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【農と哲学の学校ツアー:前編】若者が年間100人通う町「おぐに」

2月8日~2月11日、日本に大寒波が襲った3連休、私は友人のチハルに誘われ、あるツアーで山形県小国町を訪れました。

このツアーの主催は「日本食べるタイムス(通称:食べタイ)」という「農家や漁師さんなど、生産者の声を届けるメディア」の団体で、チハルはここに所属していました。食べタイは、私が大学で受講している「たくましい知性を鍛える(通称:大隈塾)」という授業とコラボしたプロジェクトを持っており、その縁でもともと知っていました。

Q.「食べタイ」ってどんなメディア? 
 A. NIPPON TABERU TIMESは、日本初「農家漁師の生の声を発信するメディア」です。
記事のほとんどは農家・漁師がライターとなって書いたものです。
ここでは普段なかなか触れることのない「生産現場の生の声」を読むことができます。
日々自然と向き合っている農家・漁師さんだからこそ知る、生産現場の「発見」「ワクワク」「学び」を伝えます。

(ホームページより抜粋)

もともと「食べタイ」の活動に興味を持っていたことと、チハルから「なのちゃんと哲学トークしたい!一緒に行こう!」と誘ってもらったことをきっかけに、内心「2月の小国町って尋常じゃないくらい雪降ってるんでしょう…?」と不安に思いながら、笑顔で「誘ってくれてありがとう!一緒に行こう!」とお返事しました(笑)

※そんなチハルは直前に行われていた別のイベントで苺を売ることに精を出しすぎて、インフルエンザにかかり参加できず。お疲れ様でした、今度いっぱい話そうね。私も苺食べたい!!

『白い森』 山形県小国町

案の定の大雪、いや、想像よりもはるかに多く雪が降り積もっていました。現・食べタイ代表のモリケンさんとの待ち合わせ場所、赤湯駅に着いたときには雪がしんしんと降っていました。

モリケンさんと合流し、赤湯駅でレンタカーを借り、小国町へ向かいました。モリケンさんは、小国町に通う若者の一人。ドライブの途中、彼は「小国はね、自分の地元よりも知り合いのいる場所なんだ!」と話してくれました。

東京からだと、行くのにお金も時間もかかるこの土地で、一体彼はなぜこの町に通うのか。最初は不思議で堪らなかった私も、3日間の滞在でこれから、少しずつ「白い森小国」の魅力を感じることになるのです。

そしてこのツアーを通して「たくましい知性」とは一体何なのか、問い直すことになるのです。

<本題>今回のツアータイトル「農と哲学の学校ツアー:基督教独立学園へ行こう」

今回のツアーの一番の目的は、「基督教独立学園」に行くことです。この独立学園は全寮制私立高校で、生徒と先生が共同生活をし、米作りや畜産等も生活の中で行う学校です。ツアーの日程はざっくりこんな感じ。

学園に到着してまず、学園の教頭・後藤先生から独立学園についてお話を伺いました。(生徒たちから「ごっちゃん」の愛称で親しまれる後藤先生は、学園で英語と聖書の授業を持っているそう。)

▶︎独立学園の簡単な創立エピソード

独立学園は内村鑑三の弟子、鈴木弼美(すずき すけよし)によって1934年に建てられました。1924年、晩年内村が床に伏していたときに「僕は以前(アメリカにいた頃)から行きたいと思っていたところがある。それは、山形県の山奥の、小国村というところで、とうとう今日まで行けなかった。〜諸君のうちにこれらの地方に行って伝道してくれる人はいないか」という呼びかけをしたことをきっかけに、その呼びかけに応える形で、鈴木、政池仁、横山義之らが毎年のように小国に夏の訪問伝道に出かけるようになりました。そして、彼らの活動報告を聞いて内村は喜び「誰か立ってこの村に永住して伝道する人はなきか」と言いました。それを受けて、鈴木が学園を建立したのです。

