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したい人だけすれば良い

 あぁ、新鮮な言葉。
「したい人だけすれば良い」

 学校に行きたい人が行けば良い。
勉強をしたい人がすれば良い。
仕事をしたい人がすれば良い。
恋愛も結婚もしたい人がすれば良い。

 これは「人」を分けているのではなく、「時」を分けている。
勉強大嫌いだった人が、ある時ふと「勉強したい人」になることだってあるし、仕事したかった人が「したくなくなる人」になることだってあるから。

 要はその人のタイミングでいいんじゃない?ってこと。

 今多くの「したくない」でこの国が溢れているのは、「したくないのにしなくちゃいけない」「したくないからこそ歯を食いしばってするべき」(なんだこれ?)の思い込みのせいだと思うんだよね。
「我慢しなさい」の反動というか。

 この動画を見て、目から鱗がポロポロ。同じ様に考えていたからこそ、私はただただ頷くばかりだったけれど、私の中に漠然と渦巻いていたもの。私がうまく説明出来なかったことをわかりやすく根拠も表しながら伝えておられて、言葉に出来ない熱いものが内側で湧き出すのを感じた。
植松さんには感謝しかない。

 このお話の中にあった、海外の方の「学びたい」「働きたい」という気持ち。これを私は子どもたちを指導する中で稀に経験することがある。そしてその子たちに共通して言えるのは「選択できる」環境があるということ。
「成績が落ちること」「レギュラーに入れないこと」「この教科をこのくらい学びたい」「これは後回し」
それを良いとも悪いともしない、自由な環境がある子たち。

 親や先生が先回りして「成績が落ちる=悪い」「レギュラーになれない=残念」「全部まんべんなく力を入れて、全部同じくらいきちんとやれ」
そんな言葉で子どもたちは自分でつまずきに気付く暇が与えられない。
しかも、何をすべきかをいつも目の前に出されてしまうので、自分で探す手間も必要ない。

 要するに周りが「見守る」「待つ」環境がない子は、自分で考えることを止めてしまう。必要ないから。言われた通りにしていれば、とりあえず毎日衣食住は用意されているから生きていくことは出来る。

「それってテストに出ますか?」

 テストに出ることこそが自分に必要なこと、そんな環境が周りにあると子どもたちの価値観はそうなっていく。当然。そして自分にとって役に立つか立たないか、という考え方中心でいると文化的なことやボンヤリすること、他愛もないおしゃべりはほとんどが「役に立たないこと」に分類される。

 一見、役に立つであろうことばかりを"自分で"選んでいるはずなのに、自由に振る舞う人や文化的な活動をしている人を見ると妬ましい気持ちになる。その多くが「ずるい」という言葉を使う。そして自分を慰める様に「先生がダメって言ってるのに」「あんなのお金にならないのに」と言う。先生に言いつけてみたり、相手を罵ったりする。

 でも悲しいのは、その子の意志がそこに入っている実感がないということ。本当は自分もやってみたい。やってみたらどんなに楽しいのか、どんなに難しいのか、自分に合うか合わないかわかるかも知れないけれど。
いやいや、でもそんなことしても時間の無駄だ、意味ないし。それに…
うまくいく気がしない。
うまくいく気がしないんだ。

 実はそれはとっても残念なこと。
してみてもないのに、やってみたい気持ちはあるのに。
うまくいく気がしない。
それは「うまくいったことがない」からなのかな。
それとも「やってみたことがない」からなのかな。

 何にしても、やってみたいことを自分の気持ちに素直になってやってみること。その手応えを直に感じること。そこからの動きをまた自分で選ぶこと。その中に大人が入る余地はない。大人がすべきことは、ただ少し離れたところに立って、命の危険が及ばないかを見守るだけだ。
 学びは子どもに任せよう。

 勉強がめちゃくちゃ嫌になる瞬間があるかも知れない。嫌いだった食べ物を口にしたくなるかも知れない。あのアイドルみたいにダンスしてみたい。自転車で遠くに行ってみたい…それを失敗成功考えずにただ自由に出来たら、私たちは自分の人生にもっとまっすぐ向き合うことが出来る。
人の振る舞いを見ながら、「ずるい」とか「下手だ」とかあれこれジャッジする暇なんてなくなる。自分の人生をいろいろなチャレンジで彩り、楽しく学び味わうことが出来ると思うんだけどな。

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