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豪商を襲う計画だが、襲う側から唯一守られていた店とは【3/25は大塩平八郎の乱の日】

本日3月25日は、大塩平八郎の乱が起こった日です。日本史の時間に習ったのを覚えている人も多いでしょう。

1837(天保8)年の今日(旧暦だと2/19)、大坂町奉行所の元与力の大塩平八郎なる人物と、その仲間たちが江戸幕府に対して反乱を起こしました。これが「大塩平八郎の乱」です。
幕府の元役人でかつ学者であった人物の反乱は、当時の人々に大きな衝撃を与え、一説によるとこれが明治維新につながる倒幕論の先駆けになったともいわれています。

尊敬を集めた大塩平八郎

そもそも大塩平八郎とはどんな人物だったのでしょう。

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平八郎は大阪の東町奉行組与力をしていた家の8代目でした。
頑固者として大坂の町では有名でしたが、汚職を嫌い次々と不正を暴き、同僚の悪事を内部告発するような正義漢でもありました。途中で職を辞しましたが、その正義漢ぶりに民衆の信頼を得ていました。

そして彼は退職後、陽明学の道に進みます。元役人でかつ学者と、当時としてはかなりのエリートです。ますます民衆の尊敬を集めました。

天保の大飢饉の対応に激高

そんな折、天保の大飢饉が起こります。農作物の収穫高が減り、多くの死者が出ました。

ただこの飢饉、被害が大きくなったのは権力者たちによる人災と言っても過言ではありませんでした。
大阪東町奉行だった跡部良弼(あとべよしすけ)が江戸幕府のご機嫌をとろうと、大坂にあった米をむりやり江戸に回してしまったのです。同時に豪商たちが米を買い占めたため、米の価格が高騰してしまいます。すると、民衆は手を出すことができずに、ますます困窮するばかり。窮する者からバッタバッタと倒れていきました。

こんな状況を、正義感の平八郎が黙って見ているはずがありません。私財を投げうって民衆を救う活動に精を出しました。

しかし、跡部たち奉行所の連中は江戸幕府へ米を回し続けようとします。そこで平八郎は、民衆を救うためには、奉行たち悪奸を討ち、さらに米を買い占めて私腹を肥やす豪商たちを焼き討ちにするほかないと思い至ったのです。

一軒だけ無事な「大丸」

奉行を討ち、豪商たちを焼き討ちにしようとした平八郎ですが、一軒だけ、ここは襲うな、と仲間たちに伝えていたお店がありました。

それは、いまも大阪や東京などに大店舗を構える百貨店の「大丸」です。

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大丸は18世紀に呉服店として始まり、徐々に規模を大きくして当時では豪商中の豪商でした。

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しかし平八郎は、「大丸は義商なり。犯すべからず」と、仲間たちにも大丸を襲うことを禁じていたのです。
ではいったいなぜ大丸だけが守られたのでしょうか。義商とはどんなことを指していたのでしょう。

先義後利を貫いた呉服屋

大丸の創業は1717(享保2)年にまでさかのぼります。下村彦右衛門正啓が呉服店を開業したのがスタートでした。
その後、1736(享保21)年に大丸総本店を開店しました。このとき正啓は、経営理念として「先義後利」という標語を掲げました。

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これは義を先として利を後にせよ、という意味。わかりやすく言えば、金儲けよりも社会奉仕ということです。
この理念通り、正啓は冬になると食べ物や着物などを貧しい人々に分け与えたり、手ぬぐいや灯篭などを多くの人が集まるお寺に寄付するなど、多大な社会貢献活動を行いました。

平八郎は、この「利よりも義を先んじる」商人を知っていました。
そのため豪商を焼き討ちにする計画を立てたときにも、大丸だけは襲わせなかったのです。

ちなみに、焼き討ちに息巻いていた平八郎ですが、同志に密告されて当日に鎮圧されました。その後、跡部の暗殺を企ててひと月ほど潜伏しましたが明るみとなり、養子とともに短刀と火薬を使って自決しました。

日本史の出来事と、百貨店がつながるなんて、歴史は面白いですね。


Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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