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世代間トラウマと親の愛情とは?

しばらくブログを書く暇が全くなかった。

心理セラピーも停滞中だ。年末から3月末にかかって、風邪、インフルエンザ、コロナと連続で私と家族ともども、ほとんど「交代」で感染し続けた。人間は、体調が悪くなると、機嫌も気分も、何もかもが否定的になる。そんな中、不機嫌ながらもセラピーは続けた。

去年の10月頃以降から世代間トラウマの家族調査をセラピストと一緒に行っている(世代間トラウマについての過去のポストはここ)。現時点の結論では、私の両親、祖父母たちのほとんどが前戦争の影響で、ひどい惨状を経験していたことが分かってきた。そして、私の両親は、どちらも幼年時代に、その戦争経験によってかなり深いトラウマを負ってしまっていた。心理学的に観ると、今や老いてしまった両親の性格や行動パターンは、本人たちから積極的に変えていこうと努力しない限りは、変わることは絶対にない。これらの事実を、機嫌と体調のどちらも悪い時期、しかも真冬にズルズルと調べていたので、「これはだめだ」と決定的に絶望を感じた。「こんなことが、こんな近い身内で起こっていたのか・・・、これでは、私の家族内で幸せになれる人が一人もいないのは当たり前だ」と思ったのだった。

また、去年10月の同時期に「世代間トラウマ・ワークブック」なるものを購入していた。これを片手に、セラピストと一緒に家族調査し、ワークブックにジャーナルを記入していくはずだった。しかし、調査中にすでにかなりの衝撃と混乱があったため、はじめの10ページほどだけ記入してあとは白紙状態だ。どこで、ジャーナルが止まっているかとチェックした。そこには、以下の質問があった(英語からの翻訳)。

「あなたの家族の歴史を調べてみて、客観的に何がわかりましたか。あなたの家族の愛情については何を学びましたか。また、あなたは家族から、どのような世代間トラウマを受け継いでしまったのでしょうか。」

私は、これを読んで、ふとおもいだした。11月か12月頃に、この質問を読んで不快感を感じたことだ。「家族の愛情」?(原文は単純に「ファミリー・ラブ」と書いてある)、なんだろう、この「くさい」表現は?と私は何となく憤慨したのだった。この表現は、私にとってしっくりこなかった。それどころか、腹立たしく感じて、何も書かないことにしてしまった。そこで、ジャーナルは止まっていた。

時期が変わって、1月頃に、勤務先の人間関係で悩んだため「パーソナル・コーチ」なるものをHR部から手配することにした。背景としては、勤務先のテック系企業のHR部で、従業員向けに、しがらみの全くない外部からのコーチを「悩みの種類」によって選択して手配することができるからだった。これは、セラピーとは別物なのだが、たまたま選択したコーチがまたもや「トラウマ」専科の方だった。これは、未だに偶然とはとても思えない。

このコーチ、カティアという同年代(50代前半)のドイツ人女性で、とてもハキハキとしている。「職場の問題、個人の問題、と切り分けて別物のようには取り扱えないわよ。実際、人間関係とは全てあなたの幼年期の問題みたいなもの。全ては、幼い頃のあなたと両親との関係の影響でしょう。」ときっぱりと言われた。同感だった。

彼女は、1990年に解体したあの「東ドイツ」(社会主義国・ドイツ民主共和国)生まれだという。幼い頃に、母からひき離されて国の管理する保育園で1歳未満の頃から育てられたらしい。「生まれた直後に、生みの親から引き離されたという大きなトラウマに対して、今でも、悪影響されないように絶え間ない努力を続けているの。いつもトラウマ関連のワークショップに積極的に参加してる。」この東ドイツの政策に対して知識のまったくなかった私は、びっくりした。「え?子供を取り上げるの?東ドイツはどうしてそんなことを・・・」唖然となった。彼女いわく、「社会主義の国では、子供は親のものではなくて、国のものだと思われていた。だから、国の所有物のように扱われたのよ。」

「その当時は、当たり前だったの。母親もすぐに職場に戻れるし、まさに、国が全てを引き受けてくれるという政策。当時では、これは東ドイツ国家からの国民に対する愛情のようなものだったわけ。『あなたの子供まできちんと幼年から面倒をみてくれる』とか・・・。まあ、今考えると、全てが間違ってたわね。」

