ヨガまいご

ヨガの教室を探すのは、意外にも困難を極めた。
そもそもなんでヨガを始めようと思ったかというと、自分の体の状態を知ることと、その体を適切な方法で使いこなせるようになりたいと思ったからだった。
折しも、その時にnoteで「ホットヨガがおすすめ」という記事が話題になっていた。それを読んだ私は、まず手始めに最寄りの駅のそばにあるホットヨガのスタジオの体験予約を入れた。

駅に降り立ちスタジオまでの道中で「予約して失敗したな」と感じた。薄闇の路地を鮮やかなネオンが茫洋と照らしている。なんとなく、体と心の向きが四方に散らばっていて定まらない。
そういう気分になった理由はすぐにわかった。駅前でチラシを配っていた女性だ。ホットヨガスタジオのロゴの入った派手な色のTシャツを着てチラシを配る彼女が、ちっとも美しくなかったのだ。
彼女がヨガのインストラクターなのか、ただのアルバイトなのかはわからなかったが、スタジオに支払う月謝のなかに、ああいう備品や広告費も組み込まれているのかと思ったら、胸にもやもやとした煙が充満してくるようだ。呼吸をしたくてヨガに行くのに変なの。
それでも予約の時間は近づいている。ビルのエントランス脇のエレベータが開いて、スポーツウェアに身を包んだ女性たちが賑やかな笑い声を上げて降り立つのを横目に、私はのろのろと階段を登った。

予想通り、そのヨガスタジオの体験レッスンは、体験レッスンという名の宣伝だった。入り口の自動ドアを開けると、白いスポーツウェアに身を包んだ女性が跳ねるようにして私に近づき早口に挨拶をまくし立てた。
渡された申込用紙に適当な住所を記入して待っていると、その女性が再び現れカウンセリングが始まった。

「ホットヨガを始めることでどんな効果を期待していますか」

「効果...ですか」

「そうなんですよ。皆さん、代謝が良くなった気がするーとか、肌がつやつやになったー、なんて言ってくださるんです」

「それはすごいですね」私がそう頷くと、インストラクターは、記入用紙に「代謝・肌」と書き込んだ。

言ってない、そう思った。

次に、更衣室に連れて行かれ服を着替えて、それから得体の知れない軟膏を体中に塗りたくられた。「こちらのクリームは通常だと○○円ですが、本日ご購入頂きますと5,000円割引させていただきます」ゆったりとしたBGMの中で、数字が浮き上がって聴こえてくる。インストラクターはにこやかな顔で私を覗き込んで、そこに浮かぶもの...恐らく感嘆を示す手掛かりを探していた。私は目を伏せて、肌の上を這う軟膏の軌跡を感じていた。
青白く冷えていそうな肉体を持った女性たちが、そこかしこで着替えていた。生地の薄くなったショーツから、尻の割れ目が見えていたり、伸び切ったブラジャーのベルトに肉が食い込んでいた。自分の体を見下ろすと、私の胸はカルバンクラインのスポーツブラの下で品よく沈黙している。

肝心のヨガの内容はよく覚えていない。
インストラクターの「なますてー」という平坦な声に、教室の四方から「なますてー」と応えが返ってくる。そうか、場を作る全員がここをインドだと信じれば、ここはインドになるのだ。だんだん仕組みが飲み込めて、愉快になってきた。私の流した汗もやがてガンジス川に死体とともに流れ着く。

けれど、「みなさん、お隣の人にご挨拶をしましょう」と言われて隣の人を覗き込んだ私は、再び萎縮してしまった。左隣の女性の顔は、両目がある筈の場所に、黒い穴が空いていた。右隣の女性を見ると、胸の前で合わせられた両手がどんどん掌を突き破り溶けつつあった。私は、暖められた部屋の中で一人だけ固まっていた。
そうして1時間のレッスンが終わったあとの私を待ち受けていたのは、契約書と値段表だった。

