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親友の君へ

子供の頃からの友人がいますか?

私は小学生の時からの友人がいました。

「俺」「お前」と呼び合う関係が何十年も続きました。

地方の出身なので、お互いの進路によってバラバラになって会わない時期があっても、何故か引き寄せ合う様に、ごく近い場所に居住することになり、

家庭を持っても、離婚をしても、取り巻く状況がどの様に変わっても、

「俺」と「お前」は何十年も続きました。


勿論、お互いの生活があり、少年時代の様に頻繁に会うような事は無くなったのですが、

それでも、間が二年空いても、三年空いても、
会えば少年時代にタイムスリップするかの様に「俺」「お前」と呼び合い、
大人になってから知り合った人とは全く違った親しさを感じてました。


周囲の話しを聞くと、小学校時代からの友人と大人になってからまで、
こんなに長く付き合いが続いている者はあまり居らず、

私は彼を「親友」だと認識してました。


少年時代、青春時代を一緒に過ごした連帯感、一体感は特殊なものです。

私は度々お話ししている様に機能不全家庭に生まれ、そこで育ちました。

彼と知り合うずっと前、物心ついた頃には、既に生きづらさを抱えていました。

私の生い立ちは複雑ですが、彼もまた、複雑な家庭で育っています。

中学生の時に、彼が「父親からひどく殴られる」と打ち明けました。

私は私で虐待されていたので、彼の話しを聞いて、「自分だけじゃ無い」と思い、

心配するでも無く、同情するでも無く、こともあろうに安堵したのです。

そして、
「周りを見てみろ、甘やかされてる奴ばっかりだ、俺もお前も厳しくされることに感謝しなきゃいかんと思う」
と言い放ちました。

実際、当時の私は
「愛あればこそ厳しく教育されている」と本気で思い込んでいたので、彼に言い放った言葉に嘘は無かったのですが、

なんとも見当違いなことを言ってしまったと今は思います。

それから数年後、16歳になった時、私と彼を含む仲間数人で原付バイクの免許を取ることにしました。

当時、私達の住む地域の全高校では、免許を取ることが禁止だったのですが、

まだ
「高校生は免許を取らない、バイクに乗らない、バイクを買わない」
の三ナイ運動が本格化する直前で、校則違反にはなるものの、
内緒で取ることが出来ました。

銘々に必要書類を揃える際、どういう経緯かはわからないですが、彼は戸籍謄本を見たらしく、自分が養子と記載されている事を知ったことから、両親に尋ねたところ、

彼と彼の姉を、母親が連れて父親と再婚したもので、父親と血の繋がりがあるのは、彼の弟だけであることがわかったとのことでした。

彼も彼の二歳上の姉も記憶に無いとのことなので、
両親の再婚は彼が生まれて直ぐのことの様でした。

自分を殴る父親が、血の繋がりが無いことを知り、彼は荒れました。

私は、というと、自分の生きづらさにあっぷあっぷで、

彼に親身になってあげることも、優しい言葉をかけることも無かった様に思います。

そもそも生きづらさの只中に在る者は、感情も動きが鈍く、自分のことですら、他人事に感じられる世界に生きてます。

友人のことを思いやるフリはできても、本当に思いやる余裕など無いのだと思います。

彼は家庭の秘密を知ることで、荒れながらも親の呪縛から解放された面があるのではないかと思います。

とは言え、彼の場合は虐待された過去があり、
虐待した父親と血の繋がりが無いことを知り、
その出来事を直視したものの、自分の心の傷は癒やされていない様にも思います。


私は私で、親の呪縛に気が付いたのは四十歳を過ぎてからです。

彼との関係性が長く続いたのは、虐待されたことによって負うこととなった心の傷が引き合った結果なのかも知れないと思うのです。

今思えば、私も彼も人との関係の持ち方が、極めて共依存的なのです。

大人になってから、彼と会ったときに、
「俺はお前がどう思うかが、いつも気になってた」
と言われました。

それを聞いて、私は驚きました。

私も何か行動する時、彼がどう思うかが気になって仕方が無かったからです。

つまり、私は心の真ん中に親を座らせて生きて来ました。
その上、私は親の横に彼を座らせていた様です。

何か行動を起こす時、また行動した結果が出た時、
私は親がどう思うか、ということが頭を過ります。
次に彼がどう思うか、が気になるのです。


どうやら彼もまた、私と同じ感覚を持って生きた様なのです。


私は彼との半世紀にもなろうかという、付き合いを振り返りました。

私は彼を慮ったか、
私は彼を尊重したか、
私は彼を信頼したか、

私と彼は「親友」だったのか。


私と彼は共に、心に大きな傷を持っています。

その傷が引き合った面は大きいと思います。


傷が引き合ったかどうかは、別にしても、

人は成長しますし、世の中の全ては変化し続けます。

共に成長しながら、長く続く関係性が理想ですが、
人はそれぞれに、成長の速度もテンポもまちまちです。

ひとりが早く成長して、もうひとりがずっと遅れて成長した頃には、繋がりが途絶えてしまっていることなどは当たり前にあることです。

ましてや私と彼の様に、子供の頃に出逢ったならば、これから双方がどの様に成長するのかわからない段階の出逢いです。

成長に見合った人間関係を構築しては卒業することを積み重ねるのが自然なことなのだと思います。

すべからく変化する世の中で、ずっと関係性を維持することは、難しいことです。


私は訳あって彼も暮らし、私も暮らす都会から、九州の故郷に居を移しました。

互いに心を占拠し合う様な関わり方をするよりも、
自分の人生を、自分が納得出来る様な色に染め上げたいと考える様になりました。

少なくとも今現在、繋がりを維持する事は自然では無いと思っています。

諸行無常であるからこそ、

一期一会である有り難さが有る様に思います。


たとえ共依存であっても、

共に過ごした時間は人生の一部であり、

その頃があって、今がある。

感謝と共に、親友の君にエールを送ります。

      良き人生を



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。



NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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