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制作日誌1 良さを言葉にするものの、言葉は分割出来うる最小要素なのか?

良さとは何かを、日々考える。

学生時代、惚れ込んだ友人のバンドが全く受けなかった時、
フジロックのメイン会場で流れていた映像表現に感動して、VJを始めた時、
雑誌や書籍の内容や装丁を見ている時、
本場のアートが見たい!とメトロポリタン美術館で一人で行った時。

何かを見て、「良いな」と思った瞬間に、なんで良いんだろう、何が良いんだろう、とよく考える。出来れば言葉にしていきたい。

良さとは何だろう。答えが見つかり次第、過去の自分に教えてあげたいし、
将来の自分が延々と向き合わなきゃいけない課題な気もしている。

宗教・思想を徹底的に言語化した岩波文庫に触れて。
例えば、宗教の原典は真理=神の完全模写でなく、一旦、人間の言葉に落とし込まれた人間の言葉、人間が理解しうる範疇ではないか。一体、神秘性や美学はどこまで言語化出来るのか。逆に言えば、言語化されないことは理解出来ないのか。そんなことが気になる次第だったりする。

分析美学のように、芸術といった抽象的なテーマを扱うように、
自分も、自分の触れる範囲の中で、良さとは何かを言語化したいと思ったりする。

良さを検討するにあたり、何から書けばいいかわからないが、
仕事として、数字と感情のアプローチについてメモを書く。

売れる本、売れそうな気配、売れなくても名著
ただの「お茶」でなく、ブランド価値、共感される物語が付いた「お茶」
数字や言語で表現できる事柄が全てではなく、
曖昧な抽象的に評価される価値もあるらしい。

それらは再現性を持たせられるのだろうか、何か法則があるのだろうか。
ビジネスマンとしてはその答えも知りたい。

良さは、神秘性と言語性(論理性)を持っている。
スーフィズムや禅のように、言語を捨てよ、言語道断といった感性の側面と
幾何学のように、確立や数字で突き詰める側面を併せ持っている。

分析美学よろしく、「良さ」を哲学・言語化していく哲学者アプローチも、
東洋哲学ないし神秘主義ばりに「言語の向こう側」とあきらめて達観するアプローチも、もしくは、「言語の向こう側を、むりやり言語として持ち帰る」落とし込む預言者的アプローチも、まあなんでも良いのだが、
機会に恵まれ、人の感情を動かし、お金を貰えている身分としては
価値が発生する「良さ」、価値とは何か?論もありますが
お金的対価が発生する「良さ」を、とことん考えていきたい。

良さの言語化・数字化を推し量りつつ、
我々が直接的には触れえない感情的、
いや言語ではとらえられないが存在する何かを認めたうえで
良さを感じる具体的事柄から、一般的「良さ」を導き出していく、
同時に一般的法則の「良さ」を適用した結果、生まれた、具体的事柄は良いのか?とかを知っていきたい。

しかし、まあここまで来て思うことは、言語で説明した際に、その使用している言語は、何を意味するのか?といった堂々巡りになってしまうのだろうか。美味しい食事を説明する際の、各要素について、更に説明を求めていった場合に、どこにたどり着くのか。そんなことをぼんやりと感じたり。

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