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絶望に救われる

田中泰延・著「会って、話すこと」の中で、「絶望を描いた作品に触れることで救われた気がする理由は何か(要約)」と今野良介さんに問われた田中泰延さんはこう答える。

田中 (略)それはきっと、代わりに絶望してくれるからでしょう。

今野 ああ。

田中 意図的に絶望から希望を見出すでもなく、どこにもプラスのベクトルが見出せない作品というのは、そういう作品が生み出されたこと自体が救いになる得ると思うんです。

「会って、話すこと」p251

この会話に至る、いわば“絶望論”は胸を打つ内容で、ぜひ読んでいただきたいのだが、それはおいといて。

その絶望を作品にした作家の一人として、太宰治の名が出される。

「会って、話すこと」を繰り返し読み、この絶望についての会話を読むたび、本棚に眠っている文庫を手にしなければならぬと思っていたのだが、それでも手を伸ばすのに時間がかかってしまった。

確か高校の頃、理系の読書家である同級生のK(夏目漱石「こゝろ」を意識しているのではない。実際のイニシアルである)が太宰治を好きだか読むべきだか言ったのを聞いて手に取ったんだと思う。

しかし、今ほど本読みでなかったこともあってか、あまりの“重さ”に読み進められなかった。

そしてそのまま本棚へ。

それでも手放す気にはなれず、ずっと本棚に並んでいた本作を、今回ようやく(30年越し⁉︎)手にしたのであった。

重さに変わりはないはずだが、今回はスラスラ読めた。なんなら主人公の葉蔵に感情移入さえしかけた。

そして、高校生の自分が読めなかったわけ=今の自分なら読めるわけがわかった気がする。

高校生の頃の私は、私自身が嫌いであった。
片想いは連戦連敗。
部活での人間関係構築にも緩やかに失敗。
高2の半ばに偶然出会った深く付き合える仲間との関係にも猜疑心が拭えず、どこか相手を試す(という形で自分自身を試していたのだが)悪癖を辞められなかった(それでもあの友らは私を見捨てはしなかったのだ!)。

そんな私は、葉蔵に未来の自分を強く投影してしまった。自分が将来葉蔵になってしまう恐怖が、ページをめくるのを止めさせたのだ。

再読する前、苦しみながら読み切って内容を忘れたのか、苦しすぎて読みきれなかったのか判然としなかったが、今回読んでわかった。

高校生の自分は、本作を読み切れていなかった。そして、それはおそらく正解だった。

あの頃の自分は、葉蔵の絶望とシンクロしてしまっただろう。ますます暗い高校生活になっていたかもしれない。

今の自分は、自分の絶望を(ある程度)乗り越えた今の自分は、葉蔵の絶望を内に取り込みながら、それを消化して救いにすることができた。

そもそも、「人間失格」が太宰治の初期作品と誤認していたこともよくなかった。なぜそんな誤認のまま(国文学徒にもかかわらず!)太宰治を避けてしまったのか。

今回の読書体験を機に、太宰治に出会い直してみようと思う。

そんなきっかけをくれた「会って、話すこと」(田中泰延・著)、絶賛お勧め中である。

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