私はこの簡単な学園史を聞いて、"当時の"永住して伝道するという言葉の重みを想像しました。鈴木弼美は文字通り自分の生まれ故郷を捨てて、この土地で使命を全うする覚悟を持って、学園を建てたのでしょう。今日と違って日本中に新幹線の線路が張り巡らされているわけでもなく、今でさえ訪れるのには時間のかかる小国という場所、ここで死ぬ覚悟を持つこと。それはなんて強い意思なのでしょうか。

後藤先生が用意してくださった「学園について」の紙には、こう書かれていました。

①学園の目的
「神によって作られた人格」の尊重を自覚せしめ、天賦(てんぷ)の個性を発展させ、神を畏れるキリスト教的独立人を養成する。 

②大切にしていること
内村鑑三の
「読むべきものは聖書である
学ぶべきものは天然である
為すべきことは労働である」

③一言で言えば
「聖書と自然と労働をとおして人間教育と、真理としてのキリスト教伝道を目指す」

④基本方針
1.「少人数教育」
2.学園の運営を、職員と生徒が協力して行う
  営繕 除雪 自動車管理 医療部・・・
3.あえて「不便な環境」を保持する
  TVや携帯電話・スマートフォンのない共同生活環境
  手洗い洗濯 除雪機 農耕器具 

(後藤先生の「基督教独立学園高等学校紹介」より)

「あえて『不便な環境を保持する』…?都会暮らしで一人っ子、インターネット・ゲーム大好きっ子だった私には堪え難そうダァ…」

それが私の率直な感想でした。

▶︎学園生の日常

※学園生の顔が大きく写っている写真をなるべく挿入しないようにしています。

1、学園の部活動

学園紹介の冊子のページをめくると、学園生の生活について書かれています。学園生の1日のタイムテーブルはこんな感じ。

日々午前6時起床とか、大学生にとっては「どっひゃー!」って感じです。でもまず、健康的な生活を送れることに間違いない。

独立学園の部活動は少し変わっていて、生産活動系というカテゴリーがあります。園芸部、鹸化部(廃油からの石鹸作り)、米部、趣味パン部、食品加工部、製パン部、大豆部、畜産部など。

後藤先生が、部活動の中でも一番人気は「畜産部」だと教えてくれました

※写真がなかったので「くまぶ〜プロジェクト」の豚ちゃんを。

畜産部は通常の学園生起床時間の午前6時より1時間早く、毎朝5時に起きて、朝作業する決まりになっています。夏のうだるような暑い日も、冬の息をも凍る寒さの日も、朝5時起床です。

皆さんは畜産と聞いてどのようなイメージを抱くでしょうか。少なくとも私が生きてきた中では、家畜と触れ合うことは「臭そうで、汚そうで、面倒なこと」という印象です。その畜産という行いが、一番人気で、体験入学しにくる中学生や、入学したての1年生にとって魅力的な部活なのです。

一体何故なのでしょうか?

理由は、彼らが部活動を楽しそうにやっているから。それに尽きるのです。

人が「臭そうで、汚そうで、面倒だ」と評価することを、学園生たちが心から楽しそうに、むしろやり甲斐を感じて、活動の意味を理解して、生き生きとやっているから、学園に入学する1年生が「私もやってみたい!」「楽しそう!」と思わされるのでしょう。

実際、牛や豚、にわとりなど、あらゆる家畜動物と触れ、生まれる瞬間から食べ物になるまでを世話することは、彼らにとって測り知れない学びになっているのだと思います。目の前の「命」と向き合うこと、それを高校生という時期にできることに、大きな恵みを感じました。

2、除雪ボランティア

ツアー参加者と、地元の人と、任意参加の学園生で除雪ボランティアをしました。多いときは積雪3mともなる小国町。もちろん町で多額の資金を投じて除雪をしていますが、玄関や家の屋根など、除雪機の入れないところもあります。若者のいる家庭では自力で除雪が可能ですが、高齢者や身体の不自由な人たちはそれができません。そのために、町の人たちがボランティアとして活動しています。

