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アンチテーゼ

あさはかでうすいシリーズの新作。
あさはかでうすい→トワイライト→深淵→アンチテーゼの順で、ぜひほかも読んでいただけると嬉しいです。


反吐が出る季節だ。突き刺すようだった風はいくらか甘くなって、酒が入った男女から流れ出てくる性欲みたいで吸い込みたくない。人通りが多くなった。人間も冬眠するらしい。黒革のショートパンツから覗く、細く白い太もも。明るい巻き髪、化粧。春の匂いと人間の匂いが混ざった空気を吸い込むと、肺がすぐに黒く染まった。タバコよりもはるかに即効で強力。雲一つない青空に頭上を支配され、厚着をせずとも外出できるようになった温度に体を包まれると、人間の営みを強要されているようで、そのお節介さはあまりにうざすぎるから殺してしまいたい。
 春は好きだった。一番好きな季節と聞かれたら、間違いなく春と答えていた。嫌いになったのは、大学に入ってからだった。大学生活に対する嫌悪感を想起させるものになったからだ。入学式でできた友達に誘われてデルタの桜の下のお花見新歓に行ったこと、タダ飯が食べたくて興味ないサークルの鍋パに参加したこと、どこに行っても男女の空気や女同士の査定する空気が付き纏うのが気持ち悪くて、居場所を作ることが億劫になったことが、昨日のことのように思い出せる。ゴールデンウィークが終わって新歓が落ち着いたころには、私はひとりで大講義室の前方に座り、授業を受けていた。五限終わりに友達とデルタの石段を渡って帰ることを、夏の夜に線香花火で競うことを、雪の日に巨大雪だるまを作ることを、そういったことを意識せずに行うことを、この時にはもう、できない運命になっていた。
 大学生が嫌いだ。勉強は全くしなくなって、思考力も集中力も微塵もなくなって、大量の時間は恋愛やバイトに費やし脳死の日々を過ごし、成人してもなお親の脛を齧る哀れなモンスター。どの口から発される話題やワードチョイスは同じ。友達が入るから入ったサークルでいつの間にかできたグループでとりあえず旅行に行ってInstagramに載せる。これといった趣味がないから雑にバイトをぶち込んで時間と引き換えになけなしの金を手に入れる。あとは女のことは女としか考えられないような雄どもと、なんだかんだ言って男が好きな雌どもが死ぬほど薄い会話を広げながら、隙間の人生を埋めている。自分を特別だと思い込む。空っぽな脳みそで、考えているふりをして、理想の自己像に浸っている。講義もろくに聞けない、全く思考できなくなった頭で考えられることなど、セックスの時の光景を思い出すことで精一杯だ。客観的なお前とあまりに乖離した、何か深いことを思考していて、価値観を形成していると思うその傲慢さも、あまりに馬鹿すぎて救いようがない。
 1回生の夏、第二言語でたまたま隣になって話すようになった女の子と、はじめて河原町で遊んだ。木屋町の串カツだるまで夜ご飯を食べ、四条大橋のマクドに移動した。バイト先に気になる先輩がいるらしかった。何一つ頭に留まらず、帰りたい気持ちしかわいてこなかった。この時間にも私は課題ができるし、本が読めるし、文章が書ける。
「澪はどうなの?」
いきなり返されてドキッとする。私にとって、自分の心を晒すことほど怖いものがなかった。私は人のことを見下してるくせに、いや、見下さないとコミュニケーションが取れないくらいに自分に自信がなくて、何か間違ったこと、理解されないことを言ってしまって失望されないかを常に恐怖していた。相手の腕がにゅっと伸びてきて、胸の皮膚を突き破って心臓を鷲掴みにする。冷や汗と動悸が止まらなくて、早口で答えた後に、すぐに相手にボールを返す。心臓を掴む握力が若干弱くなって、少し胸をなでおろす。息を整えながら、私にボールを返す隙を与えないように、頭をフル回転させて質問し続ける。目の前にいる人間を、私は友達と呼んでいいのだろうか。マクドを出てバスで帰るという友達を見送ってから、木屋町の駐輪場までぼんやりと歩った。やる気のないキャッチの間延びした声や酔っぱらいの喧嘩腰の怒声など、全てが遠く聞こえた。何が正解なのか言葉を探し出すのに必死だった脳はすっかり疲弊し、緊張で強張っていたからだの筋肉が温い風に吹かれて少しだけ溶けた。私は、その後の大学生活をほとんど一人で過ごした。
