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小説:コトリの薬草珈琲店 4-1

4章 奈良のうまいもの

 朝の8時。一部の照明だけをつけた店内で琴音とバイトの佳奈の母、真奈美がせわしなく作業を行っている。真奈美はいつもは昼間だけ店の手伝いをしているのだが、今日はフードフェスの手伝いで終日、琴音に付き合う予定だ。娘の佳奈はかねてからの予定があったようで、本日は非番となっている。

 カセットコンロ、ケトル、コーヒードリッパーが3つ、フィルター多数、紙コップも多数。そして、主役となるコーヒー粉+薬草(粉砕済)。今回は定番のクロモジ珈琲に熊笹サンザシ珈琲と棗ショウガ珈琲を加えた3種類を準備している。熊笹サンザシ珈琲は消化を促すので、フェスで食べ過ぎた人用。ショウガにおいては身体を温めるので、11月の肌寒い季節にピッタリだと思った訳だ。

 焼き菓子。これはお菓子づくりの得意な真奈美が自宅で焼いてきてくれたものだ。大和橘のあしらわれたクッキー、芍薬(シャクヤク)の花のあしらわれたクッキー。当帰葉が乗ったものもある。いずれも奈良の薬草を使ったものとなる。芍薬の花は季節外れだが、冷凍保存していたものを使っている。

 焼き菓子をディスプレイするための木の台。お会計用の皿。電子決済用のQRコード。そして、店名の入った垂れ幕。店名の入ったエプロンを2人分。一番重いのは水だ。12Lのポリタンクを二つ。いつものマイリュックには昼食用のおにぎりと自分用のお茶、そして名刺・・・店の前に停めた4WDの軽自動車にそれらの荷物を詰め込んでいく。

「琴音ちゃん、これで終わりかなぁ」
「はい、もう忘れ物もないと思います・・」琴音は少し、息が上がり気味だ。
「大丈夫?まだフェスが始まる前だけど疲れてない?」
「大丈夫です・・真奈美さんは何ともなさそうですね・・」
「毎日、店の手伝いをした後は家族のために買い物して、料理してってやってるからね。このくらいの肉体労働は慣れっこだよ」
「すごいです笑。」琴音の笑顔は少し、元気がなさげである。

 店の前から車を出し、ならまちの細い路地からいくつかの角を曲がって進むと空が広がり、少し大きめの池が目に入る。猿沢池だ。奈良時代に帝の愛が衰えたと悲しんだ采女が身投げをしたという伝説がある。猿沢池の水面に映る興福寺・五重塔の姿は南都八景の一つとされている。

 坂を上がると三条通に差し掛かり、興福寺のエリアとなる。興福寺は奈良時代から続く藤原氏の氏寺だ。今では境内が奈良公園と一体化しており、昼間は観光客と鹿であふれている。鹿せんべいの売り場の周囲では観光客が鹿への餌やりを楽しんでいる。鹿に追いかけられて鹿せんべいを全て放り投げる子供、鹿に“おじぎ”をさせながら、自分も“おじぎ”を返す欧米人。日本では鹿までも礼儀正しいのだと思っているのだろう。ただ、実際のところ、鹿のおじぎは「早くしろ」という威嚇の表現らしいので要注意だ。

 奈良公園の風景と聞いて一番先に思い浮かぶのは、広大な芝生の風景と言えるだろう。その中で鹿たちがくつろいでいる訳だ。琴音たちが向かっている先も、そんな芝生のある大きな広場となる。

「賑やかになってきたね。」助手席に座る真奈美が、目前のフードフェス会場を見渡しながら状況をつぶやく。
「そうですね」
 速度を落とし、指定された場所にゆっくりと駐車する。そこで荷下ろしを済まして、車はまた別の駐車場に停めておくつもりだ。
「E-5、E-5。ここですね」
「お、テントもちゃんとセッティングされているね」

 奈良県が薬草に注目し始めたということもあって、今年から薬草や薬膳をテーマとしたコーナーが設けられるようになった。琴音も薬草珈琲を提供しているため、フードフェスの委員会メンバーである市の職員から出店を依頼されたわけだ。あまり賑やかな場所は好きではなかったが、1日だけなら、と出店することにした。

「E-1は薬膳料理で有名なレストランですね。E-3は確かジビエ料理のお店。E-2はクラフトビールに奈良の薬草木を色々使っているところですね。うちの薬草珈琲に対して、このお店は薬草ビールと言ってもいいかも」
「うん、奈良も色々と面白い店が増えてきたよねぇ」

