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というだけ。の話。

※別に楽しい話でもなきゃ、嫌な話でもない。
淡々とした私の話だから。

私は私の中を探索する。

《自分》というのは、自分が思っている以上に広く深く、浅く狭い。

要するに、答えなんてものはあってない。

ただその時の正解が漠然と目の前にあるだけだ。



そっか。
そう思う。
じゃ、君のその気持ちはこんな感じかぁ。なるほどね。

あれ?

でも、じゃぁ、なんで私はソレを持っていないのだろう?
どうも、見る限り持っている人が多いみたいのソレを、どうやら私は持っていないらしい。

別に全員が同じモノを持っているとは思っていないし、持っていないことに対して不思議には感じるが、不安だとか、嫌だとか、嫉妬だとか、そういう感情は生まれていないと思う。

歯切れの悪い言い方をしているのは
人間の心は便利なもので、見たくないものを切り離したり、壊れるのを止めるために固めたりする事ができるからだ。
私の自覚していない私がいるかもしれないということを、私は否定しない。

どんな私も否定しない。


他人の心の輪郭に触れる。
なんなら、少し整理して、通り道を作ろう。
フェイクの踏み跡も了承済みで
草根をかき分けソッと踏み込む。

簡単に入り込ませてもらった時ほど警戒する。
誘い込まれたその場所では意味がないから。

野生動物を観察したくば
その動物の行動をよくしることだ。
違うということを刻み込むことだ。

そして私は生態を見る。
そのままをみる。
そして沸き起こる自分の感覚に深くダイブする。


ふと、不安になる。
でも、それもそれ。
ふと、孤独を感じる。
けれど、それもそれ。


私は知っている。
たとえ他人が知らないだろうと
そう言っても知っている。


私を感受性の豊かな人だと評する声も聞くが
確かに、どうやら、豊かだが
私のそれは土と同じで
そうそう揺れを感じさせはしない。

土は分解するものだ。
人間が拘るソレにどうのこうのは思わない。
人は人のそれらに敏感なことこそ
感受性の高さと何処かで思っているようだと感じることがある。
けれど、私にとって、それらは別段怯えるものではない。当たり前のことだ。
人間的な寂しさや、切なさは解れども、それに揺れ過ぎて茎を折るような儚い花達と私は違う。

そもそも、それらに怯え、それらを遠ざけ、それらに過剰反応する事に、私は怒りを覚える。
大いなる流れのそのものを否定しているような、まったく、人間は忘れてしまったのかという、怒りの感情である。
土に解けゆく事は、苦しみや悲しみなんかじゃないのに。

けれど、その悲しみや慈しみ、哀れみが人間の防御壁だと思うから、私はそれも否定はしない。

怒りは拒絶とは違う。
怒りを認めないままに怒る事は拒絶だろう。

自分の感情をないものとして、見てみないふりをすることは、一番、大きな傷になる。

私の場合は。




君はなんなのだろうか。
また、私の創作だろうか。
幾度となく繰り返してみたアレ等とおなじなんだろうか。
いや、同じにはならない。
だって、私がそうしないから。


どうしてだろう。

なぜだろう。


他人同士のそれでなら、いくらでも憧れていられるのに。
憧れが目の前になった時、私は気がつくのだ。

伸ばした手さえ、私の創作なのだと。
まるでドミノが倒れるように、その方向に力をかけてしまったことを、私は流れの中で自覚する。
私の意表を突くことはない。


だって、わかるから。
知らなかったとしても、理解っていなかったとしても、あっという間にわかるから。

それが、どれほど、寂しいことか、君にわかるだろうか。
どうしようもないことだからこそ、それは私の胸に刺さり続ける。
そのことが、君にわかるだろうか。



それはあまりに不誠実で、でも果てしない違和感として私を取り巻いていて、けれど、それこそが私の能力の源である。

沢山の中から、引っ張り出して、試して、引っ張り出して、また試して、けれど、そもそも私が足りないのが問題な気もする。

様々なものが足りないのだから、こうなるのも頷ける。

しかし、そればかりでないこともあるし、物事は複雑に絡まり合っているわけだから、私のこの心さえ疑問である。


こんな感じで、こんこんと湧き出て来るモノを、私は淡々と観察しつつ、たまに揺れ動き、けれど壊れず、やっている。
その強度は私が私にかけた言葉の鎖で保たれている。
鎖というのは窮屈に感じられるかもしれないが、必要に応じてかけたものは護りだ。繋がりだ。


故に、私を他人が解くのは中々の困難である。


私はそれが歯痒い時がある。
自分でかけた自慢の鎖に。

わかるからだ。
そして、否定したいわけではないからだ。
受け取れはするからだ。
解けなくても大切な事は伝わるからだ。


けれど、鎖が解けなければ、それは簡単に否定を意味してしまう。

解いたふりは上手くなった。
解かないままでも大丈夫な存在がいることも知った。
どちらも大切な事だ。


嬉しくて、悲しくて、切なくて、私は私のまま立ち続ける。



例えば 竜巻を愛してくれるのか という話のような。
扇風機ならいくらでもと云うと思う。

そうじゃなくて……
そうではなくて……

それを願った時、私は思い知ったのだ。

鎖で護る方が容易いと。


本当に渦を巻くかは別の話。
大気は何時でも変わるもの。

けれど

私がききたいのは
ききたかったのは


人間は怖いと思ったもの、悪だと思ったものを、容赦なく遠ざけ嫌い消滅を願う。
私はそれをよく、知っている。


晴れの手前を晴れろと抱きしめることは出来るのだろうさ。
晴れの手前をそのままに抱きしめることの難しさよ。


言葉に混ぜる霊の勝負なら、私はそうそう負けはしない。
それを、そんなことないと言える人には、私の鎖も何もみえていない。
そういう人とは勝負しない。

だって、意味がないから。


あの頃は誰も勝たなかったし
誰も勝負してなかったのだろう。

そもそも、変わりゆく気象など
きっと見えてもいないのだ。
目の前の光や、闇が全てで
広く大きなそれは
どうでもいいというところだろう。


だから。
わかっていて、でも、いいじゃないか。
それは何処かに有るのかもと思っているのも同じくらい大切なことなのだから。


私はここに在る。



ただの気持ちの羅列で特に悩んでもいなければ、困ってもいなくて、ただ、こういうのも書き留めたいだけ。

何か伝わる人にはその人の中の色で伝わるだろうし、それが何になるかといえば、それも人それぞれだし、ただ、これで、また、昔みたいに鎖を引っぺがしてあげようみたいな輩はごめんだ。よく読め。護りだ。


そんなの逆鱗に触れるよ。


解らないうちから触ろうだなんて失礼にも程がある。幸いにも、ここの場はそういうのが少なくていい。

昔はこういうのばっか書いたりして、いやはや、自分で巻き起こしているではないかと笑う。
それでも、私は知りたいのかもしれない。


いいんだ。
否定じゃないし、拒絶でもない。
何も感じ取らないわけではないし、なんなら恵まれているのだろう。
けれど、だからこそ、歯痒い時があるってだけだ。

歯の生え変わり時期の獣がやたらめったら噛むように、じゃれて噛んで確かめているようなものだ。

長々よくわからんことを書いたけれど、こういうのも私。
いつものもたしかに私。



どんな私も私なら
どんな君も君だろう。

ただそれだけのこと。








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