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『平家物語』扇の的03(ウソ前編)

 いまから書くことは概ねウソなのだが――源義経は、モンゴルに逃げたのちチンギス・ハンとなって大活躍した。
 ウソだ。これはウソなのだ。そんなの、だれもが知っている。
 なにせチンギス・ハンになったのは、武蔵坊弁慶のほうなのだから。

 歴史好きの中には「明智光秀は秀吉に負けたのち天海と名乗って僧として江戸幕府を支えた」とか「死体が出ていないのだから、信長は実は本能寺から脱出したのだ」とか、歴史上の人物を生きながらえさせたがる者も少なくない。
 そもそもなぜ義経=チンギス・ハンだという流言がまことしやかに囁かれているのかと言えば、それは義経の最期に関わる。奥州・平泉の高館(過去マガジン参照)で自害をした義経だったが、討ち取られたその首が、まさしくネックになっているのだ。
 討ち取られた義経の首は、鎌倉に来るまで40日以上かかっており、いくら現在の岩手県からの輸送とはいえ、それはあまりにも時間がかかりすぎであった。
(cf.鎌倉-平泉間とほぼ同じ距離である東京-大坂間を一般人が歩いて3週間~1か月ほど)
 逃げおおせ、別人の首を用意した、という揣摩臆測が出ても不思議はない。

 そして、ここで注目すべきは歌舞伎の演目『勧進帳』(かんじんちょう)だ。あらすじを極めて雑に説明すれば、頼朝から逃げ奥州・平泉へ向かう途中に安宅の関所で捕まりかけた義経一行が、弁慶の機転に救われる、という話だ。
 ここで義経と弁慶は、主従関係を入れ替える。部下のふりをする義経を、主人役の弁慶は杖でしこたま叩いて関所の番人の目を欺き、無事に関所を通過する。
 近年映画好きならずとも思わず口にしたくなったワードに

「俺たち」「私たち」
「「入れ替わってるー!」」

 があると思うがその萌芽はもう鎌倉時代にはあった上、1840年の初演以降には「主君を殴ってまでピンチを乗り越えようとする部下の弁慶に、関所の番人は感動して逃がしてやる」というバージョンアップも追加される。
 実は安宅の関所から以後ずっと、義経と弁慶は入れ替わり、死ぬまでそのまま旅を続けていたのだ。
 もちろん歌舞伎のほうでは関所を通過するためとはいえ、部下のくせに主君である義経を殴ってしまったことを、元の立場に戻って泣きながら謝るシーンがあるけれども……。

(明日へ続く)

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