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推し短歌、それ即ちすべからく相聞歌

あの海の向こうを目指す今はまだすぐに未来へ行けなかろうと

生き急ぐ必要はないまだ若い一度とにかくおやすみなさい

進む道それだけ君は背負えば良い他には何も持たなくて良い

いずれ来る終わりをじっと待っている君へとボトルレターを流す

君を生きながらえさせるためだけのタイムマシンをこしらえている

もう二度と会わない人を追い抜いた生命線は案外長い

君を好きじゃない理由ならいくらでもあげられるけど君が好きです

煌めいた刃先が拓く血の輪廻踏み越えて往けまた逢う日まで



#推し短歌
こちらの企画に応募させていただいております。

「推し」は何人もいる。


けれど、一人選んでくださいと、言われれば、真っ先に頭に思い浮かぶのは、僕の場合「吉田松陰」だ。

だから今回の推し短歌、は吉田松陰のことを念頭に詠んだのだけれど、不思議と他の推したちにも当てはまっているような気がする。推しへの想いというのは、どことなく普遍性を帯びるのかもしれない。

吉田松陰という人物は、幕末に生きた長州(今の山口県だ)の人で、思想家で兵学者。高杉晋作や、伊藤博文といった著名な幕末の志士を何人も輩出した私塾「松下村塾」を主宰した教育者であり、江戸幕府の大老、井伊直弼が主導した弾圧政策「安政の大獄」最後の犠牲者としても知られている。

推しになったきっかけは、とある漫画の登場人物として出てきたときに「牛」の姿で描かれていたことで(この説明で何の漫画かわかった人とは友達になりたい)、なんで牛になってるんだろう…と単純な興味を持って調べている内に、すっかり元ネタの松陰その人を気に入ってしまったのだ。どこがって、その「人」としてのダメさ加減が。

何しろこの人、はちゃめちゃだ。
石高26石という極貧の武家、杉家の次男として生まれて、親戚の吉田家の家督を継ぐために養子に出され、幼い時に吉田家当主となった(メインの生活は実家の両親のもとで送った)。通称は寅次郎。
わずか9歳で、藩校の兵学師範(要は先生だ)となり、11歳の時は藩主のお殿様の前で講義と、神童扱いをされていた。周囲の期待を背負って本人も勉強熱心、諸国への遊学も許されて充実した人生のスタートを切っている。
のだけれど、どうもこの人自分がこうと決めたことはとにかく曲げない。正しい。自分が正しい。正しいことはみんなも正しいと思ってくれる。そう思っている節があって、この後の人生その性質のおかげででこぼこと波瀾万丈になっていく。
友達との約束を守るため、というちょっと軽すぎないか?という理由で脱藩してまで旅行に行って、当の友達からは約束を守ったことに感謝されるどころか、ドン引きされている。しかものこのこと帰るので、罰される。
アメリカに帰る黒船に乗り込んでペリーに密航希望を直談判して浜に送り返される。ペリーは幕府にバレないようにこっそり送り返そうとするのだけれど、黒船に忍び込む時に使った小舟が、身元がバレるようなもの全部乗せたまま、先に浜に流れ着いてしまっていて密航計画がバレる。勿論捕まる。
蟄居(自宅軟禁。指定された場所から出てはいけない)を命じられた部屋でおとなしくしているどころか講義を始めてしまう。というか、投獄される度にその牢の中で投獄されている牢仲間相手に毎回講義をするようになっている。すごく有意義だとは思うけどちがうそうじゃない。
蟄居中の部屋を増築して本格的な私塾を開く。「この部屋から出ないでくださいね〜」と言われているその部屋自体を広げるとか、とんちが効きすぎていて、どんな一休さんだ(一応発案は家族らしい。家族も家族だ)。
実名で幕府の要人暗殺の計画を藩主に意見書として提出する。これも捕まる。
幕府に召喚されて無関係の事件(関係しているという誤解だった)の参考人として取り調べを受けた時に、わざわざ自分から、聞かれてもいない、知られてもいない、具体的な計画として実行される予定もない要人暗殺の計画をしたことを喋った。
そして、安政6年10月27日、処刑された。

要所要所で、なんかもっと他にやりようはあったんじゃないですか?と、ツッコミを入れたいところが多い人生だ。
彼自身、「松陰」以外に「二十一回猛子」という号も名乗っていて、これは「二十一回、猛きことをする」という決意の表れなのだけれど、色々とやりすぎて二十一回に届かないで死んでしまっている。なんだかもったいない。
ちなみに二十一という数の根拠は、実家の杉という苗字も、吉田という苗字も、それぞれ分解すると二十一になるから、という面白い理由があったりする。