集まったボランティアは大体20名くらい。そこから4班に分かれて各家庭に訪問し、除雪をしました。私の班は大隈塾の先生むらさん、小国への移住を考えているご家庭、学園生の女の子2人というメンバーでした。

※小国では移住検討者に向けて、この除雪ボランティアのように地域の人と触れ合うことのできるような機会を設けています。

自分の背丈よりも、うんと高く降り積もった雪をガシガシ下ろしていき、その雪を避けていく。下の方の雪は凍って固く、水の含んだ雪はどっしり重い。普段、フライパンよりも重いものを持たない私には、ものっすごい重労働。それを慣れたようにこなす女の子2人の学園生を見て「たくましいなぁ…」と言葉が溢れてきました。他のどの言葉でもなく「たくましい」という単語が。

そのとき、ふと思ったのです。

あれ…「たくましい知性を鍛える」という授業をとっている私。授業で繰り返し「たくましいとは何か?」を問うてきたけれど、机上の思考の中で、彼女たちのような「たくましい」を想像できていたのかな…?

3、インターネットから隔絶された生活

除雪ボランティアを終えて、参加者の人たちが町の休憩室に集まり、暖をとっていました。その時間から学園生とたくさんお話することができました。除雪後で少々疲労気味な、眠気を帯びるような状態で、ゆったりと時間を過ごしました。

私は最初から、この学園の話を聞いたとき「いまどき、高校生にインターネットから隔絶した生活を送らせるなんて、なんて勿体無いことを…」と思っていました。

私は小学校へ上がる頃に父の指導のもと、遠く離れて暮らす祖父母に私の近況を伝えるために、クローズドなブログを書いていたことがありました。携帯を持たされたのも早かったし、iPhone3Gを小5で持っていました。ずっと私の遊び道具は任天堂DSで、当時流行っていた「うごくメモ帳」に創作小説を出してちょっと人気者になったりもしていました。

だからずっと「インターネット」や「ゲーム」の類いが好きでした。今私が情報通信学科に通っているのも、間違いなくこのような過去が影響しています。自ずと私の周りには「インターネットに救われた人」が多いし、上手に使って「自分の可能性を広げている人」が多い。

だからこそ、学園生がインターネットを使えないなんて「勿体ない」と素直に思っていました。

そんな風に思っていた私に、一人の学園生が「これが私のスマホなんです!」と言われたときの衝撃ったら…

休憩室で仲良くなったMちゃんに、Mちゃんのスマホを見せてもらいました。Mちゃんのスマホはノートの形をしていました。月のカレンダーを自分で線を引いて使い、思い留まった言葉をメモしていました。後ろの方には日記のような文章が書かれていたり、英語の歌の歌詞を自分で日本語訳している途中のものが書かれていたり、ときには可愛らしいイラストがあったり。

彼女の欲しいスマホの中に「他者と繋がる」要素はありませんでした。その代わり「自分と繋がる」要素はたくさん詰まっていたように思えます。最近「自分と繋がれる」ことの価値を、重々感じていたので、「勿体ない」気持ちはそのままだったけれど「繋がれないスマホ」を持つ彼女が少し羨ましく思いました。

4、自由な時間の使い方

ある男子の学園生がこう言っていました。

「スマホが使えないことは、自分にとっては良いことなんです。学園にいると嫌なこと、モヤモヤすること、苦しいことが簡単には解消できない。家にいたら、スマホでゲームをやったりSNSをしていれば、すぐに気を紛らわせることができたかもしれない。だけど、学園にはそれがないから、いやでも自分の感情に向き合わざるを得ないんです。でも、それが良いんだと思います。

すぐには解消できないモヤモヤとした気持ちを抱えて、ときには信頼する友人に話して、ときには夜の山道を歩いて、ときには空と対話しながら、湧き上がる感情と向き合うのだそうです。

