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敵は友、友は敵 文明と新型コロナについて

エストラゴン「さぁもう行こう」
ヴラジミール「だめだよ」
エ「なぜさ?」
ヴ「ゴドーを待つんだ」
エ「ああ、そうか(間)確かにここなんだろうな?」

第二次世界大戦直後に書かれた演劇「ゴドーを待ちながら」。

ゴドーなる救世主を待つ二人のホームレスが、風通しのいい道端で脱力したやりとりを続ける。人ごみからの距離も十分だ。

だが、待ちわびたゴドーが訪れることはいつまでもない。ドラマも宴もなく、ただ間延びした時間が流れるだけだ。

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どこかで見た光景だ。そう、COVID-19と「第三次世界大戦」を繰り広げているという2020年5月の日常である。

ほとんどの個人にできるのはせいぜい自粛と待機。そこに「世界大戦」の華々しいファンファーレは聞こえない。

自宅の椅子に座って「終息」なる救世主を待つ、いつになく間延びした日常があるだけだ。

今回だけではない。人類は古代から終息を待ちつづけてきた。一見情けなく受け身な自粛と待機は、人類が1000年前から継ぎ足し継ぎ足し築き上げてきた伝統技である。

たとえば17世紀のペスト流行。近代最大の科学者で哲学者の一人ライプニッツは公爵に向けて「ペスト対策の提言」を著した。

見えない「敵」を直接叩くことはできないので「政治に基づく予防措置に訴えざるをえ」ず、「疑わしい物質は人間によって運ばれるのだから、何よりも人間に対して警戒を」という300年以上前の提言は、今日の専門家のそれに近い。

人と人の間にこそ危険が潜むから、人と交わらずじっとして「人間」であることを一時停止せよ。「専門家」の訴えがこれほどわかりやすく無条件なことは滅多にない。

市民の振舞いも反復している。イタリア散文芸術の起源とも言われる『デカメロン(10日間)』。

さらに時代を遡って14世紀のペスト流行をきっかけに書かれたこの作品は、感染を避けてフィレンツェから郊外に逃げ出した男女10人の10日間にわたるおしゃべりという設定だ。

悲嘆・ユーモア・皮肉・恋情といった人間の感性を結晶化させる新しい言葉を可能にしたのは、おしゃべりくらいしかすることがなくなった人間という素材そのものの味だろう。

700年近く前の『デカメロン』の10日間もまた、現在の世界にそっくりだ。東京の富裕層は軽井沢や葉山に足早に疎開し、道中の渋滞で排気ガスをふかしたあと自然の中の饗宴と放談にひたる。

スタジオや劇場から追われた創作者たちは隔離状態を逆手にとってリモート演劇やZOOM映画に花を咲かせる。今日のデジタル遠隔創作は、28世紀の人間やロボット、宇宙人にどんな風に映ることだろう。

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メリーゴーランドのように同じところを廻り続ける歴史を見ていると、人は何か不変の摂理をなぞっているように感じてくる。

そしてこう思う。ウィルスは私たちであり、私たちはウィルスである。

そもそも「戦争」や「敵」の比喩で語られがちな人間とウィルスの交わりは、よく見ればもちつもたれつの共依存である。

ウイルスは細胞(膜)を持たず、自己と他者の境界線を持たない物質のようなウイルス粒子として振る舞う。しかし同時に、ウイルスは核酸(RNAやDNAなどの遺伝子)をもつ。ウィルスは核酸を人間などの宿主に侵入させ、宿主の細胞をつかって遺伝子を複製する。

人の家を乗っ取り、人間と異種交配して家族を増やす居候のようだ。

人間は皮膚にも髪にも息にも大量のウイルスを住まわせている。ウィルスの雲は人によって違っていて、身分証明に使えるかもという考えさえある。

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面白いことに、体内ウィルスは腸内細菌のバランスを維持するなどして健康に役立っている可能性もあるという。ウィルスとの交わりの結果、ヒトゲノムの約半数がウイルス由来だとも言われる。ウィルスこそ人間を作り替え、人間を今の人間たらしめているわけだ。

特にCOVID-19は「賢く」、人間を適度に生殺しにする。エボラ出血熱など、高すぎる致死率で宿主もウィルス自身も殺してしまうやりすぎの連中とは対照的だ。

殺しすぎず殺されすぎず、いい塩梅に傷つけあうことで人間とCOVID-19は切っても切れない関係を築くことになった。時にはお互いを傷つけ、時にはお互いを支え合う旧友のようだ。

ウィルスは私たちと一体である。古代の先人もこのことに気づいていたようだ。

immunity(免疫)という言葉は元々ラテン語で「munus(他者への義務)から免れている」という語源からくる。対して、同じ語尾を持つcommunity(共同体)というのは「munus を共有する」から来るらしい。

すると、共同体というのははじめから「免疫のない人たち、互いに感染させ感染させられる危険を共有する人たちの集まり」ということになる。

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この語源遊びは私たちにささやく。免疫の壁を飛び越えて人間の共同体が作り出す感染は終息したりする問題ではない、と。

ウィルスも人間もグチャグチャに一体になって交換し交尾し交流するこの社会にとって、うつしてしまうかもしれないこと、うつされてしまうかもしれないことははじめから刻み込まれた宿命なのだ。

日本語もその宿命を暗示する。「三密」という言葉である。三密のもう一つの意味は「密教で、仏の身·言葉·心の三つ。人間の理解を超えているので密という」(大辞林)だという。

避けなければならないと教わった三密は避けることも忘れることもできない、人間の呪われた本質なのである。

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ウィルスと根本的に一体である人間に思いいたると、友達や家族との関係もにわかに緊張感を帯びてくる。親しい者との友愛関係は、その近さゆえにうつす危険を孕む敵対関係でもある。

友と敵はコインの裏表、ウィルスも人間も、生きることは他者を傷つけ、他者に傷つけられることだ。

そして何より視野を広げれば、人間自身がウィルス的存在である。

住みついた地球で大量に増殖し隅々まで転移する。地球の内部から物質を吸い出してポンポン燃やす。地表を削り、木々をなぎ倒し、砂漠を広げる。

地球を人に喩えて見れば、人間は地球さんを発熱させ、ハゲさせ、肌荒れさせる凶暴なウィルスのようなものだ。偶然か必然か、地球に対する人体の大きさ(約10の6-7乗分の1)は、人体に対する新型コロナウィルスの大きさに近い。人間もまた、地球の友であり敵である。

敵だと思っていたものが実は友であり、友であるはずのものが敵になる。万華鏡のようにめくるめく社会の本質をCOVID-19は照らしてくれる。





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