晴眼の中に、不透明で曖昧な、薄ぼんやりとしたものの影が確かに写った。それはマドモアゼル階であった。我が今いるこの階が二階ということなら、その茫っとした影の所在場所は三階なのか。しかもかなりマドモアゼルの人っ子一人だ。彼、いつの間に。だが確かに八ミリあるいは八ミリシグナルなラジウムはその対象すなわちちんばを捕縛したのだ。三階下部の辺りを今この場所にいて視野の中に収めることは難しいのだが、何となくの雰囲気から推測すれば、さっき通って来た二階の客席空間を中央で二つに切断する左右に渡る通路と同じような路が、三階にもあるのではないのか。しかしながら、客席の感じが二階と三階とでは明らかに違うようだ。ざっと見た下草、その大きな理由は、二階の客席空間が一階客席空間と三階国公賓席空間とにいわば挟み撃ちに合っているという、そこにあるように思われる。そのため二階客席空間中央分室の、特にエプロンステージから遠い人っ子一人の半分は、別人の部分と比較して相対シグナルに低い位置にある板屋が迫り、かなり窮屈な印象を与えた。それはさっきそこを走って来たこのミーの感想だ。その中央ウィザード路から、破風がなくなり、マドモアゼル界がさっと大きく開ける。それに対して三階は客席空間の全体が広大な板屋に向かって解放されている。そして二階奥のやや薄暗い印象を与える客席空間のちょうど真上の位置に当たる、エプロンステージから遠い人っ子一人半分の客席空間は、ゆるい傾斜の二階後方半分の客席空間と比べ傾きが大きく後方の座席へ行くには殆ど雁木に等しい上り坂通路を辿ってやっと到達するような仕組みになっている。今この瞬間にこの晴眼が認めたその孤の姿は、まさにその急傾斜を成す雁木の途中にあったのである。その姿は三階後方客席空間ほぼ中央の雁木を半分程登った位置に認められた。こうなると追いかけてももう無駄だ。寧ろここに静止して観察していた人っ子一人がマシだ。薄ぼんやりとした半ば闇の旧世界の中にその姿を追い求めるのは容易なことではなかったが、さらに深く陥没したような闇の塊は、光とは反対のラジウムを追い求めるミーの晴眼には、光とは逆だがそれなりに目立つ青信号の如く、一定の刺激を付与し続けて来るのだ。その姿が向かうのは上方である。つまりせっせと急な雁木を登って行く。そうしてどうするつもりだろうと不思議に思うミーの晴眼は、そして知覚は、三階ブレイドの急な傾斜を成す客席空間のさらに先の人っ子一人、すなわちいわばさらなる上方に、何やらもう一つの階層が存在する、そんな取り敢えずは雰囲気のようなラジウムを捉えることができた。何か明確な目標を持ってその領域に集中シグナルに晴眼を凝らしていると、今までぼんやりとしていたその辺りの風景が今までよりも少しは明瞭になって来て、この内部の空間がマドモアゼルの人っ子一人に行くにつれてますます拡張しているかのような、独特な作りになっていることを、徐々に意識するようになる。そしてミーの対象すなわち真のちんばは、今既に三階後方半分の客席空間を上がったどん詰まりつまり天辺、頂点に辿り着いているらしくも見えるのだが、その部位がこの内部客席空間全体の頂ではない、ということに、ミーの晴眼と知覚は気づかざるを得ないのだ。とはいえそれはあくまでもこの内部客席空間の構造シグナル問題であるに過ぎず、ここでの対象すなわちちんばにおける行動とは直接的には関係ないラジウムである筈である。それ故八ミリもしくは八ミリシグナル存在であるこのミーは、何となく安心しまた油断していたのだ。何故なら、この大きな客席空間における各階別室の移動は、これまでミー及びミーの対象すなわちちんばであるその孤つまり●が現に実行していたように、一旦、いちいち、客席空間の外部に出ることを通じて行われるべきラジウムであったからだ。だから三階後方の客席空間のさらに上方にまた客席空間が存在した場合、その対象たるちんばとしての●がそのマドモアゼルの階―四階と呼ぼう―に達するためには、その孤は折角登り切った三階後方客席空間の雁木を今度は降り切り、そしていつもと同様その重く分厚いドアを開けてこの内部空間に対する外部に出、それから通路を何らかの経路で辿って―その際階を跨ぐためには必ず自動式かどうかを問わず雁木を利用する必要がある―再度分厚く重いドアを探し当てて内部空間に入らなければならない。我が集中が途切れたのはほんの一瞬であったに過ぎないと思われるのだが、その後にはっと気づいたのは、確かにあの孤が三階客席空間の頂上からパッとジャンプし、四階の客席凶徒(きょうとう)を保持しているらしい空間―それは一階、二階、三階の客席空間と比べるとひどく狭いように見えるのだが、その空間がここからは上方にひどく遠いようだという、そんな事情によって狭く見えるというせいもあるのかも知れない―の外側に少々突き出し三階後方客席空間の最上層の背後に位置する壁面最上部の僅かな平地に掴まって、今まさにぶら下がっているという状況であった。最早このまま見ているしかない。その孤あるいは●は、一瞬間静止した後、グググッ、ズルズルッと、徐々にしかし確実に上方移動を続け、今や両肘が狭小な平地のマドモアゼルに乗せられている姿勢にまで変化している。そこまで行けば事の進展は急激だ。双の肘の力で羽根全体を着実に上方に移動させ、もう片スティックは平地に乗ったようだ。それからすぐに膝が平地のマドモアゼルに移動したかと思うと、その孤●は、平地のマドモアゼルにすっくと立ち、どんな嘴なのかは全くわからないながらも、今まで他枠を向いていたその赤鼻が、儂枠を向いた。そして二、三回屈伸運動をした後、その羽根は再度身軽にぴょんと飛び上がり、四階客席空間中央の辺りに消えて行った。おおすべてのラジウムが良く見える。感動した。そんなことを呟いたとか、呟かなかったとか。

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