 開場の30分前には開店準備を完了させていなければならないので、急いで荷物の運搬、店舗のセッティングを進める。Eコーナーの他の出店者とも目が合うので、本日はよろしくお願いします、という無言の挨拶を行う。

 準備を進めていると、スーツ姿の男性が近づいてきた。琴音に出店を依頼した市の職員だ。
「今里さん、今日は出店いただきありがとうございます。何か不具合とか、困ったことなどありませんか?」
「こんにちは、大丈夫です。お陰様で時間通りに開店準備が終わりそうです」
「よかったです。また何かあったらお声がけしてくださいね」
「ありがとうございます」
 男性は丁寧に一礼すると、隣のテントへと移っていった。おそらく、Eコーナーの出店者全員の様子を伺っているのだろう。

「あの方は?」と真奈美が聞いてくる。
「あの人は県の職員で、岡本さんって言うんですけど、産業振興課と観光課を掛け持ちしているような人なんです。奈良県の薬草に目をつけていて、産業の活性化と観光面でのアピールを同時にされているというか」
「なるほどね、なんだか活き活きとされている方ね」
「はい、色々と精力的に活動されていると思います。というか、岡本さんが、このフェスに誘ってくれた張本人です。夜にお店のほうに何度かいらっしゃったこともありますよ」
「そうなんだ。琴音ちゃんも、岡本さんとしっかりと繋がっておかないとね」
「うん、そう思ってます。私のゴールも・・色々な人に薬草を知ってもらって、自分で未病に対処できるということに気づいてもらうことなので、岡本さんの活動にご一緒させていただけるのは私にとっても良いことだと思ってます」
「だよねぇ。さらに、奈良の新しい味覚としてもアピールしていけるといいけどねぇ」

 奈良に美味いものなし。その不名誉な評判は多かれ少なかれ奈良県民の心をザワつかせる。小説家、志賀直哉が、奈良は「食ひものはうまい物のない所だ」と随筆で書いたことが所以とされている。ただ、大阪の食い倒れ、和歌山の魚や果物、京都の京料理やおばんざいなどと比較してしまうと、分かりやすい食のジャンルが存在していないことも確かだ。もちろん美味しいお店自体はたくさんあるのだが、各店がバラバラに魅力を謳っているだけでは奈良県としてのアピールにはつながらない。先ほどの真奈美の発言の根底には、そういった県の問題の解決に薬草珈琲が役立つのではないか、という考えがある。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 車を移動させてからテントに戻り、細々としたことをしていると、あっという間に10時30分となってしまった。開店準備を完了させなくてはならない時間だ。

 店から少し離れたところから、さっきの岡本さんの声が響く。
「みなさ〜ん、本日は“フードイズムなら”にご出展いただきありがとうございます!このEコーナーは今年度から作られた薬草や薬膳のエリアということで、県からも注目を浴びているエリアとなります。ぜひ、みなさんで一体となって盛り上げていただき、奈良の薬草と薬膳をアピールしていければと思います。よろしくお願いします!」

 琴音はもう一度、忘れていることはないかを確認した。お釣りはOK、真奈美さんと自分の役割分担もOK、休憩の手順もOK、オオツカ姉妹と凛ちゃんが遊びに来るのはだいたい15時くらいで、その時は一瞬、真奈美さんにちょっとお店をお願いしてしまうかもしれない、でも15時ならそこそこ客の入りも落ち着いてきている時間かもしれない、などなど。

 首から下げている黒い勾玉は、いつもは服の下に隠れている。ただ、こんな頑張り時の前にはそれを手に持って、「よし、頑張ろう」と小声でささやく。それが琴音流の気合の入れ方だ。母親が大事にしていた勾玉から、エネルギーをもらえているのかもしれない。

 11時になって、会場のアナウンスが流れる。「ご来場の皆様、本日はフードイズムならにお越しいただき、誠にありがとうございます。ぜひ、奈良のうまいものを見つけていただき、楽しい一日をお過ごしいただければと思います。それでは、開場です!」

 二人の警備員がゲートの中心から通路の傍らへと移動すると、開場前からゲート前に並んでいた人々が芝生の広がる奈良公園の会場内へと流れてきた。フードフェスのスタートだ。

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