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スーパー就職氷河期に気づきを与えてくれた友人の言葉。

昨今の日本では言葉を軽視されている。
SNS上の投稿をみていると顕著に感じられる。

人が発する言葉においては、政治家の発言が年々ひどい有様だ。
政治家の差別発言やその後の謝罪会見など、倫理的にも論理的にもちょっと大丈夫かと心配になるほどメチャクチャな言葉が目につく。

そもそも政治家は言葉の運用能力が必要不可欠であることは間違いない。
そして、政治というのは「人を動かす」のが仕事である。
人を説得し動かすための重要な要素として3つがあげられる。

①ロゴス(論理)
②パトス(感情)
③エトス(信頼)

これらは政治家やリーダーだけでなく、日常の社会で人とコミュニケーションするうえでも欠かせないものであろう。

私の人生において、友人との会話により心が動かされ気づきを得た忘れられない言葉がある。

そのことについて書いていきたい。

(*人物名は仮名)

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大学の同じ学部で出会った”たまティ”という友人との話である。

彼との出会いは正直よく覚えていないが、ある地方都市出身のスーパーミーハーキャラで、しかも丘サーファーであった。
”たまティ”はいつもサーフブランドの服ばかりを着ていた。
一時期Dragon AshのボーカルKJこと降谷建志がド派手なイエローのダウンジャケットでCMに出演していた。
即座に”たまティ”は眩しいほどのイエローのダウンでキャンパスを闊歩していた。

僕たちの共通点は金がないことだった。

そしていつも2人でアルバイトを探していた。
一番思い出深いアルバイトが”たまティ”の地元方面での海のリゾートホテルの住み込みのバイトである。
2ヶ月半という長期にわたりホテルで働いた。

”たまティ”は要領がよいうえに、相手の懐に入るのことが超絶に上手い。
とくに年配者や偉い人の心をつかむのが得意で、”たまティ”のヨイショとクシャクシャとした笑顔で周りの大人たちはイチコロだった。
こういうのが「人たらし」というのかと当時の私は理解した。

リゾートホテルのバイトは深夜の皿洗いや、海の家の仕事など過酷な仕事が大半である。
どう工作したのか”たまティ”は最初からエアコンの効いた快適な空間におけるフロント業務というもっとも楽な仕事についていた。

僕は当初は調理場のアシスタントに配属されたが、すぐに”たまティ”の根まわしのおかげで僕はフロント業務につくことができた。

フロントの仕事はお客様の車のキーを預かり駐車するというものもあった。
しかし僕は車の駐車が苦手でありいつも悪戦苦闘していた。

そして、ついにやってしまった!

マニュアル車に手こずり、思いっきりお客様の車のフロント部分を壁にぶつけてしまったのだ。

「たまティー、やってもうたー。」

と言った後、車のキズと半泣きの僕を見た”たまティ”は腹を抱えて笑い転げていた。
深緑のフォルクスワーゲンのゴルフワゴンをぶつけた時の感覚は一生忘れられないだろう。

その稼いだ金で”たまティ”とバリ島旅行に行ったりと、楽しい大学生活を満喫していたが、あっという間に就活という悪夢のようなときを迎えた。

しかも雇用倍率1倍を唯一割った2000年3月卒の生粋の超氷河期という地獄のような就活であった。

一流企業の採用枠は国立早慶枠以外は無いに等しい状況であることを先輩たちから聞いていた。

就活当初はミーハーにも広告、出版を中心にOB訪問をしていたが、現実の厳しさに早くも挫折し、就活するやる気が失せてしまった。

そんな時に、前回の記事にも書いたように母が骨髄ガンとなり余命半年の宣告を受けた。

しかし、私には落ち込んでいる暇などなかった。
なんとかして私には絶対に内定を勝ち取らなくてはならないと考えた。

もう自分の希望業種なぞどうでも良かった。

なんとしても有名企業もしくは東証1部上場企業に入って最後に母に安心して欲しい思いで必死に就活した。
しかしながら、何十社受けても、ご縁がございませんでした通知ばかり。

私は焦りと自暴自棄のあまり何週間か酒をかっくらい、最後の賭けにでた。

自分の大学の就職部の部長に直談判しに行ったのである。

母の余命の話やらバイトエピソードで根性があることをアピールしまくった。
「とにかく大企業でならどこでも懸命に働きます!」
と思いの丈を部長にぶつけた。

その就職部長は最初は私の服装が気に入らないと説教をし始めたが、唐突にその場で電話をしてくれて、東証1部の大手建設会社の面接アポを取ってくれたのである。

絶対に落ちることが許されない面接の前日。

僕は”たまティ”をいつも2人で通っていた地下のさびれた喫茶店に呼びだし、自分の面接の練習相手になってもらった。

その時の”たまティ”は地元の大手企業の2社から内定をすでにもらっていた。
尊敬できる先輩がいる会社の方へ入社意思をしめしたものの、バブル期のように拘束旅行や接待を受けていた。
その会社にとってそれほど彼が必要な人材であったのだろう。
それにしても、あの氷河期のなか軽々と内定を決めた”たまティ”はただ者ではない。

そんな”たまティ”に当時の僕の頭で必死になって考えた建設会社への志望動機を披露した。

「私は大学時代のアルバイトで設備工として現場を経験しました。よく現場仕事は「きつい、汚ない、危険」と3Kと言われます。私は確かに3Kであると感じましたが、もう一つのKがあることに気づきました。そのKとは「絆」です。1つの構造物を創るうえで様々な職種の方々の力を結集し、まさに「絆」によって仕事をしていく喜びを知りました。事務職採用ではありますが、現場の皆さんとの絆を感じられるような仕事をしたいと思い建設業を志望しています。」

