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『tout simplement noir』 肌の色、いろいろ

最近見たフランス映画『tout simplement noir』が面白く、それ以来肌の色について考えている。本作はフランスにおける人種差別問題をコミカルかつシニカルかつギリギリのブラックユーモアでコテコテにデコレーションした作品で、笑いの中に鋭い視点や問題提起のある興味深い作品だった。

BLM運動のお陰で人種差別問題について少しは関心を持つようになっていたのだけれど、本作を観て今まで”黒人”と大きな括りでひとまとめにしてしまっていた自分の浅学さに気づくとともに、人種差別とは、奴隷制度や歴史、地域性を多大にはらんだ非常に複雑かつ根深い問題なのだと改めて学ぶことができた。

すでに人種差別に関し自ら学んできた人にとっては得るところの少ない作品かも知れない。しかし初心者のための入門作品としては非常に価値のある映画だと思う。
パリに住んでいて日常生活の中で感じることのある差別的な現状とリンクする部分も多く、とてもモダンな切り口で描かれている点にも好感を持った。

そして何より、果てしなくどこまでも暴力的にドラマチックに悲劇的に被害者的に啓蒙的に描くことのできるテーマであるが、そこをあくまでコメディとして面白く、自虐も交えつつ、誰もが笑える間口の広い作品に仕上げているところが好みだった。


フランスで活躍する役者や映画監督、ミュージシャン、サッカー選手などが本人役でたくさん出演しているのもこの作品の特徴的だ。
例えば日本でも恐らく馴染みのある人物だと、移民や貧困層の暮らすパリ郊外の公営住宅地帯を舞台にした作品『憎しみ』の監督であるマチュー・カソヴィッツ。『tout simplement noir』では次回作のキャスティングをする映画監督として出演しているのだが、奴隷制度を描く作品のキャスティングで黒人のステレオタイプを押し付ける様子が描かれていて、この役よく引き受けたなあー!と感心してしまう。

差別に反対する人が差別をする様子は状況を変え、本作の中で繰り返し登場するモチーフだ。その皮肉なスケッチを笑うとき、果たして自分はどうなのか?と問う。例えばアジア人は全て中国人と思っているフランス人に出会うとムッとするけれど、黒人は全てアフリカ人だと安直に思っていないだろうか。




本作の監督・脚本を担当し、さらに主人公を演じるジャン=パスカル・ザディは、2021年のセザール賞有望男優賞を受賞した。

『tout simplement noir』はザディ演じる役者でアクティビストのJPが、人種差別に反対する黒人のためのデモを計画する様子をドキュメンタリー風に撮った作品だ。

JPは人種差別に対する怒りからデモを企画するのだが、しかしそこには自己顕示欲が多大に絡んでいたり、黒人の人種差別問題には過敏なのに本人は女性に対して差別的であったりと、JPが決して善き人・正しき人ではないところが作品を深めていて非常にうまい点だと思う。

人種差別に対し反対デモを起こす行動力は素晴らしい。だけど良い活動をしている人が良い人だとは限らない。良い目標を掲げる動機が純粋なものであるとも限らないし、差別の被害者が差別しないとは限らないのだ。すごくリアリティがあると思う。
フランスの笑いには、他人をダシに笑うものが多いように感じるが、今作は本人役を演じる役者たちが自分自身をネタにした、自虐的な笑いがふんだんに散りばめられている点もよかった。

劇中JPが問われる「お前にとって”黒人”とは誰なんだ?」という疑問も非常に興味深い。”黒人”と一括りにする安直さの問題点に気付かされるだろう。


ちなみにフランスにおいて黒人をなんと呼ぶかと言うのはセンシティブな問題である。フランス語で黒を意味するnoirと言うと、その言い方によっては差別的なニュアンスになる。だから英語にしてblackと言うか、またはrenoiと言うのをよく聞く。

renoiとはnoirのverlanで、verlanとは六本木をギロッポンと呼んだり寿司をシースーとひっくり返して呼ぶのと同じで、単語をひっくり返して使うこと。ギロッポンは死語だと思うが、フランス語の日常会話ではverlanがよく登場する。noirをひっくり返しrenoiと言うことで差別的なニュアンスが減るのだと思う。

しかしどんな呼び方にしたところで、言う本人の思考が変わらなければ何も変わらない。

そんな中、『tout simplement noir』の劇中とエンディング曲に、「noirって差別用語じゃないだろ」「ただ単にnoirって言えばいいだろ」と言うセリフがあったのが印象深かった。

原題の『tout simplement noir』とは、直訳するならば「ただ単純に黒」もしくは「ただ単に黒人だ」だろうか。日本語版タイトルは何故か『俺はマンデラになる』。日本語版のタイトルだったら手に取らなかっただろうなと思う残念な改題だが、フランスの差別問題の現状を笑って楽しみながら学べる良作で、しかもNetflixで配信中のようだから、気になる人はぜひ観てみてもらいたい。




この作品を観たあとのこと、パートナーの友人Tと一緒にお茶を飲む機会があった。Tは30年近くフランスに住んでいるオランダ人の女性だ。

うちのパートナーとTにはAと言う共通の友人がいて、Aの近況話になった。Aは黒人のオランダ人男性で、Tと同じく30年近くフランスに住んでいる。


Aはこれまで何度も、黒人である故の不条理な経験をTに語ってきたという。
しかしTはその度に、そんなことはない、それは言い訳に過ぎない、考え方次第だ、Aの努力が足りないからだ、と聞く耳を持たなかった。

Tの肌は褐色だ。しかし褐色という表現はTにとって心外かも知れない。T本人は私の肌はマット(光沢のない)と言う表現を使っていた。

Tは言う、「私の肌はマットだけれど、黒人であるAのような差別にはあったことがない」と。


でも数日前にAに会った時に改めて話し合い、Tは考えが変わったという。

例えばAがエスカレーターに乗ると、前にいる女性は必ずハッとしてカバンをしっかり胸の前に抱えるのだとか、家電量販店に行くと毎回警備員が少し離れた後ろをついて回るとか、そう言うことが毎日毎日ずっと繰り返されているのだと聞いて自分がいかに無自覚であったか、ようやく悟ったのだとTは言った。

不特定多数の人から日常的に疑いの目を向けられて生活するのはどれほど居心地の悪いものだろう。

差別的な経験とは、就職できないとか家を借りられないとか路上で暴力を振るわれることだけではない。日常の小さなことの積み重ねも降り積もると心を侵食して行く。同じ街に住みながら、自分とは全く異なる日常を生きている人がいるのだ。


Tは自身のことを語るとき、「私は肌がマットだけど、Aと同じような経験をしたことがなかった。肌の色で差別されたことはない。小さい頃から周りは白人ばっかりの環境で育ったし、ずっとパリの5区(ブルジョアな地域)に住んでいるし、息子の同級生はアルベール・カミュの孫だし」という文脈で語っていた。
と同時に、出身地を聞かれオランダだと答える度に「でも本当の出身は?」「オリジンは?」「両親の出身は?」などと、遠回しに、けれど不躾に、「オランダ人は白人。でもあなたは肌はマット。その肌の色はどこかた来たのか」問われることに何度も争ってきたと言っていた。

Tはその肌の下に、私には想像できない経験と葛藤を抱えているのかも知れない。
価値観も、人生経験も、肌の色も、いろいろあって、ひとくくりにはできない。



最後に、これまたパートナーの友人である、フランス人女性Aから聞いた話をひとつ。

AにはCという8歳の娘がいる。ある日2人で散歩をしていると、前方に白人と黒人の2人組が歩いているのをみたCが「あ、あれパパのお友達!」と言った。AはCに「どっちがパパのお友達なの?」と聞くとCは「黄色いジャケットを着ている方!」と答え、Aはハッとしたという。「Cには肌の色で人を区別するっていう発想がないのだと気づいたの。私だったら黒人の方って答えてたと思う」とAは話してくれた。

8歳のCの目には、肌の色の違いよりも、服装の違いがまず目に入るのだ。

私たちが当たり前だと信じ切っている感覚も、若い世代が新しく塗り替えていってくれるかも知れない。



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