学園生が良い意味で暇になるとき、小さな図書室で本を読む人が多いそうです。学園の卒業生の方にお話を伺ったとき「僕は哲学の棚の端から端まで、全部読んだよ」と言っていました。

学園生と触れ合う中で、終始彼らの思慮の深さ、知識の量、視座の高さに驚かされました。私は、知識も知性も彼らに敵わないように思えました。この彼らの思考力の高さは、自然に、動物に、本に、友人たちに、養われているんだと確信しました。

5、学園生の表現

学園生に対して「たくましい」と思わされたのは、彼らの表現力の幅広さにもありました。彼らの生活ぶりを聞いていると「人は受動的な娯楽がなくなると、自ずと創造的な喜びに向かう」のかもしれないと思わされました。

日々培った思想や想いを、言葉にし、音楽にのせ、絵を描き、写真を撮る。ある子は文章を書くことが好きで、自分の哲学を文にしていると教えてくれました。ある子は「将来、障がいのある人にスポットを当てたドキュメンタリーを撮りたいんだ」と言って、GoProを見せてくれました。

卒業生の1人で仲良くなった写真に映る彼は「編み物」という表現を持っていました。彼には一本の糸から生み出されるセーターの尊さを教えてもらいました。裁断されたら繋がることのない布と違って、解れても何度だって修復することのできる編み物を「人の繋がりのようだ」と例える彼の美しさを感じました。

私は学園生に、表現にはいろんな形があるということを、再認識させてもらいました。表現方法は人それぞれでいくらでもあることくらい、言葉の上では私だってわかっていたはずです。だけど、大学で「レポート」や「プレゼンテーション」のような表し方を求められたり、私を含む周りの学生たちがまず真っ先にやることがブログを書くというような言語化することに偏っていたので、そればっかりが表現だと思っていました。

この世界はもっと豊かな表現に溢れていて、音楽や、絵や、工作や、料理なども表現方法であったこと、それを思い出させてくれました。

羨ましいのは、学園生の誰もがこの表現という武器を3つ4つ持っていることです。

私は…せいぜい1つ2つでしょうか。

▶︎学園生と触れ合って

日頃から高校生、高専生と関わることの多い私が、学園生をパッと見て思ったことは「見た目の幼さ」でした。高校生にもなると着飾って、大人と見間違える姿をしていることが少なくありません。特に女の子は。

しかし、彼らと話していて思うのは、中身の純真さでした。そして思慮の深さでした。彼らはインターネット環境による、溢れんばかりの情報に触れていない分「情報処理能力」や「検索力」において、普通の高校生より劣っているかもしれません。

しかし、圧倒的「思考力」「深掘りする力」「問いを立てる力」があるように思えました。それは一般的な大学生のレベルを軽く凌駕していると感じます。

これらのことを思って思い出した聖句があります。

"いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。"(マタイ10:16)

私は、彼らが「蛇(聖書の中ではよく、悪魔の例えとして用いられる)のように賢く、鳩のように純真な心を持ち合わせる」と感じました。

▶︎後編に続く

独立学園で感じたことが多すぎる上に、言葉にするのが難しくて、時間がかかっています。前編はここまでにしておいて、少し休憩しようと思います。

▶︎「契約の書」を交わすこと
▶︎規則を破ること
▶︎先生と学園生の関係
▶︎「たくましい知性」とは何なのか
▶︎学園に対して思った、個人的な「惜しい」ところ
▶︎最後に小国について

え、私、こんなに書いておいて、まだこんなに書きたいことあるの??
えっ!?厳しくない!?!?

書けるかな…

書こう。忘れっぽい私の、記憶のあるうちに。

▶︎大してまとめていませんがモーメントあります

▶︎我がスポンサー父へ

繋がらなくても暮らせる場所で、こんな感じなこと学んでます。フワッフワで「まあいけるっしょ!」なノリの私に「雪国舐めんなよ???」と暖かいダウンを貸しくれてありがとう。

スペシャルサンクス!

▶︎後編公開しました(2019/3/11)





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