noteとブログの距離感
おはようございます。
昨日の記事で、ワードプレスを使ってブログサイトを作った話を書きました。
自分なりに、「なぜ今更ブログを始めるのか?」を考えてみたのですが、
一般的に使われているSNSプラットフォームが、「パーソナルなことを話す」媒体とは思えなくなってきている感があるのです。
noteでは、「ちゃんとした文章を書きたい」という気持ちが強いのですが、
私的なことをどこまで出しても良いものか、最近はとても難しいなと実感しています。
たとえば、「子どもの写真、話をUPする」ことをどのように考えるか。
子どもが小さいときは、親が写真を撮ってSNSにUPしますが、子どもが物心ついた時に、「自分の写真は上げてほしくなかった。」と言い出した時に、どうなんだろうか?と自分の中で疑問が湧くようになりました。
もうちょっと言ってしまうと、「子育て漫画」とか「子育てエピソード」なんかも、極端な話、子どもにしては「書いて欲しくなかった。」と後で言われてしまった時、どうすれば良いのか、正直自信が持てません。
実は、自分の子どもについて、色々と書きたいこともあるのですが、
最近、ちょっと「書いても良いものなのか、どうなのか?」迷っています。
「同じ境遇にある人々と繋がりたい。」という気持ちもわかります。
子育ての悩みとか、わかってもらいたいと思うことも、私自身、たくさんあります。
でも、子どもの立場だったらどうなのだろう?
「それって、あなたの感想ですよね?」
「本当は、自分のこと晒されるの、嫌だったんですよ。」
子どもに、こんなふうに言われたら、ぐうの音も出ません。
たくさんの方に読んでもらえるということは、たくさんの人に知られるということでもあり、とてもありがたいことです。
でも、一方で、ごく狭い「パーソナル」なことが、書きにくくなってしまうように思うのです。
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昨日、ふと懐かしくなり、大学時代に読んだ
シルビア・プラスの『ベル・ジャー』の書評を読んでいました。
その中で書かれていたのは、
「自分の私的な体験や思想を綴ることに、文学的価値はあるのか?」ということでした。
30歳で、壮絶な最期を遂げた彼女でしたが、その事件がなければ、彼女の作品は注目されなかったのか。
自分の精神が病んでいく過程を、冷静に見つめ、作品に落とし込み、ありのままの自分を言葉にしたシルビア・プラス。
子ども達を残して、自死という選択をした彼女でしたが、テッド・ヒューズとの離婚原因となった女性もまた、子どもを道連れにして、さらにシルビアの子、ニコラスまでも、精神を病み、自死という選択をします。
自分の内面だけではなく、家族も、赤裸々に詩と小説に綴った彼女でしたが、
『ベル・ジャー』が、シルビア・プラス名義ではなくヴィクトリア・ルーカスという別名で、ヨーロッパよりも遅れて出版されたのは、母親の強い反対があったからだと言われています。
「私小説」というジャンルがありますが、
どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのかは、書いている本人にしかわかりません。
でも、シルビア・プラスのように
「本当のことを、本当に晒していた」のだとしたら、それはそれで、ものすごくリスキーなことでもあると思うのです。
「本気出して、書く」
こんな時に、noteは本当に相応しい場所だと思っています。
でも、そんなに頑張らなくてもいい時もあります。
至って「パーソナル」な、狭い話をしたい時もあります。
そんな時の休息場所として、ブログを使っていければと思っています。
皆さんは、どんな使い分けをしていますか?
ぜひ、教えてください。
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