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大病体験記 第1章「心地よい生」01

 その空模様が何を暗示するかは、それを眺めている人の心持ちによって決まる。
 その日は、薄暗い曇り空だった。
 雲が厚く覆っているわけでもない。かといって、爽やかに晴れ渡っている訳でもない。
 雨男を自称する彼からすれば、「いつもの空」という感じの、中途半端な曇天だった。

 退職の日の朝。
 彼の気分は、取り立てて清新という程のものではなかった。もともと、気分の一新など滅法苦手で、退職ももちろんそのような意図で行ったのではない。ただ、それを決め、ただ、するべき手続きを進め、ただ、その日を迎えた。
 桜が咲き誇り、近隣の専門学校の入学生を盛大に歓迎する準備を整え、定年を迎えるサラリーマンが万感を胸に花束を受け取り、昔語りが長いと後刻後輩達から陰口を叩かれ、短期雇用職員や派遣職員が、3か月後には互いに連絡先を削除し合うであろう残存勢力達とかりそめの絆を確認し、涙をこぼし、よもやま話に花を咲かせている、例年同様の3月31日だった。

 彼も花を受け取るのだろうか?その財源は?誰が買いに行き、セレモニーの段取り役は誰に押し付けられるのだろう?嫌々ながらその段取り役と花束渡し係と挨拶担当上司が役割を果たす間、彼は礼儀として感謝の意を表情に出し、貧血気味なので大変苦痛なのだが、立っていなくてはならない。この行事をショートカットできるのなら、3千円くらいなら払ってもいい、というのが、彼の率直な感想だ。
 そんな意識だから、人に愛されない。他者に共感することもなければ、してもらえない。よって、親しくなれない。その結果、肝心な時に助けてくれる仲間がいない。退職する彼に次の仕事を斡旋する者はいなかったし、自社に誘ってくれる社長も、部長も、いなかった。

 彼は、中小企業を支援する、半公的な、地方公共団体の経済政策を実行する財団で、数年間勤務し、その日自己都合退職した40代の冴えないスーツ野郎だ。幸い薄くはなっていない頭髪には半分程度白髪が混じり、中肉中背の体内にメタボリック・シンドロームの因子を蓄えた、取り立てて長所を述べることが困難な容姿。そして職歴、経歴も、これまた特記事項を探すのが非常に困難と言わざるを得なかった。

 これから始めるのは、そんな彼が年相応に、いや少し早めに体験した、生活習慣病の大病としての発露、すなわち脳卒中の発症と手術、その後の経過を通じ、感じ得た生と死、人々や社会との関わり方、そして自身の人生に関する所見について、詳らかにする物語だ。

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