なるほど。時代錯誤な「押し付け愛情」による政策、といったところか。しかしながら、その間違った、いわば「愛情方針」、そのせいで彼女は一生苦しんだという。

しかし、彼女はその苦しみに対して、しっかりと前向きに対応して、立ち直っているようだ。ひとつ言えることは、この間違った愛情方針は、解体してしまった東ドイツという「今はなき大失敗の亡国」によるものだった、と明確である点だ。この事実がはっきりしているため、カティアは自ら選んだ行動をとることができ、その今や亡国の「間違った方針」に影響されないように対応ができる。歴史的にみても、本当に「消えてしまった国」の政策だったので、自己で心理的な処理をしないと、もはや誰も何もできないと明らかだったためだ。「自分の育った国が消えてしまった。シューリアルなこと。でも、その亡国の間違った方針や、教育のせいで後々さんざん苦労した。」と言っていた。しかし、仮に、これが単に両親や親、家族による個人的方針による決断だったとしたらどうだろう。そうであった場合、トラウマの原因は曖昧なままだろう。そして、もっと曖昧な困りモノは、「親の愛情」による個人的方針による失敗だ。この押し付けがましい「愛情」という名目があるため、さらに厄介である。そこで、ハッとなった。

この質問である:「あなたの家族の歴史を調べてみて、客観的に何がわかりましたか。あなたの家族の愛情については何を学びましたか。また、あなたは家族から、どのような世代間トラウマを受け継いでしまったのでしょうか。」

東ドイツのアナロジーは非常にしっくりくる。これによって、やっと「愛(ラブ)」という言葉にまつわる「くさみ」がなくなった。戦後の混乱から生まれた社会主義国家が、前戦争で苦しんだ「国民のため、万人のため」に、本当の愛情、もしくはそれに近い善の心をもって施された政策も多かったのではないか。ただ、それはうまくいかなかった。このような失敗が、戦後、個人レベルでも多くあったとしてもおかしくない(同じく敗戦国である日本でも・・・)。その一つが、戦争で幼年期にトラウマを負った私の両親の仕切るマイクロ組織、つまりは「私の家族」というプロジェクトだったのかもしれない。だとしたら、両親の愛情方針、または愛情による政策とは何だったのだろう。

また、この英語でいう「愛情、ラブ」とは日本人にはしっくりこない。日本人にとって、「愛」という言葉は、日常からかけ離れた大きな言葉だからだ。これをもっとわかりやすく訳すと、「子供のためを思ってしたこと、教えたこと」といったところではないだろうか。

戦時中に育った親、さんざんと幼年時代から苦労ばかりだった親たちからみて、本当に「子供のため」に伝えたいことは何だったのだろう。私の父は、昭和一桁生まれで、戦時中に親から引き離され児童疎開に送られて、ひどい飢餓と貧困の極限状態下で過酷な軍国教育を体験している。戦後直後は、11歳であった。小学校時代(6歳以降)のほとんどがこの人にとっては戦争体験だった。幼い頃から絵がうまく、芸術家的なところもあり、戦後は名門芸大に奨学金獲得とともに受かった。しかし、戦後の厳しい時代に、芸術などでは食べていけないと腹をくくり、芸大入学を辞退し、代わりに近所にあった病院に勤めた。ここで働きながら放射線に関する勉強をした。結婚も遅く、30歳後半になって母とドタンバ見合い結婚をしている。

小さい頃から、父から聞いたことは全てが厳しく、シビアな発言だった。

「油断は絶対するな、油断をすると失敗する、また油断をしようとした時点ですでに何か悪いことがおこる」、「世の中とは恐ろしいところである」、「常に努力して怠けるな、人生とは楽しむものではない、サバイバルである」、「人を信用するな、自分が傷つく」、「警戒、努力、忍耐、いつも何か悪いことがあると思って生きろ」。「いつかまた飢餓の時代が絶対に日本に来る」など、「恐怖」と「警戒」に関する発言ばかりだった。しかも、子供の頃、テレビでコメディーを見ることは全て禁止されていた。「くだらなくて、バカな人間になる」からである。楽しむということは「くだらない」ことだと言われた。そして、私が自ら、父の勧める理系ではなく、芸術系の進路を選ぼうとした時に、怒りを爆発してそれを阻害したのも父だった。

こうやって書いてみると、「恐怖」と「警戒」にまつわる価値観は父の極限状態での軍国教育から学んだ、生き残るためのノウハウだと明らかに理解できる。全く、上記の前後関係を背景に読むと当たり前すぎるほど当たり前の考察である。こうやって書いてみるまで、肉親同士だと、当たり前のこともわからないものだと唖然となった。また、幼年時代からの経験なので、このような因果関係というのは、セラピーを受けて全体像を客観視できるまでは、はっきりと見えないシロモノなのだとため息がでた。

私の父親の躾け方針、古い価値観と、旧東ドイツの時代錯誤で押し付けがましい政策は全くの紙一重だと感じる。いや、父の方がまだタチが悪い。というのは、このような価値観を、戦後何十年も経過した民主主義で平和な日本で、毎日のように押し付けられたからだ。

