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私の大事なペルソナ

 学生時代の私は、どうやら楽しい人だったようだ。中学時代が窮屈だった、とか高校時代がしんどかった、という話をすると決まってかつての同級生に「めっちゃ楽しそうやったのに?」と言われる。私、楽しかったんかな。

 多分私は勝手に自分の学校での役割を「愉快な人」にしたかったんだと思う。実際の私はミステリアスな人に憧れていて、この人をもっと知りたいと思わせる様な人になりたかったけれど。私自身はそれから程遠く。どちらかと言うとパッと見でわかりやすい、明るくて楽しげな人だったんだと思う。
 
 でもそれは「実は自分は悩んでいたのに明るく見せていた」わけではなくて、ただ笑っている人が好きだから私も笑っていたし、学校で人を笑わせるために家ではテレビから多くのネタを仕入れて練習していた。それも私だったのだ。

 ではなぜ私が中高時代辛かったかというと、私の人の感情を受け取りがちな性格や、違和感がストレスになる特性が原因。悲しそうな人がいたら私も悲しく、酷く叱られる子がいたら私も辛かった。いじめも体罰も嫌悪感も。感情の大洪水が起きている学校では、私の心はいつも激しく揺り動かされていた。謎の上下関係や「ルールだから守れ」という曖昧な表現に苦しんだ。ただただ疲れるのだ。
 そして流れ込んでくる大量の情報や出来事、感情は寝るまで私の頭の中をぐるぐる駆け巡り、私の心を乱した。それを払拭するように私はお笑い芸人のギャグを練習し、ドラマのセリフを覚えるまで観ていた。

 学校を卒業してからは、よく一人旅をした。誰と誰が仲良くて、私はこのグループだからこの人と一緒にいなければいけない、とか特定の仲良しがいないと孤独に見える…とか。そういう学校で苦しめられたあの感情は一つも要らなかった。そこにいるのは、自分自身だけ。こうしてサシで向き合ってみると、自分自身も悪くない。毎日たくさんの人と比べ続けていた私の嫌な部分は今日も変わらず自分の特徴としてそこにあるけれど。旅の中では自分の綺麗な部分も汚い部分も、間違いも苦手なこともスーッと受け入れられる、良い機会だった。若い頃の旅を通して、私は自分自身と仲良くなった気がする。

 帰国して働き、結婚し、子どもを産んでまた再びあの小さな社会に閉じ込められた時、私は同じ様な感覚で自分を追い込もうとした。
けれど昔と違うのは、私が最強の仮面を手に入れたこと。それは「英語講師」。私にとって仕事は自分にいろいろな顔をくれる、興味深いもの。それまで多くの職業を体験しいろいろな仮面をかぶってきたけれど、私の欲しかったものはこの仮面かも知れないな、と思う。

 コミュニケーションに辛さを感じる自分自身。人にどう見えるかを恐れていた自分、人と比べて自分は...と後ろ向きな気分になる私も、この仮面をかぶると完全に「英語の先生」にしか見えなくなる。心配しなくても私は英語の先生で、必要な人に求められる。
 私はその仕事に必要なことを知っている。初対面は苦手でも、人にどう話しかけていいかわからなくても、この仕事の間は私は完全にフレンドリーに話しかけることができる。それが必要なことだって知っているから。それがこの仕事には一番大事だってわかるから。そしてそれが大好きだから。
 誰にどう思われる、ということを考える暇もない程「目の前の人が英語を楽しく学ぶには」が頭を行動を支配する。教室でみんなの顔にパーっと光が射す時、私は希望でいっぱいになる。
 不思議なのは、どんなに不安でも身体的に痛みがあっても、この仮面をかぶっている時はそれを全く感じなくなる。全身全霊で「この時間」を生きることができる。

 この仮面は、私にとってこれは今や欠かせないもの。一日の数時間ただ私に張り付いているのではなく、私という人間を作る大事な要素の一つ。
 だから、今私はこのオンとオフを大いに楽しんでいる。昔誰かが「お笑い芸人に会ったけど、全然面白くなかったよ」と不満を言っていたのを思い出すけれど。だからと言って彼がわざと自分の陰と陽を使い分けているのではないのだ、と大人になってからわかった。

 大勢の人の前で平気に笑って話す自分も、数日振りに会う友人と食事をする時でさえ人見知りしてしまう自分も、どちらも私。愛おしい存在なのだ。

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