 人間が嫌いだ。心臓を取り出して会話しなければ意味がない。それ以外の会話や関係が反吐が出るほど気持ち悪い。おそらく何も考えてない脳みそから発される言葉がとてつもなく怖い。何も考えてないということが怖いのだ。それを批判することで自分を保つことしかできないというわけではなく、それももちろんあるが、嫌悪感も同時に存在するのだ。その嫌悪感すらも、自分を保つための防衛本能なのかもしれないが。
 外を歩く一人一人に人生があることが信じられなかった。京都が賑わう二大原因の、春の桜も秋の紅葉も見に行きたかった。しかし、人間が纏う人生というものを感じる度にダメージを食らい、人の多いシーズンは特に、外に出てからすぐにHPが0になってしまい、とても一人で出掛けられなかった。これも防衛本能からか、人が溢れる場所に行くとどうしてもすべての光景が遠くなった。はしゃぐ子供、写真を撮る女集団、くっつくカップル。全て白んでいて、画面の中のようで、瞬きしたら消えてしまうのではないかと思っていた。私は大学生が嫌いで、人間が嫌いで、街行く人が嫌いで、バイト先の客が嫌いで、鴨川等間隔のカップルが嫌いで、エスカレーターを二列になって塞ぐ女が嫌いで、でかい声で話しながら広がって歩くセンター分けの男どもが嫌いで、飲食店で騒ぐ子供を注意しない親が嫌いで、態度と口の悪いタクシーやバスの運転手が嫌いで、いつの間にか嫌いなものばかりが街に溢れていた。一人になったのは自分なのに、一人で大学生活を謳歌できない哀れな人間になった。
 私は大学生が本当に嫌いだが、なかでも特に嫌いな人種がいた。それを実感したのは、2回生の秋だった。伊丹京子。秋学期から始まるゼミの班で一度、同じになった。華やかな見た目で、どこにいても目を引いた。幼少期は海外にいて、英語と中国語を話すことができた。恵まれた容姿に家柄、環境で育ってきたのに、(そうであったからかもしれないが、)嫌味なところはなく、むしろ人当たりが良くて、班の発表にも積極的に取り組んでいた。男からも女からも好かれていた。私はとにかく、自分がどうやったら受けるかわかっている、その器用さが、とにかく嫌いだった。キャバ嬢と同じ類だと思っている。搾取しているのは金ではなくて人望。本心にもないことを程よく混ぜて話す、整った白い歯がのぞく笑顔に、寒気がした。
 班で成績の話になったときに知ったが、彼女のGPAは私より高かった。そのときは沸々と血が煮え滾って、頭に上っていくのを感じた。単なる嫉妬だとわかっていたけれど、それでも怒りを抑えられなかった。京子が私より賢いとは思えなかった。先輩や友達のコネ、内部進学かつ大きなサークルに入っていた彼女には確実にそれがあった。そうだ、大学ってこういう場所だった、上手く利用できる奴がのし上がっていくんだった。サークルに入って飲み会をして、同期と旅行をして、中身のない会話をして、それが社会性であって、それが評価される場が大学だとしたら、私には限りなくゼロで、間違いなく落単だった。
 私は今、四条大橋のドトールの三階から、地上の行き交う人々を眺めている。これらひとつひとつに人生があるということが、未だに信じられない。選択や生き方のうまさは生まれ持った環境や容姿に起因していて、それを自分でもわかりながら利用し、人生を歩む人がいる。薄くて浅はかであると貶すか、勝ち組であると崇拝するかは人による。私は大学でやるせない気持ちを嫌というほど経験して、今となっては折り合いがついた。しかし春は、私のやるせない気持ちを心の底から無理矢理引っ張り出してきて、後悔や未練に変えさせようとする。それを感じる度に、うららかな春の一コマの全てを、一気に壊してしまいたくなるのだ。


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