向き合うのも、手放すのも、生きてゆくのも、自分なんだ!
底打ち体験、という言葉を耳にした事があるでしょうか?
生きづらさ、に関する書籍などには散見される表現ですので、ご存知の方も居られるかと思いますが、
改めてご説明すると、
これより下は無い、という窮地を、底、と表し、
その窮地に陥った体験を、底打ち体験、と言います。
どうして、生きづらさ、を語る時に、底打ち体験、が出てくるのか、と言うと、
生きづらさを抱える人が、その生きづらさを手放そうと思い立ったなら、
決断する事が必要です。
別の言い方をすれば、腹を括る、事が必要不可欠なのです。
ところが、生きづらい人は、決断する事が苦手です。
腹を括る事が出来ません。
決断する事、腹を括る事が不得手な、生きづらい人が、生きづらさを手放すに至る時、
逃げ場が無く、これより下は無い、という、底を打った状況に追い込まれ、
どうとでもしろ、というある種、開き直った心境になって初めて、自分と向き合い、生きづらさを手放すに至る事が多くあるのです。
たとえば、多額の借金を背負ったり、詐欺にあって全財産を失ったり、大切な人を失ったり、住む家を失くしたり、様々な、奈落の底に転がり落ちる様な体験をキッカケに、自分と向き合い、生きづらさを手放すに至るケースは少なくありません。
けれども、底打ち体験はある種、偶発的なものであり、求めて得られる体験ではありません。
では、生きづらい人は、底打ち体験無しには生きづらさを手放す事は出来ないのか、と言うと、そうでは無くて、
逃げ場が無く、此処より下も無い、だから何が何でも、生きづらさを手放す、という心境になる事が何よりも大切、ということだと思っています。
これまで、生きているだけで苦しくて、苦しいからこそ、生きづらさに気がついたにしても、
慣れ親しんだ感覚から脱却する事は、怖いですし、
何より、自分と向き合うということは、決して触れたくない、心の傷に触れるという事です。
其処に踏み出すならば、それこそ、底を打った場合と同等の、覚悟を持って、腹を括る必要があります。
これは、強く願えば叶う、といった神頼みや精神論ではありません。
先に述べた様に、生きづらい人は、腹を括る事が極端に苦手です。
どうして腹を括れないか、と言うと、
人生が他人事に思えている、のです。
生きづらい人は、自分の人生だ、と自覚しているつもりなのですが、
生まれた時からずっと、自分の人生を他人事の様に眺めて生きて来たのです。
そうなってしまったのは、
その生きづらい人の親が、子供を一人の人として尊重する事無く、道具として所有し、利用する親だったからです。
その人が、自分として生きる事を親は許しません。
その人が自分として、自分の人生を歩んだら、所有する事も、利用する事も出来ないから、許しません。
その人は、親の便利な道具という役割を与えられ、親の人生に取り込まれて生きます。
親の人生に取り込まれて、道具という役割を全うしているのですから、
自分の人生は、他人事、に感じられるのです。
神頼みでも、精神論でも無く、その事に、気づく、ということが、どうしても必要です。
気づいた後に為すべき事は、今記事では割愛しますが、
先ずは、自分が自分の人生を、他人事、の様に眺めている、という事に気づかない事には、何も始まりません。
生きづらい人が、抱える生きづらさに気がついて、カウンセリングを受けたとしても、
自分の人生を他人事として捉えている、という事に気がつかない限り、足踏みが続きます。
その人は、あなたは私の生きづらさを、どう解消してくれるんですか、というスタンスでカウンセリングに臨みます。
他人事なのです。
お客様の感覚です。
心療内科や精神科、カウンセラーを回遊魚の様に渡り歩く人は、
生きづらを手放すのは自分である、という事が解っていません。
自分を救えるのは自分だけである、という事に気がついていません。
魔法の杖を求めて、優れた魔法使いを探す旅を続けます。
以前に投稿した記事の中で、世の中でもっとも要らない職業の一つは、心理カウンセラーである、と書いた事があります。
何故なら、
気づくのも、向き合うのも、手放すのも、生きてゆくのも、自分、だからです。
自分を救う事が出来るのは、自分自身だけ、です。
医者も心理カウンセラーも、その人が生きづらさを手放す為のツールに過ぎません。
主役は、今生きづらいその人自身です。
其の事に気がつく事が、これから始まる、自分の人生、の第一歩です。
他人事のまま終えるのは、勿体ない様に思います。
生き抜いたその人は、強く、
生き抜いた道のりは、尊いのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム