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アントニオ・タブッキを2冊、須賀敦子さんと

須賀敦子さんの翻訳は、翻訳的なノイズが全く感じられず、驚くほど滑らかでした。
本を開いている間、小さな小石に躓くようなことがなく、すーっと小説の世界に引き込まれていきます。外国語から日本語に直された文章を読んでいるのだと読み手に気づかせません。


これまで須賀敦子さんのエッセイを好んで読んできましたが、翻訳されている作品を読むのははじめてでした。エッセイを読んでいるとその聡明さと静謐な文章力に憧憬の念を禁じ得ないのですが、翻訳もまた一等、格別でした。


須賀敦子さんのファンなので、はじめは須賀敦子っぽさ、あの文体の独特な心地良さを探しながらページをめくりました。しかしすぐに物語に引き込まれ、誰が訳しているかなんてこと、本を閉じるまで忘れてしまっていました。
翻訳者の顔も見えなければ、翻訳者が介在しているということさえ感じられません。

翻訳者の文章の巧さというのは、自分のカラーを押し出すことではなく、翻訳者という存在を読者に忘れさせてこそなのだなあ、と改めて思いました。

ちなみに、いかにも翻訳の香りのする文章も嫌いではありません。行間から原文が透けて見えてしまうと滑らかには読めませんが、その分、いかめしさというか、ある種の格調みたいな味わいを感じるときがあります。

しかしながら翻訳者の存在を読み手に全く意識させない、透明感のある須賀敦子さんの翻訳には脱帽でした。もちろん原作者のアントニオ・タブッキの文体自体が、滑らかで湿気がなく、シンプルでねちっこくないからこそ確信をつく、そんな読み心地の良さを備えているのでしょう。





『遠い水平線』 アントニオ・タブッキ著


死体置き場で働くスピーノ。ある日、運ばれてきた身元不明の他殺死体に不思議と興味を惹かれ、死体の正体を探し始める。そういえば、死体の青年の顔は、どことなく若かりし頃のスピーノに似ているような、、、


探偵小説的なモチーフですが、謎を解く物語というわけではありません。謎は謎のままに美しい、殺人事件以上探偵小説未満の幻想的な世界観がとびきり好みの一冊でした。

たとえるならば、全体が灰色がかった深い青みに包まれた世界。ですが決してジメジメとした空気ではなく、カラッと澄み切った空気が漂っています。明確な解答を与えてくれる小説ではありませんが、この小説世界自体の居心地が良く、答えもないまま宙吊りでしばし留まっていたい、そんな後味が残ります。はじめて読むアントニオ・タブッキの著書がこの本で良かったです。




『供述によるとペレイラは…』 アントニオ・タブッキ著


主人公は、ポルトガルのとある小さな新聞社で文芸欄を担当する記者のペレイラ。

初めは逃げ腰で、太っちょで、どうしようもないようなペレイラなのですが、彼の生活や思想の端々に人間味が溢れていて、次第に目が離せなくなっていきます。

政治には関わりたくないんだ、文学が好きなんだ、と世の中の複雑かつ緊迫した状況を理解しつつも、政治からは距離を置き、愛すべき文学の世界に閉じこもりたい彼の気持ちに共感する方は多いのではないでしょうか。


だからこそ、自分でもはっきりとした理由はわからないままに、どうしても巻き込まれていくペレイラの気持ちにいつの間にか伴走し、論理ではなく情を持って共感し、引き込まれます。
物語の最後、行動に打って出るペレイラの姿を他人事として捨てておくことはできないでしょう。こんな勇気を、わたしも持ちたいです。

多様な主張を許さない空気が蔓延り、”正しいこと”がわからない今日に、一際響くであろう作品だと思いました。


印象的なシーンの多くある物語でしたが、わたしは特に写真を鞄の中に入れるシーンが好きでした。ペレイラの誰にも見せびらかさない、誰のためでもない思いやりに、なんとも言えず惹かれました。





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