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心えぐられる希望の書

 話題の本を読んだ。#教室マルトリートメント 。
いろいろな方のレビューなどで大体内容はわかっていたし私の違和感そのものが綴られているんだろう、と思ったから敢えて手に取らなかった。
 ただ、ある方から「これを読んでどう思うか、知りたい」旨の言葉をいただいて、確かに私自身も散らかった心の中を整理する必要があったから改めてしっかり向き合って、考えをまとめてみようと思った。

違和感を大切に

 私は小さな子どもの頃から「違和感」に弱い人間だった。少しの違和感がストレスになる。それは酷い言葉を人にぶつける友達、忘れ物一つで執拗に生徒を叱責する教師、これはこうあるべきで、あれはああするのが普通…その普通に合わせることが正義みたいな空気。
 
 親が特殊な仕事をしていたせいか、世の中の常識とはかなりかけ離れた日常生活を送っていた子ども時代から、「当たり前」と「普通」が渦巻く小学校に入って私は自分が嫌いになった。

 身の回りには常に小さな違和感。そして時々訪れる大きな違和感。幸い私は親に相談したり話したりして、少し心を整理できていた気がする。ただ、中学高校と上がるにつれてその「違和感」は大きくなって決定的な「疑問」に変わり、身に纏わりつくストレスを振り払う様に私はいろいろなものを「人のせい」にし始めた。そして人のせいにすればする程、気持ちは重くなり私はますます自分のことが嫌いになった。

 一つ言い訳をすると、人のせいにしなければ自分がいなくなる…そんな差し迫った恐怖がいつも私の隣にあった。そんな実感だけはよく覚えている。

教室マルトリートメント

 この本は、優しい響きとは裏腹に「悪い」という意味の「マル」という言葉を使って、教室での不適切対応(指導)について丁寧に綴られたもの。子どもの頃の私が持った小さな違和感から、親になって学校に感じた違和感、実際学校で働いている間に感じた先生サイドの違和感。その全ての違和感が正しかったと確信出来る内容だった。結局私はただ自分を大切に、人を大切に生きていたかった。自分だけでなく、自分の周りの人がみんなそうだったらいい、と願っていた。
 それは人が願う基本的で普遍的、且つ当たり前のこと。
なぜそれが叶わない教育現場がずっと続いているのか、それがこの本に詳しく丁寧に書かれていた。

 以前読んだ本の中に、私が忘れられない記述がある。三浦綾子さんが教師として「お国のために死ぬことは正しいことだ」と信じ切って生徒を導き、終戦後にそれを振り返るもの。それが深く深く心に刻まれている。先生という仕事を高く高くして、それを国のために役立つ人間を育てる便利なツールにしてしまった国。
現場で「こうするのが子どもたちにとって一番良いこと」と信じ切って子どもたちに向かう先生たちの想いや情熱を、国は大いに利用した。そしてそれはかなりの効果をもたらし、多くの若者が戦地に赴いて散った。
そこでふと思う。正に今も何ら変わらない状況だと言えないか。
 三浦綾子さんが深く傷つき、自暴自棄になってしまったのは、自分を振り返り自分の過ちと向き合ってしまったから。

 同じく今の状況は、多くの教師や親、大人たちが自分が傷つかない様に敢えて思考を止めて現状維持していることの結果。先生や親の言う通りにすること、自分の意見は言っても仕方ない、そんな子どもたちを育んできた教育。その子どもたちが大人になった今。大人たちは考えることを随分前に止めてしまったけど、そんな自分を認めるのが嫌でまた考えることから遠ざかる。意見を言ってもその意見さえ大人に良い悪いとジャッジされてきたから、意見を言うことも止めてしまった。でも本当は自分の想いはどこかに置き去りにしてきたのかも知れない。それに気付き心を病む大人が大勢いる。彼らは今堂々と意見を言う若者が眩しくて、自分が情けなくなる。
そんな私たち大人が傷つくことを恐れて自分と向き合わないことで、私たちは同じ歴史を紡いでしまう。国が望んでいることだがそれだとしたら、本当に取り返しのつかない過ちとなってしまうだろう。

 そういう意味で、この本はこれからの日本の教育の行方を左右する救いの書となり得る。そして私が希望を感じるのはこの本がかなり話題になり人気になったこと。今はまだ自分を守ることで精一杯の教師が、内に秘めた情熱や想いをこの本で思い出して自分に出来ることを始めたら、日本の教育は上からではなく下から変わるかも知れない。そんな淡い期待で胸が躍る。

全部人のせい

 私は我が子の子育ての中で、何度か学校と話し合ったことがある。それはクレームと取られるのかも知れないが、ある時は執拗に毎日毎日同じ生徒を責め続けて精神的苦痛を負わせた教師、そしてある時は全く無罪の生徒に「ここはこの場を治めるために『自分がした』ことにして力のある先生に謝るように」と誤った助言をした教師、暑い中長時間立たせて無抵抗な生徒に闇雲に怒鳴り圧力をかける指導、彼らの指導の理由と根拠を尋ねるものだった。クレームというよりは純粋に、同じ教育者という立場からの違和感だった。それらの指導で子どもたちとの間にどんな関係を築きたかったのか。また、何を伝えたかったのか。いずれもハッキリした回答は得られず、ただ謝罪の言葉で終わったのだが。私は謝罪が欲しかったわけではなく、先生方の想いや信じているものを聞きたかった。教育者という立場同士、腹を割って話をしたかったけれど、私が保護者である以上それは難しかった。

 しかしその中である教師は「自分は何を求められているのかわからない。出口のないトンネルの中にいる様だ」と言い、ある教師は「なぜ自分がこのような指導をしているかわからない。」と言った。

 腹を割って話すところまではいかなくても、ある先生と「こんな指導っておかしいよね」と話していたにも関わらず、その先生に役職名がつくと彼女も同じ様に頭ごなしに生徒に高圧的に向かう指導を選ぶ様になったことは残念だった。なるほど、ここにはこういう空気が流れているのだ、と妙に納得した。その学校では度々教師が管理職から厳しく叱責されていたし、職員室での職員同士の激しい喧嘩も、子どもたちの多くが目撃していた。我が子が学ぶ環境として全く好ましくない場所ではあったが、地域の学校なので仕方なく通わせる。でも現場の状況を知れば知る程先生方もギリギリだ、と絶望した。

 そこから私はフィールドワークを始めた。twitterのアカウントを作り、全国の多くの小学・中学・高校の先生、不登校と呼ばれるお子さん自身や経験者、その家族。そして障害を持つお子さんをお持ちの方々と主に繋がった。その数は1,000以上に上った。彼らの日常を見ている中で、教育現場はギリギリというより、もうパンパンで破裂寸前だと確信した。

 この状況を進め、更に現場意識に沿わない政策でどんどん悪化させる文部科学省にも大概腹が立つし、文科省と現場の間にあるあれこれにも疑問は多々あるが、もう「あの人が」「この人が」と言っている場合ではないんだと思う。結局自分が傷つくことを恐れて誰かのせいにして怒っていても何も変わらない。

 この本は、そんな私たちが置き去りにしてきた「本当はこうしたかった」「こうありたかった」を目の前に突き出される、心えぐられる希望の書。
自分と向き合い、自分を取り戻した人から希望が始まる。
現場の空気、自分が思う様に動けない環境を知っているからこそ、この本を読んで「このままじゃ嫌だ」と思った人が横に繋がっていけたらと思う。
 この悪しき習慣、苦い空気が上から下に流れる教育現場で。


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