真実の利他をつらぬく人に出会った、嘘のようなホントの話
世界的な新型コロナウィルス感染拡大のなか、「利他」という言葉が注目されています。
最近読んだ新書「利他とは何か」においてフランスの経済学者ジャック・アタリの「利他主義」をとりあげていました。
しかし、私は彼の言う「合理性利他主義」に違和感を覚えました。
利他主義とは、合理的な利己主義に他なりません。
自らが感染の脅威にさらされないためには、他人の感染を確実に防ぐ必要があります。利他的であることは、ひいては自分の利益になるのです。
日本にも「情けは人のためならず」ということわざがあるように、他人にしたことの恩恵がめぐりめぐって自分のところにかえってくるというロジックは昔からあります。
最近、書店のビジネス書コーナーには「GIVE」や「与える人になる」などといったフレーズをうたった本が多くみられます。
ビジネス戦略上においても利他的に振舞う行動が、結果として自己の利益を生むという古来からの商習慣に立ち返ってきているような気がします。
そういった自己を主体とした「合理性利他主義」が結果的にパンデミックや経済活動を救うことは否定しません。
しかし、本当の利他とはやはり違うと思います。
私は「利他」という言葉を聞くと、鎌倉時代に浄土真宗を広めた親鸞の「他力」という思想を思い出します。
ブッダの時代におけるインド原始仏教は座りっぱなしでいたり、僧が身体を傷つけたり、太陽を1時間も見つめて目をやられたりと大変につらいものでした。
つまり、自らで解脱し成仏するというのが本来の仏教の姿だったのでしょう。
こうした厳しい仏教は日本の風土にはあわなかったのでしょう。
そこででてきたのが親鸞や法然が説いた阿弥陀信仰です。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば阿弥陀様が救ってくれる。
赤ん坊がいくら泣いても、お母さんがあやしてくれるような母性的な雰囲気があります。
日本は地震や台風と天災が多い国です。
そんな国土の中で自力の限りを尽くしても、それでもどうにもならない困難な状況を古来から日本人は経験してきました。
また、親鸞は「悪人正機」といった概念で、人間は煩悩具足の凡夫であり、どんなに善行を行ってもどうしようもないのが人間だと言っています。
自然や貧困という無力な状態、そしてどうしようもない罪を背負った人間は「他力」にすがるしかありません。
そんな人間を救済することが阿弥陀様の本願であり業の力です。
阿弥陀仏が人間を救うことはオートマティカルなものであり、止まらないもの、仕方がないもの、どうしようもないものなのです。
こういった親鸞の教えから、「利他」というのは人間の意思の外部によって成立しているものだと感じます。
このような「利他」というものに想いをはせていると、今から20年ほど前に出会った阿弥陀様のような「おばちゃん」に出会ったことを思い出しました。
この「おばちゃん」から本当の「利他」というものを教わった話を書きたいと思います。
食欲旺盛マックスであった高校2年生の私は、父と母と3人で地元のトンカツ屋へと外食に行った。
妹はちょうど学校行事でいなかったように思う。
ロース定食大盛りを注文した後、唐突に父から母が乳がんであることを告げられた。
ガンという言葉に私の精神はひどく動揺し、高校生ながら母の死を想像してしまい完全に思考停止した状態となっていた。
そしてあれだけ好きだったトンカツを一口食べただけで吐き気を催した。
メンタルが胃を弱らせることに初めて知った日でもあった。
なぜ、父はあんな重い話をする場がトンカツ屋という設定だったのだろう?
