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ここ2、3日突如やってくる脳内BGMが宇多田ヒカルの「道」なのだが(正確には1週間くらい前にもぽっと脳内BGMだった)
何に関連して脳内BGMがやってくるのか、私にはわからない。

この歌詞は宇多田ヒカルが、母を見つめたもの、柔く心地よく重く、しかし、たしかにハッキリと向き合った感じかなって勝手に思ってる。
複雑で深く纏わるような質感。


私には解らない世界だと思う。

母親を母親と認識したまま許すのと
母親を一人の人として認識して許すのは
全く違うこと。

私は、母親を母親と認識する力が弱かった。
彼女は『私の母親』には、なれなかった。子供を産んだ女性の事を『母親』というのなら、確かに彼女は『母親』だろう。
でも、その子供と親子関係が築けるかどうかは、全く別の話だと思っている。
産んだら『その子の母親』になれるなら、世の中の女性はあんなに苦しんだりしない。
私を産んだ彼女もあんなに苦しんだのは、『私の母親』になりきれないからだったのだなと、私は感じている。

子供も様々なら、親だって様々で、それが上手く噛み合うように調整する事の得意不得意だって千差万別だろう。
絶対に噛み合わない歯車を削り合って、ただ摩擦のない擦り合ってる状態を良しとするなんて、私には到底出来ない。

それなら、弾かれて飛んでいったほうがよっぽど良かった。
親子という歯車は無理にまわさなくてもいい。
私には向かなすぎる。
それが私の選択である。

私は子供が好きだ。
単純に子供という生態が面白いのもあるが、
伸びゆく新芽が愛おしいのと同じで、子供たちは可能性の塊だ。その新しく柔い煌めきを大切にしてやりたいと純粋に思う。
それと同時に、その土壌である親の事も気になる。いったい、痩せた土壌を誰が耕してくれるのかと。大人は大人のことも、もっと、大切にしたほうがいいよ。

大切にしてくれる環境を探していけるだけの体力のあるうちに、そこを目指す必要があるのだろう。
鯨達が出産のためだけに遠距離を泳ぐように、鮭たちが命がけで川を遡上するように、目指すべき場所が本当はあったらいいのだ。
人間にはそういうものが足りないのだろうと感じる。だから迷子ばっかり。


子供を『産んでいない』『産みたくない』『産めない』と、様々な状況がある。

私は全てをひっくるめごちゃまぜにした上に立っている。

出産に関してだけいえば、スルーしたい。
この肉体は耐えられない可能性が高い。
けれど、子供を育てる生き方は良いと思っている。しかし、この肉体はどうやら命を宿すのに向いていないらしい。

自分の血をわけた子供がほしいと思ったことは無い。
無いというか、自分の遺伝子を受け継いだ子供に拘りを持ったことが無い。
私の遺伝子など受け継いでも苦労する。
肉体の遺伝子としてはかなりポンコツだ。
血を分けることに執着しないということだ。

けれど、そう簡単に「養子を」とは出来ない。
私はたぶん、急に子供が来ても何とかなるさとやっていくだろう。
それが、きちんと出来ているかとか、そんなの二の次で。
命を育てるのにきちんと出来ているかなんて確認している暇なんてない気がしている。
確認しつつも、しきれないんじゃないかな。
気がついたら、『まぁ、なんとかなってる』くらいの着地を目指したらいい。

この考え方を、たぶん、良しとしない人は多い。
それに、私の夫の器では、なんとかなるさを一緒には出来ない。

夫婦というのは歯車が噛み合っていたほうがいい。子供は産まれるまでわからないし、形も変形するが大人はだいたい解る。
まぁ、上手に変形を繰り返すことも出来なくはないが、疲弊するだろう。
私は『巣穴』を選択したから、大きな噛み合いをそもそも、期待していない。
それでも回るように調整したのだ。

私は親子関係と同じように、夫婦関係も削り合って摩擦も生まれないほど削ったツルツルの関係でなんとかやっていくなんてごめんなのだ。
なら、最初から浅い噛み合いで、弱い力で、のんびり回っていたほうがよほどいい。


子供に熱心過ぎる人も、子供に無関心過ぎる人も、子供に憎悪をいだき過ぎる人も
全員『過ぎてる』よと思う。
これは『子供』の所を何に替えてもかわらない。


偏ってると、傷つける力に容赦がなくなる。

正義とか悪とか、寛容とか不寛容だとか、そんな言葉を使って偏ってるなぁと思う。


ただ真っ直ぐに接した時に、それがどうなるかなんて、本当は誰も知らない。
研究して解明して実証して、立派な結果と実績だったとしても、そこを歩いているうちは歩いていて、辿り着く手前なんだから、わかるわけがないのだ。

標識が正解なんかじゃないって、どうしてわからないの?
正しい道を歩くのではなくて、道を歩いているだけ。
悪い道があるのではなくて、道を歩いているだけ。

その先で振り返って、あの標識良かったなぁとか、あの道は最悪だったなぁとか、そう思うだけで、間違わないように歩くなんて無理だよ。


そこに誰が立っていたかとか、何を途中でしたかで、人生に差があると思うから、必死に道すがら何かを得ようとしているんだね。

私の道って人が凄く少ないの。
途中の寄り道も誰にも気づかれないほど小さい道。
もし、差があるというのなら、周囲の人々の道のほうが、標識もいっぱいあって、人もたくさんいると感じる。
焦らなくもない。でも、焦りきらないんだよ。
どうしても、私の何もない道を悪いと思いきれない。たまの孤独も私の為のものだから。


人間の文化的な社会の中での基準だけでしかないことに執着しだすと、疲れる。私はそう感じる。


周囲の人より少しズレた位置にいる気がする。
莫大な違和感を抱え込んだりする。
それも気のせいかもしれないと思ってみたり
いろいろな方法で反響を感じ取り
輪郭を撫でようとしたりする。


それが私なのだとして。


それが私なのだから。


そりゃ、親子関係なんて、上手に出来なくて当たり前かと、最初の話題を引っ張ってきてこの記事は〆よう。

思いつくまま書いたから、思考酔いする人がいたらごめんね。
あと、怒りが生まれたらごめんね。

でも、すみませんじゃなくて、ごめんね。


母の日に何書いてんだ。笑
まぁ、いっか。

だって、宇多田ヒカルの道が脳内BGMだった。
それだけの話だもの。

















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