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水戸黄門はもともと超やばいヤンキーだった!?【5/13は彰考館記念日】

本日5月13日は、江戸時代である1672年に、江戸の小石川にあった水戸藩の屋敷で彰考館が開設された日です。これは藩が『大日本史』を編纂するために置いた史局です。
これを機に『大日本史』の編纂が本格化しました。

『大日本史』の生みの親・光圀

この『大日本史』の編纂事業は、ある歴史上の有名人によるものです。
その人物とは、時代劇でお馴染みの水戸黄門。徳川光圀です。
ドラマでは助さん格さんを伴って、諸国漫遊をしながら事件を収めるさまが描かれていましたが、あくまでこれはフィクションらしいです。なぜなら彼は水戸藩の第二代藩主であったため、公務で忙しくとても諸国漫遊なんてできませんでした。

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旅をしていたわけではありませんが、光圀は江戸時代を代表する名君のひとりとして賞賛されています。これは光圀が、学問を奨励して 『大日本史』の編纂を始めたことによります。また、水戸藩の藩政改革にも積極的に取り組んだことや、兄で長男の頼重がいたにもかかわらず三男の自分が藩主になったのは儒教の教えに背くとして、自分の子ではなく頼重の子を後継とするなど、とても人格者だったことが名君とされるゆえんです。

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しかし、じつはもともと超絶ワルだったことが歴史家の間では知られています。

気性が荒い札つきのワル

名言と讃えられる光圀ですが、若き日の光圀の行状は決して誉められたものではありませんでした。
温和な性格だった兄の頼重と比べて、光圀は幼い頃から気性が荒かったといわれています。たとえば、一緒に武術の稽古をしたときには、光圀があまりにしつこく食い下がり、挙句の果てに逆上した末に殺し合い寸前になってしまうほどでした。
そのため、光圀は父の頼房に脇差しを取り上げられて、丸腰で歩いていたそうです。

さらに成長すると、元来の気性の荒さに加えて、町の不良みたいな行動をとるようにもなりました。水戸藩の重臣で、光圀のお守り役だった小野角衛門は、光圀の13歳から17歳までの行状を「小野諫草」という文書に書き残しています。
そこに書かれていたのは、身なりは華美すぎて異様、挨拶の仕方や歩く姿も、蓮っ葉者、傾奇者にほかならない、という光圀の姿です。傾奇者とは、戦国時代に登場した、常識外れを好む派手な連中のことです。旗本衆もこんな光圀を見ては「(光圀は)言語道断の傾奇者で、あの体たらくでは、行く末も……」という噂を立てるほどでした。

しかもそれだけではありません。光圀は庶民に対しての態度も最悪でした。
彼は辻相撲にしばしば出場していました。あるとき、味方が負けるや、腹いせに仲間と共に刀を抜き、相手を裸のまま退散させました。
また、遊里からの帰り道、悪友にそそのかされて、浅草で罪もない人をなんと斬り捨てたのです。

人殺しなんて、もう最低最悪の粗暴者。近所のワル以上にヤバイ奴だったのですね。

心を入れ替え名君に

父の頼房はしばしば光圀へ訓戒を垂れました。当初、光圀は聞き入れようともしませんでしたが、その後、一変します。

非行に走った時期は3年ばかり続きましたが、18歳になった頃、ころっとおとなしくなるのです。
きっかけは、中国古典の『史記』に収録されている伯夷・叔斉の物語を読んだからでした。
この話は、父王から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた長兄の伯夷が、遺言に従おうとするも、叔斉が兄を差し置いて王位に就くことを拒み、ともに国を捨てて出国してしまうというものです。

光圀もまったく同じ状況でした。
兄の頼重は、親孝行者で旗本衆の評判もよい人物でした。ですが、1639(寛永16)年に下館五万石に封じられており、水戸藩を継ぐのは弟の光圀だったのです。彼の非行も、兄を差し置いて水戸藩の後継者になったというプレッシャーによるものだったともいわれます。

この『史記』のエピソードに自分を重ね合わせた光圀は、いたく感銘を受け、心を改めることにしたのです。


参考資料:
『徳川光圀』鈴木暎一著、日本歴史学会編(吉川弘文館)
『徳川光圀 悩み苦しみ、意志を貫いた人』吉田俊純(明石書店)

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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