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【オカルト注意】天草四郎の正体は豊臣秀頼の息子だった!?【2/28は島原の乱終結の日】

本日2月28日は、江戸時代に起きた島原の乱が終結した日です。
この乱は、江戸時代初期の1638(寛永15)年に起きた、日本史上最大規模を誇る一揆でした。

圧政や重税によって生活に瀕した百姓たちが蜂起したことがはじまりだとされています。その勢いが広がるにつれて、だんだんとキリスト教弾圧に対抗する宗教一揆の様相を帯びました。

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そして若きカリスマ・天草四郎時貞を大将に据えて、いまでいう長崎市島原市にあった原城に籠城し、強固な求心力で幕府軍に挑みました。

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しかし、天草四郎率いる一揆軍の決死の抵抗もむなしく、2月28日(旧暦なので厳密には4/12ですが…)、原城が総攻撃を受けた際に天草四郎があえなく討ち取られ、乱は鎮定されました。

天草四郎の驚きの噂

このときに討ち取られた、大将の天草四郎とは、いったいどういった人物だったのでしょうか。

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じつは若かったということもあり、全容は謎に包まれていました。

現在の通説では、天草という姓ではなく、実際は益田とされています。そして彼の父は、肥後(現在の熊本県)の南部の領主で、キリシタン大名であった小西氏に家臣として仕えていたそうです。

しかし、この天草四郎の出生について、びっくり仰天の説があるのをご存じでしょうか。

なんと彼は、天下統一を果たした戦国武将・豊臣秀吉の嫡子である、豊臣秀頼の息子だという説があるのです。

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えっ!? そんなまさか…!!
と、耳を疑うような説ですよね。まさしくトンデモ説と言っても過言ではありません。
しかし、この説の出どころを探ると、少しばかり納得してしまうような内容なのです。

秀頼生存説

まず、この説のなかで四郎の父と言われている豊臣秀頼から追いかけてみましょう。
秀頼は、一般には1615(元和元)年の大坂夏の陣において自刃したとされています。どんな歴史書にもそう書いてありますし、大河ドラマなどでも秀頼は大坂の陣で逝去することが描かれ、定説となっています。

しかし、豊臣家には秀頼と嫡子国松、生母の淀殿、そして淀殿の母(つまり秀頼の祖母)であるお市の方に至るまで、みなが影武者に支えられて、天寿を全うしたという伝説が残っているそうです。

また、当時から市井の人々がこんな唄を歌っていたそうです。

花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が抱いて、退きも、退きたり薩摩まで

この真田という人物は、大坂の陣で活躍した真田幸村のことでしょう。

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そのほかにも、なんと薩摩(現在の鹿児島県)に残された史料のなかに、いくつか秀頼について書かれているものがあるのです。

鹿児島市谷山の郷土史では、大坂の陣のあとに200人ほどの人々がこの地に移住してきたことが記されています。また、秀頼が谷村某という人物の家に住んだこと、そしてのちの寛政年間、肥後の斎藤権之助という人物が薩摩で調査を行ったところ、秀頼の屋敷跡や墓を見つけたばかりか、秀頼が真田幸村と申し合わせて、討ち死にと偽装したあとに、ともに薩摩へ逃げてきて、木下姓を名乗ったという伝承を残しているのです。

これらの情報を見ていくと、秀頼は生きていたのかもしれないと思えてきました。

秀頼の側室の子が天草四郎に

秀頼が生きて薩摩に来たかもしれない、という話はわかりました。
ですが、その秀頼がどう天草四郎に結びつくのでしょうか。

ある史料によると、秀頼は谷山の豪商へ身を寄せて木下出雲守宗連と名乗ったそうです。
そこで、庄内高坂城主の血縁の女性を側室として娶り、子をもうけたとされています。
この薩摩で生まれた子は、2人いました。そのうちの兄は谷村誉三郎橘正之、弟は羽柴天四郎秀綱と名付けられ、この弟のほうが、島原の乱の若きカリスマ大将・天草四郎になったというのです。

これが本当だとしたら驚きです。
が、この説は作家の前川和彦氏が発見した、表紙も著者名もない筆書きの史料が根拠になっており、あまり信憑性のないものだそうです。詳細は、前川氏の著書をご覧ください。


ちょっとガッカリという気もするけれど、信じるか信じないかはアナタ次第です! ということですかね。


参考資料:

『検証 もうひとつの武将列伝』井沢元彦(有楽出版社)
『豊臣一族 Truth in History 8』川口素生(新紀元社)
『秀頼脱出』前川和彦(国書刊行会)

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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