見出し画像

評価の果て

 小学校の卒業前の「感謝の会」とやらに立ち会う機会が何度かあった。その中で父親や母親への感謝の気持ちを述べる手紙を全員の前で読むというクライマックスがあるのだが、そこで感じたことを書いてみる。
 12年各家庭で育ってきた子どもたちが、どういった言葉で親に感謝の気持ちを伝えるのか、興味があったが期待とは裏腹に意外な部分での驚きがあった。

 ほとんどの生徒が同じ家庭で育ったのか、と想像してしまう程コピーペースト的(複写したかの様:以下コピペ)に同じ言葉だった。恐らく先生が例に出したものだと思われるがそれがほとんどの子の言葉に入っていた。その中でも日頃の親の姿やその子の心に刻まれたエピソードを入れて語っている子は、親がそれ自体を喜んでいる様だった。子どもが自分に向けて言葉を用意してくれてそれを人前に立って語っていること自体を素晴らしいこととして受け止めている様子。
 しかしほとんどのコピペされた言葉が入っている子たちの親は、「もっと気の利いたこと言えばいいのに」とか「なんか声が小さい」「〜さんのとこは堂々としてすごかった」とか。

 それを見ながら生まれて12年の間にその子が親の評価の中で、自分自身の表現を置き去りにしてきたことを思った。「もっとこうすれば良かった」「〜さんはもっとちゃんと出来ていた」とその時の努力やその子自身の頑張りを認められずにきた結果が、「どんな言葉を選べば親が満足するのかわからない」ということに繋がるのだ。

 親としては謙遜や自虐ネタの様に周りの人に言って笑うネタにもなっているのだろうが、その言葉の積み重ねの中で子どもたちは学習をしていく。
どんなに頑張っても他の子と比べられてけなされるだけ、自分の未熟さを示されるだけならば、自ずと前に進もうという意欲も失われていく。いくら走っても手に入らない人参を目の前にぶら下げられて走り続ける馬も、その人参に手が届かないと気付くと諦めるだろう。

 その人参こそ親の愛情や関心、自分を認めてくれているという安心感。それが永遠に手に入らないとわかると、諦めて当然。
ここで変わるべきは子どもではなく大人。その子だけを見て、無条件に湧き出る愛情を一つ一つ丁寧に伝えること。自分はいるだけで愛されている、価値があるという安心感は一生その子を支える力となる。
 子どもが幼い時にするのは、その栄養を与え続けて基盤を作ること。決して出来ないことを責め立ててもっと上を目指せと追い立て続けることではない。それは基盤のある人が、然るべきタイミングで自分で考えてすることなのだから。

 それでも健気な子どもたちは人参が欲しくてずっと走り続ける。それを常に得られている子どもたちは健康に走り続け、それが手に入らない子たちはどんどん失速しながら自分の体や心がボロボロになっていることにも気付かずにそれでも尚、倒れるまで走り続けるのだ。

読んでくださって、ありがとうございます。 もし気に入ってくださったら、投げ銭していただけると励みになります💜