母は放射線治療を経て乳がん手術を行い、右側の乳房を除去した。
がん細胞は除去でき、母は通常の生活に徐々に戻っていった。
母の右側だけ詰め物が入った特注のブラジャーをみるたびに、自分の胸がギュッと締めつけられていた。
それから4年後、母は急に背中が痛みだし寝こんでしまった。
私は大学生になっており、いつものように昼前の時間帯に起きて自宅の居間に行った。
そこには知らない「おばさん」が座っていた。
そのおばさんは私に言った。
「すごい気ね。気がみなぎってる。」
当時私は茶髪の中途半端なロン毛で、しかも剛毛なので起きると凄まじい寝癖がつき、いつもスーパサイヤ人のように髪の毛がそそり立っていたのである。
私は初めて会った人なのに、前からいる家族のような錯覚を憶えた。
その「おばさん」はイソカワ(仮名)と名乗り、母とは1ヶ月前にお食事会で意気投合し仲良くなったとのことだった。
イソカワさんは見た目は小柄で品のあるチェーン付きのメガネをかけており、その奥の瞳は色素の薄い茶色がかった鋭い目が印象的だった。
全体的にお金持ち感が漂っていて、年齢不詳な感じがどことなく黒柳徹子を連想させた。
母は出会って1ヶ月のイソカワさんにすっかり気を許していて、少し元気を取り戻したように何かを多弁に話していた。
しかし、その日も会話の途中で母の背中が痛み出した。
イソカワさんは母をうつぶせに寝かせ、痛い箇所に手をあてだした。
母は気持ちがいいと言いながら即座に眠ってしまった。
眠った後もイソカワさんは真剣な面持ちで手をかざし続けている。
母が2年前から飼っているシーズー犬がひょこひょこと寝ている母の横にピッタリとくっつき、一瞬で眠ってしまった。
イソカワさんが言うには気を循環させてあげていると言うことらしい。
痛みも和らぎ、心地よく眠れるという。
「貴方もすごい気をもってるから、たまにお母さんの痛いところに気をあててあげて。」
その後も毎日のようにイソカワさんは家にきていた。
ある時は小さな水晶を母の痛い箇所にテーピングではりつけていた。
なんと翌日、その小さな水晶は濁っていた。
イソカワさんいわく、水晶は邪悪なものを吸収してくれるという。
また、暇な時に不思議なことを色々とやってみせてくれた。
タバコをイソカワさんが両手でしばらく包み込み、そのタバコを吸ってみるとスカスカになってしまい何の味わいもなくなってしまった。
ある時は紅茶を飲んでいたとき、イソカワさんがその紅茶に気をしばらくあてた、その紅茶を飲むと無味無臭のお白湯のようになった。
そんなイソカワさんに対して私は宗教か何かの勧誘なのかと疑っていたが、毎日会っていくうちにそんな疑念もすっかりとなくなり、私はイソカワさんにべったりと懐いてしまった。
母が寝ている間、私はイソカワさんに自分の話を聞いてもらっていた。
イソカワさんは積極的に自分の話はしないので、いつも私から一方的にイソカワさんへの質問ばかりだった。
・息子さんがおり、アメリカ留学していること。
・大きな水晶玉を持っていて、その人の未来や様々な状態が見えること。
・たまにホームレスの人たちのボランティアをしていて、話しを聞いてあげていること。
一方で、一向に背中の痛みがおさまらない母は大きな病院で検査を受けた。
結果はガンが骨髄に再発しており、ステージもかなり進行していて余命も半年と宣告された。
帰りぎわ車で父は泣きじゃくり、私もどうしていいかわからなかった。
父は母と妹には余命のことを告げず、抗がん剤治療で延命の方針をとった。
現在、漫画「東京卍リベンジャー」を読んでいてハマっているが、このマンガのように過去に戻れるとしたら、私はあの余命宣告された時に戻りたい。
抗がん剤治療ではなく、モルヒネなどを活用した緩和ケアの治療方針への変更を父に必死で説得したい。
なぜなら母は抗がん剤治療で見ていられないほどの苦しみを味わい、身体も心もボロボロになって亡くなってしまったからだ。
母が亡くなるまでの入院中もイソカワさんはほぼ毎日のように病院にきてくれた。
母は抗がん剤で吐き気と倦怠感、髪の毛もなくなり、家族とイソカワさん以外は誰も会いたくないようだった。
母は社交的で多くの知人がいたが、イソカワさん以外には結局最後まで会わなかったように思う。
母はあきらかに鬱病のような状態で口数も少なく虚ろな表情であったが、イソカワさんは母の身体をさわりながら話しを聞いてくれていた。
母にとってイソカワさんが唯一の救いだったことは間違いない。
なんとか10ヶ月を持ちこたえた母の最期の日。
私とイソカワさんと妹の3人で集中治療室の中にいた。
母が心臓マッサージを受けている間、私と妹は泣きじゃくり叫んでいた。
そして、医者は心臓マッサージを止めた。
私はその医者の胸ぐらをつかみ、叫んだ。
「まだ諦めずにやってくれよ!」
医者の言葉を今でも憶えている。
「お母さんはよくがんばったから。もう。。」
私はイソカワさんを咄嗟に見た。
イソカワさんは胸に手をあてながら、慈愛に満ちた表情で首を振った。
そして泣き叫ぶ私と妹を静かに抱いてくれたことを憶えている。
その後、イソカワさんは私たちの前には現れなかった。
お葬式などでも見かけなかった。
記憶にないのは私の精神がおかしくなる出来事があったかもしれない。
それは、長崎にいる母の実の姉が母の遺骸の前で言ったことが引き金だった。
「私はこの子から電話でいつもあんたの話を聞いてたばい。あんたが苦労ばかりかけちょったけん、こげんなことに。」