このように今でもこの志望動機は覚えている。
我ながら青臭く、歯の浮くような恥ずかしくなるようなセリフである。

これを聞いた”たまティ”は、

「すげ〜いいよ!うん、マジ熱くていい。絶対に大丈夫。」

この言葉を聞いて僕は心から安心し緊張もとれ、面接当日でも自信を持ってこのクサい志望動機を話すことができた。

「絆」の話が役員に届いたかどうかはわからないが、その建設会社から無事に内定をいただけた。

そして、母が亡くなる前に大きな会社に入れたことを報告できた。
このことは僕の人生において母への唯一の親孝行ができたと今でも思っている。

———

無事に内定を決めた後、僕と”たまティ”は久々に2人で飲みに行った。
2軒目にクラブに行ったせいもあって終電に乗り遅れた。

同じ学部に川ちゃんという少し変わった奴がいた。
彼は電通や博報堂という大手広告代理店に異常にこだわっていた。
僕も川ちゃんと電通の大学OBへ訪問し、自己PRなどみてもらいに行ったが2人ともケチョンケチョンに罵倒され心が折れた経験がある。

そんな川ちゃんはこの氷河期で大手広告代理店など受かるわけもなく、それでも諦めずに就職浪人するということだった。

川ちゃんはいつも車で移動していて、呼ぶと迎えにきてくれるお人好しで優しいやつだった。

そんな川ちゃんを僕たちは利用して「川タク」と称して「アッシー君」のように使っていた。今考えるとひどいと思うが、大学においてもヒエラルキーがあり悪びれもせずにいた自分がいた。

その日も川ちゃんを呼び出し”たまティ”の家まで送ってもらった。

たしか”たまティ”と川ちゃんはさほど面識がないように覚えている。

僕が助手席に座り、川ちゃんと近況報告をし内定をもらったことを話した。

そして川ちゃんは僕に言った。

「ていうか、その会社っていけてんの?」

僕は言葉がつかえ、何も言えなかった。
なぜなら川ちゃんのように広告がやりたいとか、仕事に対しての夢というモノを持たずにひたすら大手企業にはいることしか頭になかったからだ。
もちろん母の病気という理由があったにせよ、自分のやりたいことなど当時は何もなかった。
そのような想いが川ちゃんの一言であらわになり、心がうずいた。

沈黙の後、後ろ座席にいる”たまティ”が突然に怒気をふくませ川ちゃんに話しだした。

「お前はどの立場でそんなことが言えんの?こいつは必死になって、こんな状況のなかで大きな会社で内定を勝ちとったんだよ。電通やらなんやら知らねぇけどコイツの会社は社会のインフラを支えている立派な企業なんだよ。ハタチを超えたいい大人が親の金で学費を無駄にはらって留年する意味が俺にはわからねぇ。お前はただ働いて自分で稼ぐことから逃げてるだけなんだよ。いけてんの?って何様のつもりなんだよ。コイツに謝れ!」

いつも温厚でおちゃらけキャラの”たまティ”が本気で怒っていた。
彼が怒ったところをみたこと自体が初めてだった。
僕のために”たまティ”が言ってくれたことに対して、涙がでそうになった。
そして彼のおかげで、社会情勢や就職氷河期など関係なく自分で社会の中で生きていく覚悟ができた。
僕はグッと涙をこらえて言った。

「たまティ、もういいよ。ありがとう。川ちゃんは悪気はなかったんだ。俺はどこの会社でも良かったことは事実だから。」

広告代理店、電通といった会社のブランドにこだわった川ちゃん。
業種に関係なく、ひたすら大手企業にこだわった僕。
その時の2人は似たりよったりで社会に出て働くという意味を全く理解できてない点で同じであった。

一方、”たまティ”は自分を育ててくれた地元で貢献したいということを常々話していた。
僕たちとは次元が違うほど成熟した大人だった。

だからこそ”たまティ”の言葉には力があり、人の心を動かす。
僕は彼の言葉で働くという意味に気づかされ、覚悟を持つことができた。

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社会人になっても”たまティ”とは年に数回は会っていた。
一緒にドイツW杯も現地応援しに行ったりもした。

そして地元企業でバリバリと働いていた”たまティ”は早々に結婚した。
私も招待され彼の地元のホテルの披露宴会場をみて驚いた。
150人以上の規模の盛大なる披露宴だったのだ。

そして何よりも驚いたのが、彼の最後の御礼スピーチであった。

それは地元企業、地元産業への想いや地元の方々へ恩返しがしたいというような内容であった。
結婚式のスピーチでは全くなく、まさに政治家が地元支援者に対するようなスピーチであった。

”たまティ”のスピーチは安倍さん菅さんのように原稿を読んだものではなく、冒頭に書いたように①ロゴス(論理)②パトス(感情)③エトス(信頼)の3つを兼ね備えた素晴らしいものだった。

そして案の定、数年後に地元企業を辞め彼は政治家に転身したのだ。

彼は衆議院選挙を3回も当選し今でも国会議員である。

国会という伏魔殿のような場所で”たまティ”は大きなモノを背負い闘ってきたことだろう。

僕は”たまティ”とは一生の友達だと思っているが、あえて自分からは連絡は取らないし彼の政治活動も観ないようにしている。
でも選挙の時だけは毎回のごとく心配している。

今月31日に行われる衆議院選挙においても何があるかわからない。

無事に当選することを祈るのみだが、万が一のことがあったら全力で助けたい気持ちでいる。

肩書きや地位などがあるときは自然と人は集まってくる。
しかし、そういうものがなくなり苦境に陥ったとき、集まっていた人たちは去ってしまうであろう。

僕は苦境の時にこそ側にいてあげたい。
それが本当の友情だと思う。















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