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『コルシア書店の仲間たち』 人を見つめる誠実な目

初めて手に取った須賀敦子さんの著書が『コルシア書店の仲間たち』でした。まだ日本に住んでいて、外国への憧れを抱いていた頃のこと。渡航費を貯めるために週に3つ4つのアルバイトを掛け持ちする中、一番のお気に入りが街の小さな古本屋さんでお店番をしながら本を読む時間でした。読書も好きなのですが、何より紙の本に囲まれているだけで心地良くなります。学生の頃からお客さんとして通っていた古本屋さんで、本が無造作にうず高く積み上げられているのですが、密集した本の背表紙にも木製の棚にも窓から差し込む陽の光にも、店主さんの趣味の良さが感じられる素敵なお店でした。

いつか自分でも本屋さんをしたいと思っていたのです。だからでしょう、『コルシア書店の仲間たち』という書名に吸い寄せられるように手に取ったのでした。

それ以来、何度繰り返し読んだか知れません。『ミラノ 霧の風景』『ヴェネツィアの宿』『旅のあいまに』『トリエステの坂道』『ユルスナールの靴』『地図のない道』『遠い朝の本たち』『塩一トンの読書』と、次々に他の著書も読みました。

パリに旅立つ前に河出文庫版『須賀敦子全集 第1巻』を買いました。第1巻には『コルシア書店の仲間たち』が納められています。どこにいても、その本のページをめくる度に大切なことを思い出させてくれ、迷子にならないよう向かうべき方向を示してくれる、心から信頼できる一冊です。



『須賀敦子全集 第1巻』

イタリア文学の翻訳者として知られる須賀敦子が過ごしたイタリアでの生活と、そこで出会った友人たちをめぐる随筆集。


何年もかけて繰り返し読むうちに、その時々の心情を反映するかのように、目に止まる箇所が変わります。

パリに渡る前、妙に心に残る一節がありました。

ミラノ暮らしを振り返る著者が、一番良かったことは「私など存在しないみたいに」という中にほうりこまれたこと、けれどそれを失礼だと感じたことはなく、むしろ客人扱いで日本人向けの話をする人たちの中にいなかったことが自分にとって一番よかったと綴るところです。

要領の得ないフランス語を使って騙し騙しパリで暮らす自分の姿を想像しては、全くわからない会話の中に放りっぱなしにされるのは、それでもやっぱりさぞ寂しいことなのではと思っていました。こちらに気を遣ってくれるのも優しさなのではないかと。

でも今は自分の経験を通して彼女の言っていたことの意味がわかるようになりました。客人扱いされている間は、中には入れません。存在しないみたいにと言うのは、対等と言うことだったのです。そのありがたさがわかるようになりました。
そして改めて、そんな環境に身を置いたときに無視されたと感じるのではなく、これは面白そうだぞ、何を話してるんだろう、と興味を持って積極的に耳を傾けることのできる著者の理性と知性に憧憬の念を抱きます。頭の良さというのは、こうやって自身や他者を客観的に見つめ、世の中を面白がるためにあってこそ有意義なのではないでしょうか。


須賀敦子さんの文章は静謐です。馴れ合いがなく、ときに厳しいのですが、彼女の目線には常に人や世界に誠実に向き合う人だけが持つ本当の愛情がある。だから決して冷淡ではありません。友人だからといっておもねるところがない。でもそこはかとない愛情を感じるのはなぜか。それは静かに、けれどしんしんと深く相手のことを見つめているから。その人のことをよく見る、という愛情。よく見るというのは相手に関心を抱いているということ。私たちは相手のことを見ているつもりで自分のことばかり見ていたり、相手のことを思っているつもりになって自分の基準を押し付けてしまいがちではないでしょうか。
関心を持って相手を見つめるというのは、最も単純な愛情でありながら忘れがちなことのように思います。

深く相手を見つめる誠実さを持った人だったからこそ須賀敦子さんは、たった数ページの思い出に、相手の人生、生き様、人となりが結晶化されたような文章を綴ることができたのでしょう。人生のそこはかとない哀しみ、抗うことのできない時代の流れ、誰もが背負う普通の重荷。しかし一瞬訪れ共有される、幸福な瞬間。ひとりの人間という存在の儚さと、その儚さゆえの美しさに、何度読んでも心を掴まれる一冊です。


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