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心穏やかな観客

 濃紺と緑のチェックのパンツ姿を見たとき、一瞬にして三十年前の過去の記憶が舞い戻った。彼も同じようなパンツを履いていたっけ。

 やけぼっくりに火がついた初恋の人。もう結婚が決まっている人。彼といたら前と同じように楽しかったけど、本当は全然違う未来を持ってた人。

 見慣れないパンツ姿、婚約者に貰ったというそのチェック柄のパンツは、昔は選ばなかったタイプ。そこには自己主張をする女性の匂いがした。

 所詮やけぼっくりは、燃えるのも早いが消えるのもあっという間。私は二番手だという事実に見切りをつけ、楽しい時間は思いを残したまま終わる。ほろ苦いフェードアウトだ。

 何故そのパンツを思い出したのかわからない。目の前にいる人がたまたま履いていただけなのに。思考があちこち飛びまわる。


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 昔、息をするようにSNSに浸かりきっていた時期があった。おはようの挨拶から、おやすみなさいまで、言葉でのやりとりが私を救ってくれていた。

 中には男性もいて、リアクションがいい人とはたわいもないやりとりを毎日のようにしていた。勿論会うことも、そのつもりも無かったけれど。

 でもね、パートナーの方の誤解を招いてしまった。それはそう、反省したわ。そして気まずいままフェードアウト。申し訳なさだけが残った。

 そんな事があって、距離感を保ってしまうんだ。特にリアルでは。でも困った事に、本の話をしたくても趣味が合うのは男性の方が多いのだ。恋より諜報機関の小説が好きだなんて、あんまり知り合いの女性ではいないもの。


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 ある時小さな書店へ入った。そこの店主さんは、本の中で生活されているからだろうか?常に本や世界と対話されているんだ。常識は変わるという事を受け入れる柔軟さ、若者の悩みを熱心に聴いている姿に刺激を受けた。

 一を話せば十返ってくるとはこの事だろう。時事や歴史の話、小説の話が滞る事なくスムーズにできるのだ。圧倒的な読書量と体験が、小手先の私の話に合わせてくれているだけ、そうなんだけど。

 これは困った。楽しい!楽しいけれど、だからこそ距離を取らないと。薦められた本を読んで、すぐにでも感想を言いたいけど時間をおくの。だから「お久しぶりですね、元気にしてましたか?」なんて聞かれたりする。


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 その店主さんが濃紺と緑のチェックのパンツを履いていた。何これ、記憶がフラッシュバックするじゃない。タイプなの?確かに話しが楽しいのはポイントも高い。好きなの?…突然透明なアクリル板が答えを跳ね除ける。


ソーシャルディスタンス!大切に思うからこそ、これからも距離をとろう。


 若い頃のようにホルモンの影響で突っ走り、好きか嫌いに分ける必要はないじゃない。共に手を取り合って歩んで行こうとは思っていない。たまに立ち寄ってたわいもない話をしたり、趣味思考を聞いて楽しくなりたいだけ。

 チェックのパンツ姿は、無意識に周りを傷つけていた過去からの、イエローカードかもしれない。

  当分あの店には行かないと思う。少しだけ熱量が下がった頃、何食わぬ顔で訪れよう。「こんにちは、お久しぶりですね」って。


 もう、フェードアウトはしたくないんだ。それならフェードインしなければいいの。そうね、観客でいるくらいがちょうど良い。








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