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「わからないなら調べなよ」の持つ残酷さについて

突然ですいませんが、僕は自分のことをあまり賢い人間ではないと思っています。

子どもの頃から勉強をすること自体が得意ではなかったし、得意科目は単に興味関心があったから苦ではなかっただけで、苦手なものはテスト勉強をしても赤点をとるのが珍しくありませんでした。大学も出てはいるけれどいわゆるFランと呼ばれるランク。それでも母方の近い親族で大学に進学したのは僕だけです。
勉強や頭の出来にはコンプレックスがあるので賢い人には憧れるし、高学歴の人にはどこか気後れしてしまうんです。もちろん学歴だけが賢さに直結するとは思っていないし、高学歴だから人格も優れているなんて思わない。だけど、僕が出来なかった「勉強の辛い部分に耐える」ことができた人なのだと羨ましくなることがあります。

2018年にnoteでLGBTQ+について書き始めてからたくさんの人と知り合い、親しくさせてもらう中で、この街に暮らす人々の勉強熱心さや知識欲・学習意欲の水準の高さに度々驚かされました。親しい人を誉めるためとか媚びるとかではなく、本当にそう感じます。

僕もわからないことはなるべく調べたり学ぼう、知ろうとは思うし実際に調べるように心がけていますがきっと満足なものではありません。時と場合によってはその時わからないけど後で調べようなんて考えていて、いつの間にか調べるのを忘れているなんてこともあります。
基本的に活字が苦手なので、物語や何らかの興味がないもの以外のたとえばビジネス書の類いは読むと必ず眠くなってしまうので全くと言っていいほど読みません。興味関心があることや必要に迫られた場合は別ですが、大人になった今でも勉強と言われると途端に苦手意識が大爆発です。

何が言いたいんだと言われると、要は「みんながみんな学習意欲が高いわけではない」んです。
あらかじめ書いておきますが、学習意欲のある人に文句が言いたいわけでも知らないことを知らないままにすることを推奨しようとしているわけでもありません。僕は単に「自分の持ち得るものを持たない人の背景を考えませんか?」と言いたいんです。


僕は以前、LGBTQ+当事者として書いていくことについて、こんなことを書きました。

読んでくださる方が自分で語句を調べながら読んでくださるとは限らないし、まだ専門用語をあまり知らない状態でも「LGBTQ+当事者のことを知りたい」と思っていれば読み進められるように考えて書かせていただいています。

学習意欲が高い方からすると、読んでいる記事にわからない語句が登場したら「わからないなら調べればいい」と思うかもしれません。
しかし世の中には先程書いたとおり、学習意欲が高い人ばかりではありません。学習意欲が高いことは素晴らしいことだと思います。しかし学習意欲がない人がそれだけで愚かしいわけではけしてありません。人には様々な理由で学習意欲が高まらないことがあるんです。
もし目の前にある仕事があまりにも激務で労働環境も悪かったら。年齢問わず介護と自分のことで生活があふれかえっていたら。育った環境で、学習すること自体が身につかず“学ぶ”ことが我がごとになっていないとしたら。それらが無くても大なり小なり人は仕事や生活に追われることはよくあることです。

専門用語たっぷりで字数以上に情報が贅沢に山盛られている記事があるとします。
その人がマイノリティについて、「そりゃあその人が幸せにこしたことはないでしょう」と比較的理解のある姿勢だったとしても、詳細まで知るには調べるという“手間”をかけられる余裕があることを前提にしてしまうと、その人がその状況にない場合は読むのを止めてしまう可能性があります。
理解があったとしても、誰しも人は自分に降りかかる問題が大きければそれ以外は二の次になるでしょう。ましてや自分が当事者ではないマイノリティの問題について、手間を惜しんでくれる方がいったいどれ程いるでしょうか。

僕は長らくブラック企業に務めていて、帰りの電車で泣いたことも仕事が辛くて会社のトイレで戻した時も、いつだって僕は目の前の辛さしか見れませんでした。その時の僕が自分が属さないマイノリティの問題について、わからない専門用語を読め理解しろと言われても無理だったと思います。興味があった部分は心にゆとりが持てるときに調べたりしていましたよ。しかしそれは僕に興味があったからです。

少し前に見聞きした話で、「学校の先生たちはすべての子どもたちの家に机があると思って宿題を出している」という話しがありました。
ヤングケアラー、虐待、貧困、その他様々な家庭の事情で机がないもしくは自宅学習の時間が取れない、やれない子どもたちがいます。それに関係なく出される宿題が出来なかったとして、子どもたちに非があるでしょうか。
そしてそれは大人であっても同じなんじゃないかと思います。

僕がこうして考えて時に仲間たちと議論できる事はきっと、当たり前のことではないんです。

僕が書いたもののほとんどはPCやスマホの画面で読むことが出来るので、僕の読者は画面の向こうにいてくれています。
そのひとりひとりが今どんな場所でどんなことを抱えて読んでいるのか、僕にはわかりません。だから僕は「わからないなら調べればいい」なんて言いません。
読んで、なおかつ調べるなんてアクションを起こしてくれたらラッキー中のラッキーです。今、当事者ではないのに理解を示しわからないことを調べてくれている方は、何らかの理由で我がごととして考えることが出来ていたり、一定数以上の受け止める余裕がある方なんじゃないかと思います。

そうではない方を「わからないなら調べればいい」と突き放してしまうと、本当は広く知ってもらいたいことなのにそれを考えたり理解する人を足切りすることになってしまうんじゃないかな。僕は当事者なのでどうしてもLGBTQ+の話になってしまうけど、この課題を考えることが一定ライン以上の余裕のある人たちだけのものになってしまったら嫌なんです。

「難しいことは苦手だけど、当事者も幸せに暮らした方がいいだろう」と考えている人、これから考える人に寄り添える書き方が出来たらいいなと思います。
自分の当たり前は世の中全員の当たり前ではないから、相手の背景を考えることは反せば自分を客観視することにも繋がるのではないでしょうか。

それでも「わからないなら調べればいい。」、もっと言えば「そういうやつはバカなんだ」と切り捨てるならば、きっと他のことで自分も残酷に切り捨てられるのだと考えます。
自分が切り捨てる側にいることも、当たり前のことではないのですから。



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