吉田松陰を好き、というと必ず「尊敬している」と勘違いをされる。
「歴史上の人物」で、なんだかよくわからないけれど「松下村塾」という「教育機関を作った」「学者」だから、当然「好き」というのはイコール「尊敬」なんだろうと。
残念ながら、まったく違う。
全く尊敬していない。彼の生き方には共感できないし、イデオロギーは相容れない。史実を紐解いてみても、大体ツッコミどころしかないし、人生のトピックにはもっと他にやり様はあったでしょ、といちいち文句しか浮かばない。もしも、現世の人として今目の前にいたら、とてもじゃないけれど仲良くできる気がしない。

本当に全然、なんなら時折思うのが、ちっとも好きじゃないんじゃないか?ってことだ。だっていつも彼の一挙手一投足に腹を立てている。それでも、他の人にバカにするようなことを言われたらそれはそれで、腹立たしい。腹立たしい、なんてものじゃなくて許せないかもしれない。庇うと思う。嫌いになれない。全然好きじゃないのに、なんでか好き。自分も好きなんです、だなんてよそから言われたら対抗しちゃうかもしれないし、やっぱり腹が立つというかもしかしなくともこれは立派な同担拒否…。ああ、あと、人から「渋い」と言われること。これも嫌だ。彼の享年は満29歳。渋いと言われるのはどうにも解せない。きっと残っている肖像画が年寄りじみているから勘違いされているのだと思う(肖像画を描いた松浦松洞のせいだ)。全然まだまだ若造である。

非常にこじらせている自覚はあるのだけれど、あまりにも難儀な感じに好きでいることが僕自身のリアルな交友関係にはバレていて、周りからは吉田松陰のことを「君の元カレ」と呼んでいただいている。光栄だ、いややっぱりそうでもない。

誕生日にはなんとなく好物の大福を買ってみたり、買ってみなかったり。
命日にはお墓参りに行ってあげたり、行かなかったり。
気にはしているのだけれど、ちょっと斜めぐらいに背を向けてしまう。
この感じはまあたしかに「元カレ」相手の振る舞いのようと言えなくもない。

実のところ、『付き合ってる人はいるのか?』という今どき信じられない旧式のセクハラを男性上司から受けた際、

『昨日好きな人の命日でお墓参りに行ってきました』

と素で答えて(実際、その日は10月28日だったのだから仕方がない。10月27日は松陰の命日である)、その場を凍り付かせたことがある。それ以来、結婚だの恋愛だのと言った、特に親しいわけでもないなら聞くべきではないセクハラじみた話題は二度と振られなくなった。

そんな、僕の推し、吉田松陰。
お察しの通り僕のPN「四四田(よしだ)」の由来でもある。
なお、一人称「僕」を最初に使うようになった人、という説もある。

短歌はもちろんのこと、それ以外の創作物、たとえば小説や、脚本を書こうと思うとき。
仮に物語の舞台が現代であっても、欧米諸国、あるいは架空の土地であっても。主人公が男性ではなくても。結局のところ、あえて「推し」をモチーフにしようという心づもりがなかったとしても、僕のアイディアの出どころは吉田松陰に集約されていやしないだろうか、と自分で思っている。
あまりにもモチーフをこねこねとこねすぎていて、原型は留めておらず、自分以外の人に言っても元が吉田松陰だとは気づかれていないとは思うのだけど。

けれど、

「どうしてあのとき、彼は命を落とさねばならなかったのか?」
「どうしてもっと他の道は選べなかったのか?」

という疑問はいつでも僕の脳のど真ん中に横たわっていて、僕のそういう脳の中の土壌を通過してやってくるアイディアは結局吉田松陰の要素を抱え込んでしまっているような気がしている。サブリミナル的に。

僕の創作はつねに、どうすれば人はあのように死なないですむのか?あるいはあのように死ぬのか?どう生きていってほしかったのか?を考え続け、その答えを探して書いている。
つまりは、いつでも彼を助けるためのタイムマシンをこしらえているようなものだし、どれもこれもつまるところは、吉田松陰ただ一人に向けてのボトルレターのようなものだ。中身はまあ、元カレに向けたものなので、ラブレターということにしておく。

そんなわけで、僕が今回お届けする「推し短歌」は安政6年の吉田松陰に向けた連作八首の相聞歌だ。六首は今回のために新たに詠んだものだけれど、吉田松陰を念頭に置いて詠んだ過去作品も、二首混ざっている。

いつか、自分の描く物語というタイムマシンが、アメリカでも、宇宙でも、現代でもない、本命の安政6年に届いて、人生最大の推しを生きながらえさせられたら嬉しいと願ってやまない。

そうして今日も、僕はタイムマシンを、
あるいはボトルレターを、
もしくは、
相聞歌をこしらえる。

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