私は自分の友達や親戚の前であったにもかかわらず、泣きじゃくった。
嗚咽が止まらず、そして自室に引きこもった。
私は昔から悪さばかりして母に迷惑をかけていたことは事実だったからだ。
宮崎にいる父の姉である「宮崎のおばちゃん」がすぐに部屋に入ってきてくれて、ずっと「そんなことないからね。」と抱きしめながら諌めてくれた。
「宮崎のおばちゃん」は幼い頃から私を可愛がってくれた大恩人である。
しかし、お葬式が終わり3週間ほどはまともに眠れずにボーッとまさに頭の中が真っ白な状態であった。
悲しみと母に親不孝してきたことへの想いがグルグル渦巻き精神に異常をきたしていた。
夜の早い時間にうたた寝していた私はふとベッドからドアを見ると、白いモヤモヤとした人の形のシルエットがうっすら見えた。
私は「あー母がきてくれたんだ。」と寝ぼけながらただ眺めていた。
そのシルエットが消えたあと、唐突にイソカワさんに電話したい衝動に駆られた。
イソカワさんの携帯に電話し、母の姉に言われたことや精神的にしんどいことなどを話した。
私が話し終えたあと、イソカワさんは夜中の12時ごろに行くからとだけ言ってくれた。
そして夜中にイソカワさんはどデカい高級ボックス車で私を迎えにきた。
こんな感じの白いアルファードのような車だった。
150cmに満たないくらいのイソカワさんが運転席では一掃小さく見えた。
私は不安を覚えながら、恐る恐る助手席に乗った。
すると、イソカワさんは無言のまま首都高速に入り、すごいスピードで走り出したのだ。
夜中の首都高は空いていたが、時折走り屋がビュンビュンとせまってくる。
イソカワさんは走り屋に負けないスピードで車線変更を繰り返しながら飛ばしていく。
「私は眠れないような悩みがある時はいつも首都高をぶっ飛ばすのよ。」
イソカワさんは無表情で言った。
幅の狭い首都高でイソカワさんのどデカい車がハイスピードで他の車を追い抜いていくたびに冷や汗がでた。
窓の上の手すりを掴んでいる左手はもう汗でびっしょりだった。
1周で終わると思いきや、2周目に突入した。
だんだんと私もスピードになれ爽快感を味わえてきた。
確かにこの猛スピードだと一つハンドル操作を誤ればイソカワさんと2人で母のもとに逝ってしまう。
そのスリルを感じると、全てのことがどうでも良くなってきた。
そして、3周目に入ると外の夜景をみる余裕さえでてきたのだ。
こんな1千3百万人以上いる東京という大都会でみんな必死で生きていて、そんな中で自分も力強く生きていかなければならないと感じてきたのだ。
イソカワさんは高速をおりて私に言った。
「少しは気分が晴れたでしょ?」
私は「今まで、、、ありがとうございました。」とお礼を言った。
それはなぜだかイソカワさんと会うのが最後だと思ったからだ。
そして、私はずっと疑問に思っていたことを質問した。
「なぜ出会ったばかりの母に死ぬまで側にいて、助けてくれたんですか?」
イソカワさんは少し考えてからこのように話してくれた。
「あなたのお母さんと初めて出会った時、会うべくして出会ったと感じたの。お母さんに何かをしてあげようと思ったわけではなくて、自分の意思ではない何かが私を行動させていたのよ。それを「ご縁」とも言うし、「理」ともいうわね。とにかくお母さんの人生の何かが私を呼んだんだと思うのよ。」
それを聞いて妙に納得した自分がいた。
6人兄弟の末っ子であった母は幼い頃に両親を亡くし、親戚をたらい回しにされて育った。
とてつもない孤独感のなか自力で長崎から大阪に行き、父と出会って私と妹を産み、家族をつくった。
49歳という若さで亡くなる前に、何か大きな力によってイソカワさんは母のもとに呼ばれ、母はイソカワさんに人生の最期に救済を求めた。
神様なのか仏様なのか、ご先祖さまの力なのかはわからない。
とにかく説明しがたいあるちからによって、出来事がもたらされる事が人生には起きる。
やはり、イソカワさんは母の「ご縁」や「理」によって現れた方であって、衰弱している私を心配した母がイソカワさんを遣わせてくれたのだろう。
これ以上イソカワさんと私たち家族が関わりを持つことは許されないような気がした。
イソカワさんとの首都高ドライブから20年以上経つが、あれ以来イソカワさんとは連絡をとっていない。
もし何かのちからが働いて誰かしら私のことが必要とする人が現れたら、私はイソカワさんのようにその人を全力で救済できるような人間でありたい。
「利他」というテーマで書きはじめた物語が、つい当時を思い出し長いモノとなってしまいました。
最後まで読んでいただいた方には、自分ごとに付き合っていただき感謝いたします。
冒頭に書いた通り、「合理性利他主義」は自己の利益を考えて他人に奉仕するという考え方です。
ロジック上は経済合理性にかなったものでも、現実は矛盾に満ちていてうまくはいかないような気がします。
矛盾にみちているのが人間であり社会の実像だと思います。
だからこそ物語で描いた「ご縁」や「理」という少し神秘的で論理的でないものにより人間は太古から生きてこれたように思います。
真の「利他」というものは自己の意識の外から無為にやってくるものだと、このイソカワさんの話しを思い返しながら感じた次第です。
過去に母について書いた記事がもう1作ありますので、もしよければ読んでいただければ幸いです。
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