見出し画像

自分自身を批判する声

・・・まず、先週の心理セラピーのいきさつを下に会話形式で綴ってみる。

わたし:「一年以上も、父への怒りを話し続けても、まだまだキリがない、と感じます。」
ビアンカ:「以前にもお尋ねしましたが、・・・もう、ご家族との付き合いをやめてもいい、と自分に許可する、ということ。これに関しては、どうでしょう。」
わたし:「この『許可すること』についてもよく検討してみました。この『許可』という選択肢があると思うだけで、ちょっと心が軽くなりましたが・・・。自分でも、なぜこれができないのかわかりません。まだ、自分にこれを許可する準備ができていないようです。」

ビアンカ:「それは、なぜでしょう。」
わたし:「正直なところ、罪悪感のせいだと思います。」
ビアンカ:「文化的な罪悪感ですか?日本人は、親孝行に関する徳に深いときいています。」
わたし:「わたしもはじめはそれだと思って、文化的なことについてしばらく考えてみました。実は、どちらかというと『世代間トラウマ』の影響だと思うようになりました。」

わたし:「というのは、よくよく観察してみて、ジャーニーを綴ってみたところ、わたしの頭の中に父の声が常にある、と気づきました。」
わたし:「例えば、色々と自分なりに、自分自身の経験を生かした上でなにかを決断した時、『お前は、間違っている。そのような決断をすると、必ず悪いことがある。油断するな!。』という、父の声によく似た厳しい反論が頭に浮かびます。」

ビアンカ:「それは、どのような声ですか。」
わたし:「これが、まさしく、ここ何ヶ月か、延々と話し合った『世代間トラウマ』で話したような『何か』です。かなり屈折した父の声、・・・といった感があります。」
わたし:「まさしく、戦時中、実親から引き離されて児童疎開に送られ、厳しい軍国教育と飢えで子供時代を略奪され、すっかり曲がってしまった父の声です。つまり、誰も許さない、許しとは甘えで、『恥』だと叫んでいるような声です。そして、油断すると全てを失う、絶対に他人には弱みを見せるな、とも言っています。」

ビアンカ:「いつも、厳しいのですか。その、あなたの内面の声、というのは?」
わたし:「いつも、という訳ではありません。優しい時も稀にあります。また、父の声だけではなく母の声もあります。実際、いろいろな声がまじりあっている、と感じます。」

ここまでセラピストと対話をしてみて、これが自分なりの『世代間トラウマ』についての結論の一部のような気がしてきた。延々と何ヶ月も、この件について語った末に、やっと、客観的にこの「頭に浮かんでくる両親の声」が認識できるようになった。以前は、当たり前すぎて、自分の思考の一部だと感じていた。実は、これらは明らかに「外部からの声」だった。

ビアンカ:「では、そのあなたの頭の中に浮かぶ色々な声を明確に視覚化していきましょう。どのような人たちですか。」
わたし:「どのような人たちでもいいのでしょうか? 漫画にでてくるようなコミカルな人たち、でも?」
ビアンカ:「映画や漫画を使うのはいい考えかもしれません。キャラクターと顔が浮かぶのですから。その声と対話ができるかもしれませんね。」
わたし:「だとしたら、キャラクターは、軍国時代の軍人ですね。父は、軍人を養育するための国民学校児童疎開で過酷な訓練をうけています。10代のはじめに、特攻隊に憧れていたとも聞いています。・・・信じられませんが。」

ここで、前回のセラピーセッションは終わった。

まず、真っ先に頭に浮かんだのが、故坂本龍一主演の異色映画「戦場のメリークリスマス」。まさしく、軍人しかでてこない映画、だった。しかし、この映画の中には、本当に多様な声がある。お互いに対極的な声もあるので、私の内面にそっくりだ・・・。

ビジュアル系のデビッド・ボウイと坂本龍一、この二人のインパクトがとても強い。しかし、私はビートたけし(北野武)とトム・コンティの演じるキャラクターの方が印象に残った。この二人の対話脚本が素晴らしい。

このポストは、この映画自体のあらすじに関するものではなく、キャラクター設定とセリフ、つまりはに関する印象に焦点をあてるもの。これを、私の中にある「両親の声」と照らしあわせてみたい。私の頭の中では、未だ、軍国時代に育った父の厳しい声がパワフルだった。これに対して反論、または中和するために、何かしらの「顔」が必要だった。この「声」は、どんなひとたちを発祥とし、未だ私の頭の中に響いているのだろうか。

