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慰めの言葉〜懺悔〜

 最近身内が亡くなった。今まで親族、友人、いろいろな人を天国に見送ってきたが、一番亡くなるまでずっと一緒にいた方だった。淋しさはあるけれど、ある意味この世と天国が地続きであるかの様な親しみが湧いたのも、今回初めてのこと。

 そんな風で、いろいろな感情で目の前が曇ることなく、意外と私の頭の中はクリアだった。そこで感じたのは「ことば」のこと。
基本的にどんな言葉もありがたかった。人それぞれの発する言葉でその人の想いが見えてくる感じがあった。時に遠く感じ、全く知らない人でもグンと心が近くにあるように感じることもあった。

「話さない」表現

 最近読んだ平田オリザさんの本「わかりあえないことから」の中にあった「話さない」表現、「いない」表現という言葉がとても好きで、この言葉を見た時に葬儀前後のことを思い出した。人が亡くなった時にかける言葉に悩む人は多い。私もその一人。不用意に言葉を発して相手をもっと深く傷つけてしまってはいけない、と口をつぐんでしまうのだ。
 この度も親しい友人と会ったが、全く身内のことには触れずいつも通りに楽しく会話をして、家に帰った後に「ごめんね…何か言いたかったけどなんて言っていいかわからなくて。」とLINEが入る。私はその人が普通通りにしてくれたことも合わせて、とても嬉しかった。心が温かくなった。そして、無言イコール無関心と決めつけることは絶対にしてはいけないと改めて思った。そのくらい、私の心を大切に考えてくれている先の「無言」だったんだ、と。

 そもそも「わかりあえない」のだから。人の悲しみや怒り、辛さをわかった気になることは出来ても、その本当の深さに触れることは誰も出来ない。
私は「わかったふり」が実は一番当事者にとって辛いことなんだ、と気付いた。否、ずっとそう思ってきたけれど。当事者になってみて確信したのだった。

懺悔

 中学生の時にクラスメイトのお母さんが亡くなったので、クラス全員で葬儀に行くということになった。当時の私にとって母親が亡くなるなんて想像も出来ないことだったと思う。普段公式に夜にクラスメイト全員と出会うなんて滅多にないから、なんとなく学校行事みたいな気持ちで出かけたのを記憶している。
 式場に着いてからのことは覚えていないけれど、その子と話す時皆が口々に「大丈夫?」などと声をかけている中、私は「私たちがいるからね」と言った。その時、その友人の隣にいた仲良しの子が私の顔を見た時の表情が今でも忘れられない。その表情を見て、私は口をつぐんだ。
 私とその友人はクラスでもほとんど話すことがなかった。違うグループで特別な仲良しでもなかったのだ。そんな私から出てくる「私たちがいるから」なんて言葉は、全く気持ちがこもっていない「嘘」に見えたのだと思う。
 道徳の本では、これが模範解答だよね。漫画でもこうして慰めるじゃん。困っている友達にこうして声をかけるのは正しいことだよね、という思い込みで私はこんな普段使いもしない、思ってもいない言葉を発したんだと思う。悲しみの中にいる友人に何かしたい、という気持ちがあったのは嘘ではないけれど。軽々しく発した心ない言葉だったと、今でも思い出す度に胸が苦しくなる。
 言葉を発する前に時々あの友人の隣にいた子の苦い表情が浮かぶ。「それは本当にあなたの本心なの?」と私に問いかける。30年以上経った今でも。

自由なコミュニケーション

 「こういう時は、こう言うのが普通です」とか「あの人、『御愁傷様』の一つもないなんて、冷たいわ」とか。「面接の時はこう言うと気に入られやすいです」とか。私たちの周りには定型文が溢れてて、それを言うタイミング、声の大きさ、目の合わせ方、姿勢…と事細かに模範解答がある。そんな中で私たちは自由にコミュニケーションを取ることを生きる力として習得出来ているのだろうか。

 「人を傷つける可能性がある自分の正直な意見を伝えるには、どうやって伝えると相手にまっすぐ伝わるか」とか「言葉ではうまく言えないことをどうしたら伝えられるかな」とか。基本的には完全に目の前の人の立場や感情にはなり得ない。分かり合えないからこそ、もっと丁寧に伝え方を考えるべきではないか。その経験や知識が、教育機関や大人に足りなさすぎるのが現状。自由な活動、自由な発話はどんどん多忙になる社会の中で削られていき、必要最低限の最短距離を目指す活動や言葉に置き換えられていく。相手の感情を決めつけたり十分理解している風を装って模範解答的な言葉をただ発する。それがコミュニケーションなのだろうか。コミュニケーションをそこまで効率化するなら、何も無い方がマシな様にも思える。

 私は「話さない」「いない」「目を合わせない」「小さな声」「もごもご」…全てがその人の伝え方だと思っている。もちろん、語学講師としてコミュニケーション全般の教育にも携わっているその立場で、も同じことを思う。どんな伝え方でも、じっくり向き合ってあなたの気持ちを受け止めるよ、と静かに耳を傾け、目を凝らして、気配を感じる。その人が「受け止められている」と感じてホッとした時に、ふわっと心が開く。伝わりやすいコミュニケーションのコツを一緒に学ぶのは、そこから。
そこに至っていないのに、安心感も十分に感じないままに「目を合わせなさい」「声は大きく」「言葉遣いがなってない」と表面上だけのコミュニケーションを教えたところで、実際は何も身に付かない。

コミュニケーションは試行錯誤

 コミュニケーションは「意志伝達」のこと。それは手取り足取り人から教えられることなのだろうか。そもそも目の前の人に何かを伝えたい、という気持ちに突き動かされて出て来る自分なりの表現、それをぶつけ合って、受け入れられたり跳ね返されたり宙を漂ったりする経験を経て、方法を見つけていくものであっても良いのではないか。また、自分が周りの大人にされてきた様に、自分の辛さや悲しさ、怒りに寄り添ってくれる人をモデルとして形成されていくものだと思う。

 今語学講師として、一つの型としてのコミュニケーションよりも自分らしいコミュニケーションをゆっくり探す伴走をする私自身も、常に自分自身にコミュニケーションの本質を問い続けている。今でも心が痛む中学生の時の経験は、その後30年以上に渡って私の心の中で疼きながら私を導いてくれている。


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