「本日ご入会でしたら、このお値段になります」

「ホームページで見たときの値段と違う」

「あ、分かりづらかったですよね...この金額を、半年で割ると、ホームページに記載されていたお値段になるんです」
汗でベタついた体が、どんどん冷えていく。柔らかい床の上で伸びていた体が、硬い椅子の上で凝固してゆく。
どろどろに溶けた白い脂肪のベールの向こうで、黒いいやなものが見え隠れしている。
「久しぶりの運動で気分が悪いので、正常な判断が出来なさそうです。帰ります」
そう告げて私はそのスタジオを去った。

ヨガを始めることで、何がしたかったんだろう。

家路をとぼとぼと歩きながら、私は自分に問い続けた。


個人経営らしきそのヨガスタジオは、インターネットで探し当てた。
GoogleMapでそのスタジオの外観を確認した私は、年季の入ったビルの佇まいに圧倒され、体験予約を入れようかどうしようか、半月ほど迷った。
それでも意を決して予約を入れたのは、ホットヨガスタジオのあとに見学に行ったヨガスタジオがあまりにもエンターテイメントに寄りすぎていて、泣きたくなったからだった。

世の中、スピリチュアルとパステルカラーばっかり。それに馴染めない自分は、社会から認知されていないのではないか。俯きがちにそのスタジオまでの道を進むと、道の脇に青い紫陽花が咲いていた。

ここのスタジオにも馴染めなかったら、私にはヨガは向いていないのだ。諦めよう。

そのスタジオに続く階段を覗き込んだ時、私は既視感に包まれた。
あ、このお教室、昔通っていたバレエ教室にそっくり。
古い建物特有の、急な作りの階段に敷き詰められた少し色あせたピンク色のカーペットは、私の足の裏を柔らかく押し返した。私がこの空間に入ったら、私と同じだけの体積の空気が外へ出ていくんだわ。そんな簡単なことを考えて少し目を見開いた。階段の脇にくり抜かれた窓辺に置かれた観葉植物はどれも小振りながらつやつやと光っていた。

3階にある教室の扉は開かれていた。ひょいと覗き込むと、正面の壁一面に貼られた鏡の隅で、女性が座っているのが見えた。
「はじめまして。体験予約をお願いしているものです」
私がおずおずと声をかけると、その女性は「いらっしゃい」と言って立ち上がった。こちらへ向かって足を踏み出すその軌跡が、一本の光の筋のように残っている。体の線がぶれない人の歩き方だな、と思った。
「ここに荷物をおいて。着替えるときはここのカーテンを引けばいいから」

教室の両側に取り付けられた窓から窓へ、初夏の風が通り抜ける。

時折トラックが近くの道路を通り過ぎると建物は僅かに震えた。遠くから電車の通り過ぎる音が聴こえる。きっと、夏になるとここには蝉の声が聴こえるだろうし、秋になると秋の香りが漂ってくるのだろう。

「ヨガは初めて?」

着替えてマットに腰を下ろした私に向き合う形で、女性は鏡の前に安座をかいた。
はい、と答える私を彼女はじっと見つめる。

「最初からポーズを決めようとしなくて良いからね。自分の体がどういう状態なのか、観察することが大切だから」

私はこくんと頷く。

入り口の鈴が揺れ、受講生らしき女性が1人入ってきた。近所に住んでいるのか、トレーニングウェアをすでに着ているその女性は、Tシャツの袖口から桃色の柔らかそうな肌を覗かせていた。よかった。この人は人間みたいだ。私は気付かれないように溜息をついた。彼女は焦点のあった目で先生と私を見つめ、それぞれ挨拶をした。

「これからヨガのレッスンを始めます。よろしくおねがいします」
深い息と共に、言葉は空気をしっかりと震わせ、私の鼓膜を伝わり心まで届いた。この感覚、知ってる。幼い日に、茶道のお稽古やピアノのレッスンの初めに先生と向き合った時に流れた空気と同じ。あの時、何もわからずに与えられていたあの時間は、心の中に溶けて私を導く。

先生の声を聞いた瞬間に、私はこの教室に通うことを決めた。
「よろしくおねがいします」

合わせた両手を額の高さまで持っていき、私は深々と礼をした。

まだ、この世界には私のための隙間はあるみたい。

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