下に、この映画からの、二つの対話を貼っておく。私たちの世代からみれば、不条理ともいえる倫理に、顔のあるキャラクター設定によりきちんと反論が提供されている。これは、私にとっては救い。私の中で、戦後ほぼ80年も経った今、まだ父経由で響いているこれらの厳しい声は、実は断固としたものではない。対話によって、変えることができる。否定できるものだ。これは救いかもしれない。・・・そう思った。

対話1:
ハラ軍曹(北野武):「日本軍人は敵に助けを求めたりしない。お前ら(俘虜)は兵士じゃない、恥を知れ。・・・お前はなぜ死なないんだ? 俺はお前が死ねば、もっと好きになったのに。お前ほど(立派な)将校が、自決せずになぜ恥に耐えるのだ。」
ロレンス中佐(トム・コンティ):「われわれは恥とは呼ばない。俘虜になるのも時の運だ。われわれも俘虜になったのを喜んでいるわけではない。あなたとまた戦いたいし、最後には勝ちたい。」

別シーンで>
対話2:

ヨノイ大尉(坂本龍一):「たとえおまえのしわざでなくとも、誰かを罰せねばならん。」
ロレンス中佐:「なぜだ?事件が未解決のままで真犯人が罰せられなくとも、無実の男を罰するというのか?」
ヨノイ大尉:「そうだ。」
ロレンス:誰かを罰する必要があるから私に死ねと言うのか。死ぬのは誰でもいいのか?」
ヨノイ大尉:「その通りだ。」

別シーンで>
対話2についての名セリフ:
ロレンス中佐:「あなたは、自分を正しいと思った者たちの犠牲者なのだ。もちろん、正しい者など存在しないというのが真実だ。」

まず、ハラ軍曹、ヨノイ大尉どちらのセリフも、私の「昭和一桁生まれ」の父の声と重なるような気がする。時代錯誤だが・・・。もちろん、この映画のような極端なシナリオではないが。しかし、すべてが「しなくてはいけない」「するべき」(英語でいう should / must)、という口調。これが、まさに父の口調と全く同じだ。何もかもが、個人の決断ではなくて何かの「掟」のようなもので定められている。

その「掟」とは、人間の「羞恥心」を過度に扇動する、当時の軍国プロパガンダだったのかもしれない。軍人に「生存とは恥」とまで言わせてしまう、この得体のしれない羞恥心、これが、すべての人々の不安感をも扇動した。私たちは、生きていることが恥ずかしいのだろうか、と。

ここで、ロレンス中佐の名セリフを貼っておく:
ロレンス中佐:「あの人たち(軍国主義下の日本人)は、実はものすごく不安でたまらない。そして、個人レベルでは何もできない。」

そうだ。父も、またそうだった。私の実家では、母と私たち(子供、私と姉)は父を「内弁慶」と呼んでいた。家の中では、暴君的だったにも関わらず、家から一歩でると、すっかりと態度が変わる。本当にいつも、体面と見てくればかりを気にかけていた。よく怒りを爆発させ、そのセリフがいつも「俺に恥をかかせるな!」だった。人一倍、いや、極度に羞恥心の強い人で、そのせいか、親しい友人が一人もいなかった。

私も、この影響なのか、やはり羞恥心がとても強い。これがなければ、もっと人生を楽しめる、とわかっていてもだ。また、この羞恥心のせいで、他人との距離感がうまく調整できない。欧州に住んでいると、異文化に触れる機会が多いため、この自分の弱点が本当によくわかる。しかし、自分の意思の力だけで変わることができず、結局はプロの心理セラピーでなんとかしようということになった。これが、50代前半の私の情けない現状だった。

こういったことから、軍国主義やファシズム・プロパガンダの後世代への影響の恐ろしさをつくづく感じる。この影響からの癒しは、1・2世代だけでは無理かもしれない。前のポストで触れた、前人未踏の大戦争の規模を考えると、何かしらの悪影響が後世代に持ち越されるのは当然だろう。同じく前の戦争で、軍国主義・ファシズム統治だったドイツが、未だこの世代間トラウマにおける心理研究と治療に投資し続けていることもよく理解できる。

最後に、ハラ軍曹(ビートたけし)ロレンス中佐(トム・コンティ)の名対話・・・。
ハラ軍曹(ビートたけし):「ろーれんすさん、ふぁーでるくりすます、ご存知かな?」
ロレンス中佐(トム・コンティ):「知っていますよ。ハラさん。サンタクロースのことですね。」
ハラ軍曹:「そう、今夜、今夜、ワタシ、ふぁーでるくりすます。ワタシ、ふぁーでるくりすます。」

これは泥酔したハラ軍曹がふたりの捕虜を釈放した時の会話。本当に嬉しそうな顔だった。

そうだ、私たちは、あの声を止めることもできるのだ、と思った。もちろん、泥酔せずに。これをセラピーで続けていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?