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ある医師にとっての死

それは孤独死だった。

彼の実家で母親がひとり亡くなった。
母親とは生前から性格は合わず、お互い自由に生きるために、積極的には会わないと決めていた。

自らも親になった時、自分の親の尊さに気がつき感謝して大切にするようになる。よく聞くそういう展開にはならなかった。彼の場合は、両親との距離は徹底して保ち、その代わりに、自分のつくった家族をとことん愛した。


そんな、母の死にをきっかけに、自分の人生の終わりを強く意識するようになったある医師。

外からみている身には正確なところはわからない。ただ母親の死後、明らかに変化があった。新しいものに手を伸ばすことが減り、見せるのは哀愁の漂う表情、聞こえてくる若かった頃の話。

死の瞬間に立ち会うことの多い医師にとってさえ、家族の死はまた別の意味をもっているのだと気付かされる。


例えば今私が、「死にたい気分」なんて、気持ちをこめて嘆いたとしても、その言葉にリアルな死のイメージをのせることなんて無理だ。

もちろん私も、死を知っている。親族で亡くなった人をみた。医学生として病院で患者さんが亡くなるのに立ち会った。それでもなお、いや、だからこそ、死をこういうものだと思っている。

死は、あるときぽっと現れて、
生きてるうちにした全てのことを清算して、
私のなかのいいところだけ語り継いで、
悪いところをなかったことに消し去ってくれる。

でもきっと、死はそんな存在ではないのだ。
人生の終わりを強く意識するようになったその医師の変化に、私の想像は間違っていたのだと知る。

自分の人生を締めくくるかのように、ものを、記憶を、思いを整理し始めた。昔できたことができなくなった。したいと思うことも少なくなるのだろう。伝えたかった思いに気がついても遅く、その人は先に死を迎えている。自分もも誰かにそうやって思われているのかなと考えたりもするのかな。

死の瞬間に立ち会うことの多い医師にとっては、死は長い間、その瞬間に起きていることであったはずだ。けれども死は、当事者にとってはずっと向き合い続けた先のできごとだということを身をもって知っていく期間。嫌という程思い知らされる、という方が正しいのかもしれない。

でもね、そうして自分の人生にもう一度向き合う様子は、私には、とても美しく映ったんだよ。

死の瞬間まで向き合い続けた死というものは
言い換えるとその人の人生すべてで、
死はつまり、「その時まで生きる」ということにほかならない。


「あるときぽっと現れる死」が私の理想だった。けれども、こうして死について思いを巡らせ続ける様子をそばで目にして、向き合い続けた先に迎える死も、人間らしくて良いものだなと思い始めた。だって私の人生はこれまでずっとそうやって思い、悩み、考え、決めてきたのだから。

たとえ人生の終わりが明日訪れたとしても、「死」にそして「生」に、向かい合い続けた先のできごとになるように。



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最後まで読んでいただきありがとうございます。こうして言葉を介して繋がれることがとても嬉しいです。