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ねっとりラブソングの存在意義

トップ画はいつしかのあの子

遡ること十数年前、中学時代の私は超自意識過剰なサブカルブー子だった。ガレージロックリバイバルが巷で流行っていた事もあり、口を開いては「ギターが弾けてスキニーパンツが似合う人学校にいないのかな(ため息)」とぬかす、ダッサイ学生服に身を包む芋くさい中学生だった。(そんなイケてる男子学生、名古屋の公立中学にいるはずなんてない)

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当時の私は安っぽいハッピーエンドで口当たり良く丸く収まるような映画やドラマを好まなかった。恋愛ミラクルを体現した事の無いモッサい10代の私にしてみれば他人のノロケを2時間ぶっ通しで聞いてあげてる様なものだった。もしく365日常に恋愛が途切れない女友達の新しいデート相手の話を永遠と一方的にアップデートされる様なものだ。

コッテコテのラブストーリーやラブソングの存在意義に気が付いたのはついここ数年の事だった。あくまでも自分なりの解釈に過ぎないけれど。

大人になると現実が現実でしか無いことは誰でもわかっている。どんな恋も冷める時は必ずくる。全身全霊、鼻毛とかおならとかありとあらゆるネガティブな要素すら愛おしく感じていた相手だって、自分の中で存在を消したくなる程疎ましい相手になってしまう事もある。

あの時のメロメロやキューンが嘘みたいに、別れた事を一ミリも後悔していないに自分に気が付いた時は、恋愛にまつわる全てがまやかしなんだと思い始めていた。なんて儚い、そして嘘みたいに、自分の記憶から静かに消えていく。叶わない恋を甘く切なく描いた映画とか、そんなん嘘でしょ?昨日食べた夕飯思い出せんわくらいの軽さで1年後には忘れてるでしょ?と頭の片隅で考えてしまう。必ず気持ちの終わりは来るし、恋愛が続いていても、それは姿が変わってメロキュンのコテコテとは違う形で続いていくはずなのだ。

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だからでこそ、そこにコテコテラブソングや映画の存在意義がある事に気が付いた。酸いもあまいもわかってるんだよ。作る人も見る人も聞く人も。現実の色恋って美しい事ばかりじゃないし、むしろ圧倒的に悩む割合の方が大きい気がする。現実の恋愛にミラクルなんて無いし、ただ淡々と終わるか進むかなんだ。ラブソングで表現されるスパークは一つの恋愛の1割を切り取ったようなもの。

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「キラキラしてても、キラキラphaseには終わりが来る。必ず。だからせめて創作の中だけでは恥ずかしくなる様な事言わせておくれよ、だって現実ではいつかは終わってしまうんだから。一緒に非現実ファンタジーを楽しもう。」(みんな大真面目に現実でも愛を叫んでるのかもしれないけど)という訴えが私には見えた気がした。ねっとりラブソングや映画が、壮大なファンタジー作品なんだ。そう考えたら、急に何かが振り切れて一緒にそのノリに乗っかることができる様になった気がする。

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ちなみに私のall time favorite ロマコメ映画は10 things i hate about you、カラオケ18番ラブソングはthe Beatles のall my lovingだ。all time とか言ってみたけど、コテコテラブソング/映画の存在意義を自己解釈できる様になったおかげで深く楽しめる様になった、ありがたい2作品だ。

最後に、3枚の写真に写る友達たちは、写真を撮った当時それぞれがそれぞれの違った形の恋愛をしている最中だった。燃え上がる恋愛のピークにいる子、別れを決意した子、なんとなく彼氏との関係に確信が持てない子....。恋愛の数だけドラマが生まれますねえ。


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