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出来ない言い訳

 人は何かどうしてもしたいことがあったら、どうにかしてしようとする。時間を割いても、予定をずらしてもそれが出来る様に何とかするだろう。

 でも、ちょっと気が乗らないものや面倒なこと、自信がないことは先延ばしにするのは人間の性。私はこれを敢えて自分に許している。
 ただちゃんと認める分、出来ない言い訳をするのは止めようと思っている。自分の気が乗らないから後回しにしています。でも必ずする予定です、といつかの自分を信じる。そして実際、いつもある瞬間にタイミングが来て難なく波に乗る。かつて制作会社で働いていた時も締め切り間近にとんでもない力が出てくることは数々経験しているので、自分への信頼感があるという意味では前向きだ。

 出来ない言い訳をしない、という心がけは今英語指導をする中でたくさんの「言い訳」を聴きながらちょっとお腹いっぱいになっている、というところもあり、また「言い訳」をすることで自分が損することもよく知っているからだ。結局常に言い訳をしている人の中では、「私は悪くない。あれが無いからダメなんだ」が、言い訳をする度に思考にこびりついて思考を冒していく。何でも「誰かのせい、何かのせいにしていればOK」の思考だ。
でも実際の目的は違ったはずだ。それを「する」ことが目的なのであって、「逃れる」ことが目的ではないはず。言い訳をしながらいつの間にかその人はそこから降りて、チャンスを逃し、一番大切な自分自身への信頼も失ってしまう。

 「時間がなかったから宿題が出来ませんでした」という生徒に私は「時間がなかったから?」と尋ねる「いや、面倒くさくて」と言ってくれたら良いのに。学校や世間ではそれらしい言葉を使うと逃れることが出来るから、私にも同じ様にしているのだろう。でも私はここをそんな場所にしたくない。私との信頼関係を通して自分自身への信頼を取り戻して欲しい。
 だから、面倒くさくて宿題をしなかった、という選択をした自分を一旦受け入れて「じゃ、今日のレッスンでは人一倍聞いて話そう」とか「来週は頑張るぞ!」って思えたらそれでいいじゃない?
 言い訳考える暇があったら、そっちに頭と時間を使って欲しい。

 子どもの内にそんな言い訳癖ついたら一生大変だぞ、と思いながら大人の世界にもたくさんの言い訳が存在すると思う。そして大人の方の言い訳はもっともっと悲しい。
「本当は英語学びたかったんだけど、親が許してくれなくて。今でも憧れているんですけどね。今更無理ですよね。」
「海外に行ってみたかった。仕事がずっと忙しくて。もうこの年じゃ行けないですけどね。」
諦めが混じった声を聞くと、ずっとしたいと思っていたことを諦め続けてきたことを悲しく思うし、その決断が親や仕事のせいだったかも知れないが、完全に実現しないにしてもせめて少しでも自分の願いを満足させる方法はなかったのか。何よりも誰よりも「自分の選択だった」ということから目を逸らしていることを、とても残念に思う。

 子どもの「時間がなくて」の主語は何だろう。誰にでも同じだけ時間はあって、それを使うのは紛れもなく自分。そして「宿題をするかどうかは私を喜ばせる為ではなく、自分をもう少しパワーアップさせるか否かの選択である」ということを子どもたちにゆっくり話しながら、同時に「どうしても嫌だ〜と思った週は自分にお休みあげちゃってもいいのさ。でもその分どこかでパワーアップのチャンスを掴んだらいいやん」と伝えている。言い訳をするエネルギーを自分との話し合いに向けろ。

 「私は君たちが宿題をしようがしまいが何ともない。だって私自身はもう英語話せるし、英語で仕事してるんだもん。」と冷たくも感じる様な一言を言い放つのだが、自分のために自分を生かすことを教えてくれる大人が少ないなら、通りすがりでもそう言う人がいてもいいじゃない、そんなノリで伝えている。

 私たちはあまりにも人を自分の人生に介入させ過ぎている。そんな気がする。 

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