母に関しては、全く逆で、すべて自己犠牲的であった。彼女に言わせると、なにもかもが「申し訳ない」ということだった。また、何もかも「私にできるわけがない、あなた(子供たち)に出来るわけがない!」という否定的発言だった。人生に期待などするべきではない、謙虚に生きて、何も求めずに生きるのがベスト、という自己肯定感のほとんど欠陥したメッセージだった。しかし、これが私たちを危険から「守る」ものだといつも言われた。これが母親からの私たちに対する愛情の教えだった。

母に関してのトラウマは、かなりシビアであった。詳細は控えるが、母は戦後直後に幼い生まれたばかりの弟をなくしている。この事実について、母は子供たちの誰にも語っていない。しかし、この事実を知ってから、それによって母の言動全てが説明できた。なぜ母があのように自己犠牲的であったのか、ということだ。幼い弟をなくした時、まだ、母自身も幼かった。幼い子供というのは、悪いことが何か周りで起こると、反射的にそれは全て自分のせいだと思ってしまうらしい。喪に服す両親の有様、その後病気で若くして世を去ってしまった祖父母たち。背後関係を考えると、なぜ母があのように自己肯定感のないまま大人になってしまったのかも理解できる。本当に、他の家族に対して「申し訳なかった」のだ。しかも、失った弟に関しては、「自分が代わりになれたかもしれない」、のに・・である。祖父母が若くして他界した後、母はまだ若かった弟と妹のめんどうをみる羽目になった。それからは、ずっと、家族のために自己犠牲をすることだけに生きがいを感じる人となった。

5ヶ月経過した後、はじめて下の質問のジャーナルにいくつか記載することができた。

「あなたの家族の歴史を調べてみて、客観的に何がわかりましたか。あなたの家族の愛情については何を学びましたか。また、あなたは家族から、どのような世代間トラウマを受け継いでしまったのでしょうか。」

答え:
客観的に分かったことは、私の両親は戦争でダメージを受けた人たちだった。それによって、健康的な成長を妨げられた人たちだった。そして、自分自身のやりたいことや夢を犠牲にした。そうやって、なんとか生き延びてきた・・・、世の中は楽しいところでは断じてない、どちらかというと恐ろしい場所だ。

そのような両親にとって、子供のために一番大切なのは「生き延びる」術を教えること。それは、自分たちのしたような努力をすること。これを教えることが愛情である。私の学んだことを子供に教え、同じように生き延びて欲しい。私のように苦労して学ぶのではなく、私から、子供らが傷つく前に教えたい。

ここまで書いてみて、疲労を感じた。これが、両親の愛情だったのだろう。

まさしく「東ドイツ」ではないか。

時代、が間違っているのである。彼らのトラウマは戦時中からのものだ。そして、まだ癒されて立ち直っていなかったのだ。彼らの愛情は、過去であれば間違っていなかった。私たちがまだ戦時中に生きていれば、の話である。両親はいつも過去に生きていた。これによって、私たちまで、彼らのトラウマの源である古い価値観を受け継いでしまった。

時代錯誤の価値観、それはファシズム戦争時代の価値観、人を信用しないことで生き延びる術を身につけること・・・。人生を楽しむことではなく、人生に「余裕」などないのだと常に警戒し、常時ストレスとともに生きること。

このような価値観を本当にトラウマとともに受け継いでしまった。これは、今の社会では、私の役に立つものではほとんどなくて、どちらかというと私に弊害を与えるものだった。私は、リラックスすることができない人間になってしまった。ちょっと何かいいことがあっても、「安心すると、何か悪いことがある」と警戒したり、欧米人のように休暇を心から楽しむことが未だにできない。仕事においては、ストレスがないと、いい仕事をしていると思えなかったりする。これは、明らかな心の病だ。

さらに、深く考えた。では、「父親のしなかったこと」について・・・、つまりは、芸大に行かなかったこと。家族のために自分の夢を諦めたこと。また、母についてはどうだろうか。姉が15年くらい前にぼやいたことがあった。「あの母親が、友達とケーキを食べたり、旅行に行ったりして楽しんだりすること、考えられる?」考えてみたいものだ、と、姉と同意した。「親がしなかったこと」の方が、私たちの世代にとっては素晴らしいことのように思える。父親が「自己犠牲」をし、芸大を却下して病院で働いたこと。一生、愚痴ばかり言って生きてきたこと。それによって、私たち(子供)にどう生きて欲しいと思っているのか? 本当に、今の時代に自分のトラウマにまつわる古い価値観で生きて欲しいと思っているのか?

私の父親の声は、私の頭の中に生きている。受け入れがたいが、それは本当だ。ここまで書いてみて、「なんという発言をする子供なのか、お前は!」と怒りの声が聞こえてきたからだ。「そんな甘ったれた発言をすると、何か悪いことがある!世の中とは恐ろしいところだ!」。

これがわかったところで、私自身がすぐに変われる、とは言い難い。何と言っても、幼年からの「刷り込み」である。

よく考えてみる。

では、この辺で。



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