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試行錯誤しない・させない不思議

自由な教育者

 私はフリーの英語講師。自分の教室を持ち、週に数回は小学校で英語の授業をしたりオンラインで英語を教えたり、未就園児と英語で遊んだり、大人の方々と一緒に学んだりしている。そんな私の毎日は試行錯誤。
もうこの仕事をし始めて15年が経とうとしているが、それでも毎日が新鮮で毎日が発見。生徒はどんどん変わっていき、同じ生徒だとしても環境や成長でどんどん変わっていく。その時のその人の横を一緒に歩んでいると自分から見えるのとはまた全然違う景色が見えるし感情が見える。
 私は「英語教育」という方法でその人と共に歩む。その人の人生のちょっとだけ隣を歩ませてもらう。その速度も歩み方も一緒に愛でるものも、全く同じものがないのは、人が一人一人全く違うからだろう。

 若い頃は自分に自信がなかった。本当に私は正しいことをしているのか、でも一匹狼の様に働き始めた私には組織の様に自分の授業を見て何かアドバイスをくれる人もおらず、見本を見せてくれる誰かもいなかった。
時々研修に出かけてはみたけれど、どれもしっくりこない。人が良いと言うものを無条件で「良い」と信じることは危険だと思っていたから。どうしても自分で実験してみたい。
 そんな自分を「研修も苦手で組織にも入らない、ダメな先生なのかも」と不安に思ったこともあったが、違和感が強烈に苦手な私は、誰かに「こうすれば良い」と教えられそれを飲み込むこともまた強烈に苦手で。
 今思えば15年間そうしてきたように、自分の授業の中で生徒から感じるものを得ながら自分を磨くのが一番合っていたのだと思う。

 私は自由な教育者。この仕事を愛している。

学校現場で感じた強烈な違和感

 小学校に行き始めたのは2011年。
その年から日本の小学校でも「外国語活動」と言う名のほぼ英語活動が始まる、ということを聞いて飛び込んだ。直感的にやってみたい、と思ったのだ。「英語を習おう」と教室にやってくる生徒だけではなく、特に希望もしていない英語経験ゼロの生徒に英語の楽しさを伝えられたら最高やん、という開拓者みたいな気持ちだった。
 現場で6年。延べ13校の小学校で数十名の先生、数百人の生徒と関わった。正直まだ小学校の英語教育は長い実験段階の途中なので、試行錯誤が面白い。

 ただ、時々強烈な違和感に襲われる日がやってくる。それは「研究授業」。いつもは「今日もよろしくお願いしまーす」と声をかけてくださる先生方が慌ただしくなってくる。それもそのはず。研究授業の日は先生方が中心になって進める授業を多くの方が見に来られるからだ。
 突然先生方から指示が出る。ここはこのカードを使って。ここはこれを唱えさせて、こうさせて、こうさせたら、生徒がこうするから…

 私はこの仕事を始めてから、また子育てをしながら「怒らない」様になっている。怒りの感情を抑えるのではなく、他の感情に変えるのだ。理解出来ない時は「怒り」ではなくただ「理解出来ないな。もう少し考えてみよう」侮辱された様に感じる時は、ただその相手の状況を観察する。「構ってほしいのかな」「自信がないのかな」
ただ、久しぶりに単純に強烈に怒りを覚えてしまった。
 久しぶりに怒るので、自分がなぜこんな感情になっているのか戸惑う。なんとか取り繕って笑顔で過ごして家に帰り、自分に問いかける。そして整理をしようとするけれど、怒りが邪魔して整理出来ない。
 そして数ヶ月。やっと整理出来たので忘れない様にこれを書いているのだけれど。

 その怒りはきっと私が授業の中で目の前の子どもたちとの呼応で進めるために組んできたレッスンプランや、目の前の子どもたちとの信頼関係を「研究授業」という名の下にバッサリやられたのが原因だ。
 私が普段自分の授業では経験しないことだったから。そしてそれが同じく子どものためによりよい時間を作り出そうとしている同志(だと勝手に思っている)教育者がしたことだったから、余計に感情が昂ったのだと思う。

