StockSnap_物語

物語を研究すること

 ブログの引っ越しを決めて、でも、これから書きたいことで、これまでに旧ブログで書いた記事と絡めたい話が多くある。じゃあ、せっかくだから、昔の記事もnoteに、と思い、少しずつこっちにも投稿してみます。まずは、ブログを始めた2016年の記事。まだ、仕事を辞めて行った大学院に通っていたとき。

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 仕事を辞めて大学院へ進学することを決めた時、後輩に、何を勉強するのかと聞かれたことがあった。文学、と答えた時、一緒にいた恋人が「2年間、趣味に走るんだよ」というようなことを言った。その時は、冗談として笑ったけれど、修了の迫り来る今となって思い返すと、もうまさに、という感じ。

 文学研究はおもしろいし、価値があると思う。じゃあ、その価値はどこにあるのか、ということを、折角院に通っているので、考えてみる。

 文学の論文を書く時(文学に限らないか。)、冒頭に「はじめに」を書く。この「はじめに」では、論文にした研究の意義を述べるけれど、この「はじめに」、書くのがそう大変ではない論文と、非常に厄介な論文がある。

 前者は、既に研究の意義が確立されている作家や作品に関する論文。夏目漱石や谷崎潤一郎のような、既に多くの研究がなされている作家・作品については、研究の意義が自明のものとされている。現代作家では、村上春樹なんかがその筆頭。だから「はじめに」で述べるのは、これまでどのような研究がなされてきたか。それを踏まえて、自分の研究にはどのような新しさがあるのか、ということになる。

 後者は、今まで研究されたことがない作家・作品に関する論文。これまで研究されたことがないから、その作家・作品について研究する意義を明確にしなければいけない。これが、それはもうひっじょーにやっかいで。

 ぼくが研究している作品も、研究の意義が確立されていない。「はじめに」に苦労して苦労して、何故こんなに書くのが大変か考えた時、思い至ったのは、論文の「はじめに」で問われている研究の意義と、自分が考える研究の意義に、距離があるからじゃないか、と思い至ってしまった。

 「はじめに」で問われるのは、その研究の、アカデミズムにとっての意義だ。「学問的に」どのような意味があるか、証明しなければならない。だから、最もオーソドックスな方法が、過去になされた様々な研究との関連を述べること。既にアカデミズムで認められている研究と関連する研究は、アカデミズムにおいて価値がある、とされるから。

 でも、そうすると、過去になされた研究と関連しないものには、アカデミズムとしての価値がない、ということになる。もちろん、関連を示さなくても価値を証明できればよいのだけれど、それこそ難しい。(理系の学問や経済学など、研究が社会のために役立つ!と明示しやすいものは、もう少し簡単なのかもしれない。でも、文学は、それを明示するのが難しい。)

 しかし。そもそも、アカデミズムにおける意義を証明することに、なんの意味があるのか。

 ぼくにとっては、ある物語について、さらっと読んだだけでは分からないけれど、読み込んでいくと多様な解釈ができる、ということを示すことは、とてもおもしろいことだった。その、おもしろい、ということだけで、研究する意味があった。特定の物語や、延いては物語全般は、様々な可能性をはらんでいる。読む人に、多様な世界を示す。そういうおもしろさを示すことは、人の世界を広げる。それは価値あることだと思う。

 研究は、おもしろいから、それだけで価値がある。そう言ってしまった瞬間、ぼくはアカデミズムには進めないことが決定した。それは、趣味である。

(確認しておきたいのだけれど、ぼくはアカデミズムが培ってきた文学研究を、とても素敵なものだと思っている。また別の記事で紹介したい、文学研究の方法論の歴史的な変遷は、これまたとてもおもしろい。文学の価値を考え続けてきて、それが認められた歴史。)

(文学研究とは何をするのか、具体的に知らない人が多いかと思うけど、方法論の変遷を見ると、それが良くわかると思うので、後日の記事を読んでくださいな。)

 ぼくにとっての文学研究の価値を書いてみた。ちなみに、一般的には、文学の価値は「人間の追求」にあると考えられていると思う。文学研究の価値も、文学に現れた「人間」を掘り下げていくことだと思う。そのへん、今後また考えてみる。

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この後に書いた、文学研究の方法論の歴史の記事も、また後日投稿。

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