 私のプランは遊んでばかりに見えるかも知れないが、そこには自分なりに子どもたちが笑ってくれたらいいな、ここでこれが言えたら一緒に喜ぼう、と組んでいるもので、そこに何の話し合いもなく「これがいいから、これを使ってこれをして」と命令されることで自分への敬意のなさを感じたこと、そしてそれ以上に「こうすれば生徒はこうしますから」とあたかも子どもの気持ちを掌握しているかの様な言い回しに、子どもたちに対しての敬意のなさを感じたからだろうと思う。
 話し合いもなくただ上から命令されてその通りに動く授業では、私は全く楽しめない。私が楽しめないイコール生徒も楽しめない。私がこの15年で得てきたものは、これだったのだと皮肉にも気付かされる出来事になった。

 久しぶりに感じた「怒り」。自問を繰り返すことでなんとかその大きな塊をブロックに分け、少しずつ消化して、私はそこではその現場に従うことにした。それまで全てレッスンプランは私が組んでいた(契約時の依頼がそうだったから)けれど、それを全部学校に戻して学校が作ったプランで動くことにした。子どもたちはきっと戸惑うだろう。だから私は自分にできる限りでその隙間に自分らしさを挟もう。
 反発の気持ちを、自分に出来ること…に切り替えて。私は先生方が授業をしている間、音声教材に徹してその代わり空いた時間は子どもたちのそばで励まし続けよう。

試行錯誤しないさせない

 学校でもった違和感は、私自身が普段自分のボスであり自分の判断に全てが委ねられているフリーという立場であるが故に強烈に私の心を揺らしたけれど。それがトップダウンの社会というものなのだろう、と無理矢理自分を納得させた。
 でも同時にそれが教育現場のシステムの中心になっていることに危機感を持つ。そもそも子どもに日々接する人が目の前の子どもたちを肌で感じながら、その子どもたちから遠く離れたトップから言われるままに動かざるを得ないこのシステム。その中にずっといると、きっとそれが当たり前になって自分がされているように生徒にも「こうさせる」という感覚が当たり前になるのだろうが、それは子を持つ親としても強烈に危機感を覚えることだ。
 実際現場にいると、自分が子どもの頃よりもっと先生方が指示に従っている様に見える。確かに私たちは学校教育の中で「先生の指示に従う」ことを教え込まれ続けてきた。そこで育った私たちが今作っているこの社会はその教育の成果なのだろうが。これが教育なのか。

 以前学校で言われた「他の先生が出来ない英語指導はしないでほしい」という通達も思い出す。「誰もが出来るものをみんな一斉にする」は生徒だけでなく先生にも要求されている。むしろ、先生に要求されているからこそ「実際の社会はこんなものだから」と善かれと思って大人も子どもに要求してしまう。
 よりよいものを作るために創意工夫、協力するのではなく、みんなが同じことを同じ様に出来ることを重んじる社会の中で、私たちは自分らしく生きていられるのだろうか。

 私は、先生という仕事は、試行錯誤をしたり現場の肌感で自分で判断したりする中で成長していくこと、人間関係を熟成させていくことが面白さだと思っている。言われたことを言われた様に、目の前の子どもがどんな状態であれ同じ対応を…はきっとこれからAIがやっていくことだろう。
人としての温かみや判断、自分の興味や強み、失敗した時の謝り方、そんなものを見せてくれる大人のモデルを示すことが出来るのは人間。 誰もが失敗しないで同じことを同じクオリティーですることをトレーニングされても、その仕事はすぐにAIに取って変わられるだろう。

 私が出会う先生方はみんな強みを持っていて、アイデア豊富で、子どもたちとの関係の作り方もいろいろ持っている。その力を試行錯誤の中で磨き続けてほしいと強く願う。それを温かく見守る環境の中で、皆が安心して試行錯誤出来たらいいと思う。

 その安心感を作り出す大人たち、試行錯誤をする大人たちの姿が子どもたちにとって一番の憧れで希望になると思うから。


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